第8話 二人の会話

私は食堂でヴィルヘルム様と食事をつづけていたけれど、ふと、さっき彼が言った『旦那だから当然』という言葉を思い出した。


(だ、だんな……)


耳の先まで熱が走り、肌の内側がじわりと火照っていく。

意識したくないのに、昨夜、力強い腕に抱き上げられた感覚が鮮明によみがえる。

背中を支えた温もり、頬に触れた心臓の鼓動、微かに香った香水のにおい――。

そのひとつひとつが、今この瞬間の空気と重なって胸を締めつけた。


言葉を返そうとしても、喉がきゅっとつまる。

かわりに、指先だけが落ち着きなく動き、テーブルの上の温かなパンをいじることしかできなかった。


だめだ、いつまでたっても、この空気に慣れない……。


重厚な木壁に囲まれた食堂は、燭台の明かりに満たされながらも、どこかひんやりとした静けさを宿している。

銀器が時おり小さく鳴る音さえ、心臓の鼓動を際立たせた。


けれど、少しずつでも言葉をかわせている――

その小さな積み重ねが、不思議と背中を押してくる。

もう一歩、踏み出してみたい。

胸の奥の鼓動がそう告げていた。


私は思い切って口を開いた。


「あの、グランツ公国では、食事中に話すのはマナー違反だったりしますか?」


ヴィルヘルム様は、ほんの一瞬、眉をわずかに上げる。

けれど、すぐにふっと息を吐き、低く落ち着いた声で答えた。


「グランツ公国は戦場じゃねぇ。口を動かしても、とがめるやつはいない。

でもまあ、食事中に話すなら、かみながらしゃべるのは下品だ」


「はい……気をつけます」


祖国の実家では、食事の席で口を開けば、すぐに父や母の冷たい視線が走り、言葉を重ねれば手が飛んできた。


食卓は、静かに食べ物を飲み込み、ただ見ばえをととのえるためだけの空間で――声を出すことすら許されなかったのだ。


でも、ヴィルヘルム様は、食卓で私がそっと声をかければ、自然に返してくださる。

とがめることも、形ばかりの沈黙を強いることもない。

その何気ないやりとりが、私の心を、やわらかく解きほぐしていく。


言葉では言い尽くせないほどうれしくて、つい私は質問をつづけてしまうのだった。


「それと……その。ヴィルヘルム様は、なぜ妻が必要だったのでしょうか?」


意を決して問いかけた言葉が、食堂の静けさに溶けた。

まるで、なに言ってるんだこいつ?みたいな視線をむけられる。


ヴィルヘルム様はわずかに目を細めたあと、視線をテーブルに落とし、低く短く答えた。


「俺の容姿を見れば、その理由はわかるだろ」


……え?

思わず息をのむ。

彼の容姿を、あらためて見つめる。


切り込むように整った頬の線、力強い肩と胸板。

どこから見ても、地球基準でいえば堂々たるイケメン。

でも、この世界では不細工……?

胸の奥で言葉が空転する。


たまに忘れそうになるけど、この世界の文化では、彼の顔立ちは「恐ろしいほど醜い」とされているのだ。

城で見た、周囲の視線――

それが、彼の口にした「理由」の重さを証明していた。


ヴィルヘルム様は淡々とつづけた。


「グランツ公国を治める者は、妻がいる。だが俺には、どんな縁談もまともに成り立たなかった。王妃という地位をエサにしても、誰一人として寄ってこねえ」


ヴィルヘルム様は語りながら、視線を窓の闇へ向けた。

その横顔は、硬い石壁のように表情をうしない、わずかな息づかいさえも沈黙に吸い込まれていく。


「理由は単純だ。俺の顔が“人のものではない”と恐れられているからだ。

幼いころから、俺の顔を見た者は身をひく。舞踏会では母の手を離れた少女が泣き出し、貴族の令嬢は誰も俺の手をとらず、踊りの誘いを受けようとしない。

剣を持てば鬼神、笑っても怪物――そう呼ばれてきた」


彼の言葉には、苦みがにじんでいた。

その苦さは、長い年月積み重ねた断られ続ける経験からしか生まれないものなのだろう。


「それでも、領地を守るために婚姻は必要だった。

貴族たちは、俺に妻がいないことを政の弱点と見て、取りつぶしの口実にしようとしていた。

だから、同盟の条件としてお前との婚姻を受け入れた。……俺に残された道は、それしかなかった」


何か言わなくては――。

でも「あなたはイケメンです」と言ったとしても、この世界ではお世辞にしかならない。

胸の奥で言葉が渦を巻き、出口を見失った。


……どうしよう。

私は息をのみ、視線をそらした。

そして、思わず口をついて出たのは別の問いだった。


「……それと、ヴィルヘルム様。

“グランツ公国の君主”というのは、どういうお仕事をされているのですか?」


冷や汗を流しながら、話題をそっと別の場所へ移す。

ヴィルヘルム様は、再び視線をこちらに戻した。


「……君主の仕事ってのは、森と共にある。

春は雪解けで増水する川の見回り、夏は森にのびる街道の修繕と盗賊退治。

秋は狩猟と備蓄の監督、冬は深雪に閉ざされぬよう木をきり、村をめぐって薪を配る」


語るごとに、その瞳は北の森を思い描くように奥深く沈んでいく。


「森を守るってのは、木を守るだけじゃない。道をひらき、村をささえ、獣と魔を遠ざける。山の湧水の量を量り、雪崩の恐れがある斜面を見極める。

人と森が一年を生き抜くために、見えないところで手を動かす仕事ばかりだ」


わたしは息をのんで聞き入った。

胸の奥に、知られざる森の暮らしが次々と浮かびあがる。


ヴィルヘルム様は、ほんの一拍置いてから、さらに声を低くした。


「だが一番大切な仕事は、公国の北の境界線から出てくる魔物の退治だ。

あの森は古くから魔霧が湧き、異形の獣や得体の知れない影が国境を越えてくる。

俺たちはそれを狩り、押し返す。――民を魔物から守るのが役目だ」


「……民を魔物から守る、ですか」


口の中でそっと繰り返したその言葉が、燭台の灯に揺れながら胸に沈んでいく。

ただの地図の線ではなく、命と暮らしを守る最後の壁。


ヴィルヘルム様は短くうなずき、淡い笑みをひと筋浮かべた。


「そうだ。貴族の女は野蛮だと嫌うが、必要な仕事ってわけだ」


重い責任を肩にのせ、ただ国のために存在しつづける――

その静かな覚悟が、短い言葉の底に確かに息づいていた。


私の胸の奥が、静かにゆれた。


「すごいですね……とても、大切な役目なんですね。すばらしいお仕事だと思います」


「おだてても、何も出ねえぞ」


「おだててないです。ほんとうに、そう思っただけで」


自然に笑みを浮かべて返す。

その瞬間、彼は目をふせて小さく息を吐き、パンを手にした。


「俺の顔を見ながら食事をしているのに、吐かないどころか、話をきく余裕もあるだなんてな。さすが悪女だ。かなり図太いらしい」


燭台の灯りが、私たち二人のあいだをやわらかく照らす。

食堂に流れる時間は、先ほどよりも少しだけ穏やかになっていった。

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