第8話 すれ違い

 例の胸への接触事故から一週間。ヴィティはロンシャオに会いに行かなかった。理由は至極単純。気まずいからだ。


(あのくらいの接触、子作りするなら序ノ口なのに……)


 ぎゅっと後ろから抱きしめられて胸を掴まれた。見ず知らずの人間だったならともかく相手は元々種が欲しいと望んでいた相手なのだからむしろ積極的に誘えば目的を達成出来たのではないか。


(目的を達成したら山に帰って…………そこにロンシャオはいないのね)


 最初の頃はそれを当たり前の事だと考えていた。ただロンシャオと交流を続けていくうちに彼のことが知りたい、仲良くなりたいと思うようになっていた。種を貰う事が最優先ではなくなってしまっていたのではないかとあらためて彼女は自覚する。


(……そう、よね。種を貰ったらそれでおしまいなのよね。ロンシャオは遠い地……ヒノモトの人間でヘルトゥルタンには大会に出るために来ただけ。今こうして滞在しているのも私に恋について教えてくれるためで……)


 そう考えると気まずいという理由で会いに行かないのは彼の時間を浪費させているだけではないか。


(……ホテルの一室じゃ本格的なトレーニングは出来ないだろうし……私の都合に付き合わせてるのが申し訳ないわ)


 会いに行けば嫌な顔せず我が儘を聞いてくれるロンシャオの事を思うと罪悪感がふつふつと湧いてくる。もういっそ彼に拘るのではなく種を蒔くのに乗り気な男性から種を貰った方がいいのではないか。


(……でも……私は彼がいいわ……ロンシャオとの赤ちゃんがほしい……)


 ルミニュイ族の事だけ考えるなら数が増やせれば誰だっていい。最初の頃の、ロンシャオに会う前ならそう割り切れただろうにとヴィティは自分でも制御できない感情に溜め息をついた。


(もっと短い期間で済ませるつもりだったのに。彼との日々が楽しくて……)


 これまでの自分とは違う遠回りで臆病な自分自身にヴィティが頭を悩ませていると、ピンポンと呼び鈴の音が聞こえヴィティは玄関へと向かう。


 それからロンシャオに教えられた通りに扉の小窓から呼び鈴を鳴らした人物を確認する。扉の前に立っていたのは……ロンシャオだった。


(ロンシャオの方から来てくれるなんて……初めてだわ)


 普段はヴィティがロンシャオのいるホテルに押し掛けるためロンシャオからヴィティのアパートに来たのは初めての事であった。ヴィティはどうしたのだろうと思いながら玄関の鍵を開けて扉を開く。 


「どうしたの?」

「その……相談したい事があって来たんだ」

「相談?」


 こちらを訪ねて来た理由を聞きヴィティは首を傾げる。自身がロンシャオに質問したり頼る事はあってもロンシャオが彼女を頼るの事は今までなかった。


「えっと……外は寒いでしょう。中に入る?」

「……いや……出来れば俺の部屋で話したい」


 ヴィティが部屋に招き、ロンシャオもそれに応じるように玄関に脚を踏み入れようとして立ち止まる。どうしたのだろうとヴィティがロンシャオを見上げるとロンシャオは不自然にバックしてすぐに玄関から出てしまった。


(あ……多分彼も気まずいのだわ)


 アパートの玄関で起きた事を思い出しロンシャオとヴィティは頬を赤らめ、数秒の沈黙の後ヴィティは羽織るものを着てロンシャオの部屋へ共に向かうのだった。


 ❆❆❆


「それで相談って?」

「最初は一人で考えていたのだがドツボにはまってしまってな。……師匠への手紙を書きたいんだ」

「師匠……」


 机に置いてある紙と筆、それとゴミ箱の中に積み上がっているぐしゃぐしゃの丸い紙の玉から筆を走らせるたびにああでもないこうでもないと悩むロンシャオの姿が目に浮かぶ。そこまで頭を悩ませるほどにロンシャオにとっては大切な師匠でありその師匠への手紙の相談に自分を選んでくれた事にヴィティは分かりやすく表情には出さないものの耳を振って喜ぶ。


「ああ。師匠は口減らしに山に捨てられた俺を拾ってくれた恩人でな」

「……そうなの」


 サラリと打ち明けられたロンシャオの過去にヴィティは驚くがその語りに悲しみはない。むしろ誇らしそうな、柔らかな表情をしていた。親に捨てられた事に同情して寄り添うべきではないと判断し、頷くだけに留めた。


「……親に捨てられて心を荒ませた昔の俺は野蛮そのものだった。生きるために山の獣達や山を歩いていた商人を襲って暮らしていた。師匠の時も食料を奪ってやるつもりで襲撃したんだが……力はあっても技量はなかった俺はあっけなく負けた」

「まあ」


 思いの外野性味溢れるロンシャオの過去にヴィティは目を丸くする。今の口下手ながらも誠実な彼からは想像も出来ない。


「俺の事情を知った師匠は俺をケダモノから人間に戻してくれた。住む場所も食べ物も衣服もくれて我が子のように育ててくれたんだ」

「じゃあロンシャオにとってお師匠様はお父さんなのね」

「ああ。俺は師匠の役に立ちたかった。恩に報いたくて師匠が代々受け継いできた道場の経営を手伝うようになった。それと同時に武も習い強くなるうちに周囲もリュウタンの後継者はロンシャオだろうと認めてくれるようになっていた。だが……」


 それまでは幸せそうに師匠との過去を話していたロンシャオであったが話を進めていくに連れてその声のトーンは低くなっていく。


「道場の掃除をしていた時に偶然師匠と知り合いの声が聞こえてきてな。いつもなら聞かないように掃除を続けただろうがその会話に俺の名前が出てきたからこっそり盗み聞きしてしまったんだ」

「……何を話していたの?」

「師匠の知り合いの武闘家は直近に街一番の大会で優勝した俺を『まだ若いのに大人顔負けだったな。あれほどの強さを持つ若者を後継者に出来て羨ましい』と褒めてくれた。それに対して師匠は…………『今のロンシャオを後継者にするつもりはありません』と言った。『私の後継者にするには足りないものがある』ともな」

「……」


 そう話すロンシャオの顔は険しく、悲しげに眉を下げている。心配になってヴィティが思わず手を重ねるとロンシャオはそれを振りほどくことなく「そんなに情けない顔をしてたか」と苦笑する。


「……正直その頃の俺は思い上がっていた。力も技量も礼節も身に着け師匠を継ぐに相応しいのは俺だという周囲の言葉に舞い上がって自分が選ばれるものだと思いこんでいた。だから自分の後継者にはふさわしくないと暗に話された時、頭が真っ白になって…………旅に出た」

「え?」


 てっきりそれからお師匠様に自分の何が足りないのかと直談判して言い争いになる流れかと予想していたヴィティだが当てが外れ、驚く。


「……あの頃の俺は今以上に単純な男だった。後継者にするには足りないものを実力や実績だと思いこんで『世界最強の男になってきます』と書き置きを残して最低限の荷物と溜め込んでいた小遣いを持って修行の旅に出たんだ」

「……師匠と話してからの方がよかったと思うわ」

「……俺もそう思う。だが……もし実力以外でふさわしくないと言われてしまったらと思うと怖かった。俺は……師匠から逃げてしまったんだ」


 それからロンシャオは修行に明け暮れ各地の大会で実績を重ねてついに世界最強を決めるヘルトゥルタンの大会で世界最強の男になったのだと語る。


「……私も見てたわ。でも不思議だったの。せっかく優勝して栄誉を得たのにどうしてちっとも嬉しくなさそうなのかしらって」


 旅に出た経緯と理由を聞いてヴィティは何故あの時ロンシャオが嬉しくなさそうなのか、その理由が分かった。


(……旅の目的を果たしたから……師匠と会わなくてはいけない。話さないといけない。それが怖かったんだわ……)


 姿形は成熟した大人だが師匠の事になると拾われた頃の小さな子どもになってしまうのかもしれないと不安そうに目を伏せるロンシャオを見て彼女は思った。


「……あの時お前に恋を教えてくれ、好きになってくれと言われた時俺は戸惑った。でも同時に……それなら師匠と会うのを先延ばしに出来ると、そう思ってしまった」


 問題の先送りにお前を利用したのだと話す彼は後ろめたそうに俯いているがヴィティは特に思うところはなかった。むしろなるほどと納得したくらいだった。


 初対面の女の非常識な言動や行動に対して面倒見が良すぎるのではと疑問だったからだ。むしろその人間らしさに好感を抱く。


「いつもはひたすら体を鍛えて師匠の事は考えないようにしていた。だがお前と話して共に過ごしていくうちに……師匠が何故俺を後継者としてふさわしくないと言ったのか分かった気がするんだ」

「そうなの?」

「ああ。昔の俺は一度親に捨てられた。俺を拾ってくれた師匠から捨てられないために後継者として師匠に認められたかった。それを師匠は見抜いていたんだろう。『力とは、強さとは健全な肉体と精神に宿るのですよ』とその在り方を教えてくれていたのにそれを単なる格言としてしか受け取っていなかった」


 そう自嘲した後、ロンシャオは緋色の瞳をヴィティに真っ直ぐ向け触れていた手のひらをあらためて握る。


「……お前と出会って俺は変わった。武の道ではない普通の人間として、何でもないただの男として過ごすうちに大事な事に気づいた」

「……大事なことって?」

「……お前が言っていた事だ。『私はあなたじゃないから。言ってもらわないと分からないもの』と。当たり前の事だが俺はそれを避け続けていた。それでは前には進めない」

「ロンシャオ……」

「……それでも怖くてズルズル先延ばしにしていたわけだが……この一週間お前に避けられてあらためて思った。このまま何をしなければお前とも師匠とも中途半端に終わってしまうと」

「……ご、ごめんなさい。ちょっと顔を合わせにくかっただけで嫌いになったわけじゃないのよ」


 一週間足が遠のいてしまった件を言われヴィティは傷つけてしまったかもしれないとひやりとしながら謝る。しかしロンシャオは首を左右に振る。


「……ああ。それは俺も同じ……というより俺が完全に悪かったから謝らなくていい。……事故とはいえ……無断で触ってしまったからな」


 二人はその時の事を思い出し互いに気まずげに目を背ける。それから妙に長く感じる沈黙の後、ロンシャオはその空気を入れ替えるように咳払いをした。


「……とにかくだ。俺は逃げるのを辞める。師匠と向き合う事にした。だから手紙を書こうと思ったんだが……俺は自分の気持ちを形にするのが苦手なんだ。口でも文でもな」

「それで私に……嬉しいわ」


 ルミニュイ族であるヴィティに父と呼べる存在はいない。しかし親を想う気持ちは理解しているつもりだ。だから私でよければ役に立つわとヴィティは微笑む。


「何を書きたいの?」

「それが自分でも分からないんだ。突然旅に出た謝罪と目的を果たしたので帰りますと書くだけでは……はぁ…………帰ったら叱られるだろうな」


 そう溜め息をつくロンシャオの顔は少し幼く見える。やらかして親に説教される前の悪戯小僧そのものだ。そんなロンシャオをヴィティは愛しく思った。


「多分ね。でも……それは心配してだと思うの。私に父はいないけど……お母さんがね、私がしきたりのために山を降りる前に言ってくれたの。『皆は役割とかしきたりとか言うけど関係ないわ。子を作るのが嫌なら観光するだけして帰ってくればいいわ。誰がなんと言おうと私はヴィティの幸せが一番だから』って。多分ロンシャオのお師匠様も後継者とか関係なくロンシャオ自身に幸せになってもらいたいんじゃないかしら」


 ルミニュイ族のしきたりを当然のものと教育されてきたヴィティにとって母の嫌ならやらなくてもいいという言葉は衝撃的だった。やらないという選択肢があるなんて思いもしなかった。


 ヴィティ自身はしきたりに肯定的であったためすべき事は変わらないが選択する権利を与えてくれた事そのものが嬉しかったのだ。


 きっとロンシャオの師匠も自分の後を継ぐ以外の、別の生き方があるのだとそのうち話すつもりだったのではないのだろうか。


「俺自身の幸せ……か」


 ヴィティの言葉にロンシャオは噛みしめるように頷いて、書く内容が浮かんだのか手紙をサラサラと書き始める。それから何度も筆を止めて、しばらくしてから文字を綴るのを再開する。たまに手紙の内容に相談に乗りながらも師匠に向けた文章を自分が見てしまわないよう横向きに寄り添うように座って待っていると筆を動かす動きが止まりロンシャオの体がヴィティの方へ向けられる。


「……俺は旅の目的を果たした。これから俺は一旦ヒノモトへ帰る。そしたら……次はお前だ」

「……え?」

「師匠と話したら結果がどうあれここに戻ってくる。そしたら……」


 真剣な眼差しを向けられ胸を高鳴らせるヴィティであるがそのドキドキは更に加速する。ロンシャオが深呼吸をした後、正面からヴィティを優しく抱きしめたからだ。二度目の抱擁にヴィティは驚いて体を震わせる。


「……っ……!?」

「……お前の望む世界最強の男の種をやる」


 照れたように、秘事のように耳元で囁かれ、その言葉の意味を理解した瞬間にヴィティの心臓はドッドッドッと速まっていく。全身を包んでいるぬくもりと待ち望んでいた言葉に彼女はおそるおそる口を開いた。


「いいの……?」

「ああ。……それとこれをやる」


 ロンシャオはヴィティを抱きしめたままの状態で右手だけをポケットに移動させ小さな袋を手に取ると袋から見覚えのある瑠璃色の蝶の髪飾りを取り出した。


「え……これって……この前の……」


 それはシャミィへの土産を買うために行った装飾品店でヴィティが素敵だと思いつつも購入を見送ったものであった。ロンシャオは髪飾りを器用にヴィティの真っ白な新雪のような髪に挿し込む。


「……穴が空きそうなほど熱心に見ていたからな。去り際も耳を下げながら見つめていただろう。だからお前をアパートまで送って…………解散した後に寄って買っておいた」


 解散というにはダイナミックなあの凄まじい勢いで装飾品店に向かったのだと思うと店員さんは凄く驚いただろうなと勝手に想像してヴィティはクスリと笑う。


「ふふ。よく分かったわね」

「……俺は装飾品には興味がない。だからあの店にいる間は…………お前を見ていたからな」

「私を……でもどうして? これ、結構高いのに」

「……男が女に贈り物をするのはヒノモトでは当たり前の事だ」


 耳を赤くしながらそう話すロンシャオであるが本当はただの女ではなく好きな女と言いたかった。だがそれを口に出すことが出来ない。その結果。


(あ、なんだ。特別な事ではないのね)


 ヴィティは髪飾りを贈られる意味を単なる親切だと受け取った。ヒノモトで男が女に髪飾りを贈るのは『共にいたい』、『あなたを護る』という特別な意味があることをヴィティは知らなかった。


 ……更に種をくれる理由も今回の会話の流れから恋愛的な好意ではなくなあなあになっていた関係の区切りと感謝によるものだと考えた。


「と、とにかく。俺は一度ヒノモトに帰る。それで話をつけたら……次はお前の目的を果たそう。かなり遠いから一月は待たせてしまう事になるが……」

「……平気。待つわ」

「分かった。戻ってきたらちゃんとお前に…………」

「……?」


 何か言いかけて、それから口籠るロンシャオをヴィティはジッと見つめる。数秒の間視線を交わらせる二人であるが先に逸らしたのはロンシャオであった。


「……………戻ってきたらあらためて話す」

「そう」


 ロンシャオが何か自分に大切な事を言おうとしているのを感じたヴィティは緊張しながら身構える。


 しかしロンシャオは日和った。抱きしめて種を贈ると宣言し髪飾りを渡した時点でいっぱいいっぱいであったのだ。


 それから思い立ったが吉日と言わんばかりにロンシャオは少ない手荷物を纏め、出国の手続きを済ませた。


 あっという間に出発の日を迎え、ヴィティはロンシャオを見送りに来ていた。


「気をつけてね」

「お前もな。前も話したがここは治安がいい国だが絶対に安全なわけじゃない。なるべく人の多い場所を歩け」

「ええ」


 ロンシャオの言葉に頷いた彼女はようやく自分の目的を果たせるという安堵と目的を果たした後はロンシャオとの別れにを迎えるだろうと寂寥に心が激しく浮き沈む。ロンシャオが去った後、ヴィティはその場から去り自身の借りているアパートに帰るのだが……。


 ……ロンシャオが種をやると言った意味も髪飾りを贈った想いもヴィティには伝わっていなかった。そのすれ違いによって起きた出来事で彼が修羅と化す事をまだ二人はまだ知らない。

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