黒い心臓

泉紫織

愛するそやつ

 わたしは感動した。確かに感動したのだ。昔からずっと悩まされているこの現象に名前がついたことに。

 それが来るときは、ただただ苦しい。笑うことなどできやしない。胸の辺りが気持ち悪くて、目は何も写してはいないというのに、視界がぐるぐると回る。

 心臓は少し左に寄っているという。でも、わたしの感じる心臓は、みぞおちと呼ばれるところの少し上にある。肋に囲まれた奥底、体の芯にどかりと居座っている。

 問題はそやつにあるのだ。そやつはまるで息をするのを拒むかのように、わたしが酸素を吸うたびに軋む。押しつぶされているかのように、重たい悲鳴を上げる。

 わたしには、そやつが真っ黒に染まっていくのが見える。重たく冷たい鎖に巻かれ、無理やり弾き出された鼓動で、そやつは真っ黒い血液を全身に吐き出すのだ。

 息が詰まる。意識がその真っ黒い心臓にすべて向けられて、頭の酸素がなくなっていく。

 何が原因か、ずっと考えてきた。わたしを悉く苦しめる黒い心臓は、何から来ているものなのか。

 怒鳴る声、がんじがらめの檻、萎縮した心。

 引き落とされて消えていく数字、全速力で漕いでも漕いでも終わらない労働、いつの間にか機能を失った休日。

 挙げればきりがないが、そのどれも違うとそやつは言う。


「ストレス反応ですね」

「ストレス反応?」

「ええ、人によって表現の仕方は違いますが。ある人は心臓がぎゅーっと押されると言い、またある人は心臓が痛むと言っていました」


 最初に浮かんだのは、安堵だった。わたしが表現にこだわった文豪だったわけではないのだ。人間に当たり前の反応なのだ。決して、わたしがおかしいのではない。

 次にやってきたのは、感動だった。ああ、これだけ苦しめられてきた現象に、名前がついたんだ、と。

 これなら、わたしは安心して黒い心臓と向き合えるはずだ。そう思った。

 少しの間、そやつはわたしから離れていた。存在を隠していたのだろう。

 そしてまた最近になって、わたしは鎖と黒い臓物とその悲鳴を感じるようになった。

 名前を知ったとて、変わるわけではないのだ。当たり前の話。

 そやつは非常に厄介で、その黒さに揺蕩っている間は苦しくて仕方がないのに、それなのに、ずっとこの黒を忘れたくないと感じてしまう。わたしは浸っていたいのだ、この毒に侵された心臓に。

 苦しい、助けてほしい。

 でも、誰も助けないでほしい。ずっとこのままでいたい。ひとりにしてくれ。

 ああ、わたしはわたしの黒い心臓を愛しているのだ。名前など、知らなければよかったのに。このまま何色を足しても変わらない純粋な黒になって、死んでしまいたい。

 

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黒い心臓 泉紫織 @shiori_izumi_89

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