第5話 目覚め


1日目


目が覚めた。


天井が見える。知らない天井だ。いや、知っているはずの天井なのかもしれない。分からない。


体を起こそうとして、違和感に気づいた。腕が、重い。いや、重いのではない。金属だ。両腕が銀色の義手になっている。脚も同じだ。胸に手を当てると、規則正しい振動が伝わってくる。機械の心臓。


俺は、誰だ。


部屋を見回すと、机の上に分厚い手記があった。表紙に「レオンの日記」と書かれている。レオン。それが俺の名前らしい。


傍らに、手紙が置かれていた。


「目覚めたら、これを読んでください。あなたはレオン。勇者です。記憶の大部分を失っていますが、それは死の呪いを断つために必要な処置でした。詳しくは手記を読んでください。私たちはあなたの仲間です。——エリス」


勇者。その言葉が、妙にしっくりくる。


手記を開いた。最初のページ、聖剣を抜いた日の記録。平民出身の青年が、勇者に選ばれた日。それが俺だという。


読み進めていく。仲間との出会い、戦い、そして別れ。左腕を失い、両脚を失い、右腕を、目を、心臓を——。一つずつ義体に置き換えられていく過程が、淡々と記されている。


ジン、トーロ、ネル、メイラ。死んでいった仲間たちの名前。顔は思い出せない。だが、文字から伝わる温度がある。大切な人たちだったのだと分かる。


カイル、ガルド、リュカ、エリス。今の仲間たち。彼らの顔も、まだぼんやりとしか浮かばない。だが、手紙の文字から優しさが伝わってくる。


最後のページ。俺——前の俺が書いた、最後の言葉。


「どちらを選んでも、俺よ、勇者であってくれ」


涙が出た。なぜ泣いているのか分からない。失ったものを悲しんでいるのか、残されたものに感謝しているのか。


ただ、ひとつだけ確かなことがある。俺は、前に進まなければならない。


扉が控えめに叩かれた。入ってきたのは、若い女だった。僧侶の服を着ている。


彼女は俺を見て、ほっとしたような顔をした。そして言った。おはようございます、レオンさん、と。


エリス。手紙を書いた人だろう。


俺は答えた。おはようございます、と。自分の声に違和感がある。これが俺の声なのか。


続けて3人の男が入ってきた。騎士、重戦士、そして黒衣の女。カイル、ガルド、リュカだろう。


皆、心配そうな顔をしている。だが、距離を感じる。当然だ。俺は彼らのことを覚えていない。彼らにとっての俺は、もういない。


それでもカイルが言った。お帰りなさい、と。ガルドも頷いた。リュカは無言だが、その目は温かかった。


俺は、ただいま、と答えた。その言葉が正しいのか分からないまま。


2日目


1日中、手記を読んでいる。


200日以上に及ぶ記録。俺という人間が歩んできた道。読めば読むほど、他人の物語のように感じる。だが同時に、妙な既視感もある。


特に印象的だったのは、仲間を失った日の記録だった。前の俺は、深い悲しみを綴っていた。ジンが死んだ日は、朝が来たのに彼がいないことが信じられないと書いていた。メイラが死んだ日は、涙も流せない自分を嘆いていた。


俺には、その感情が分からない。理解はできる。大切な人を失うことは悲しいことだと。だが、感じられない。


それでも、不思議な安心感がある。前の俺は、ちゃんと悲しんでいた。仲間を大切に想っていた。それが分かるだけで、少し救われる。


エリスが食事を持ってきてくれた。味は分からない。義体には味覚がないらしい。だが、温かいものを食べるという行為自体が、なんとなく心地良い。


食事中、彼女は前の俺について話してくれた。優しい人だった、と。仲間思いで、いつも皆のことを考えていた、と。


俺は聞いた。今の俺は、違いますか、と。


彼女は少し考えて、違うけど同じです、と答えた。記憶はなくても、芯の部分は変わっていない気がすると。


その言葉が、嬉しかった。


3日目


今日、初めて聖剣クラディウスと向き合った。


武器庫に安置されていた剣は、見た瞬間に分かった。これが俺の剣だ、と。記憶にはないのに、体が覚えているような感覚。


手を伸ばすと、剣が微かに震えた。いや、光ったのか。はっきりとは分からない。だが、何かが応えた。


握った瞬間、懐かしさが込み上げてきた。これは記憶ではない。もっと深い、魂の奥底からの響きのようなもの。


剣は、羽のように軽かった。


カイルが驚いていた。やはり勇者様だ、と。記憶がなくても、聖剣は応えてくれるんだ、と。


だが俺には、その理由が分からない。


この剣は、何に応えているのか。俺の肉体か。それとも、消えたはずの記憶の残滓か。あるいは、立ち上がろうとする意志そのものか。


剣を振ってみた。体が自然に動く。これは記憶ではなく、体に刻まれた技術。何万回と振ったであろう軌跡が、筋肉——いや、義体のプログラムに刻まれている。


ふと思った。俺は本当にレオンなのか。それとも、レオンの体を使う別の誰かなのか。


だが、剣は応えてくれた。それだけで、今は十分だ。


訓練場で、仲間たちと軽い手合わせをした。


ガルドの盾は堅牢だった。カイルの剣技は正確だった。リュカの動きは読めなかった。エリスの支援は的確だった。


ただ連携は、まだぎこちない。当然だ。俺は彼らの動きを知らない。彼らも、今の俺の癖をまだ掴めていない。


だが、これから覚えていけばいい。新しい記憶を、積み重ねていけばいい。


5日目


今日、初めて街に出た。


人々が俺を見て、勇者様と呼んだ。尊敬と期待の眼差し。俺は、その期待に応えなければならない。


市場で、老婆が俺の手を握った。魔王を倒してくださいと泣いていた。息子が兵士として前線で死んだらしい。


俺は約束した。必ず倒す、と。その言葉に、嘘はない。


酒場で、吟遊詩人の歌を聞いた。勇者パーティの武勇伝。俺と、死んでいった仲間たちの物語。


だが、歌の中の俺は、今の俺ではない。記憶を持っていた頃の俺だ。その違和感と、それでも俺であることの奇妙な安心感。


カイルが言った。街の人々にとって、勇者は希望なんだ、と。誰が勇者かではなく、勇者がいることが大切なんだ、と。


それでいいのかもしれない。俺は、勇者という役割を演じればいい。前の俺が残した、その名前を継げばいい。


7日目


訓練が本格化してきた。


驚いたことに、体は戦い方を完璧に覚えている。剣の振り方、足運び、間合いの取り方。すべてが自然に出てくる。


ただ、なぜそう動くのかは分からない。体が最適解を知っているだけ。


カイルとの連携が少しずつ噛み合ってきた。彼の剣が右に流れる時、俺は左から攻める。言葉にしなくても、動きで分かる。


ガルドの防御のタイミングも掴めてきた。彼が盾を構える一瞬前、俺は攻撃を止める。その連携が、少しずつ滑らかになっていく。


リュカの隠密行動とも息が合い始めた。俺が正面から注意を引く時、彼女は必ず死角にいる。その信頼関係が、少しずつ育っている。


エリスの回復のタイミングも分かってきた。彼女は俺の動きを読んで、最適な瞬間に支援してくれる。


新しいパーティ。新しい絆。前の記憶はない。だが今、確実に何かが生まれている。


10日目


今日、王から召喚された。


魔王討伐に向けた最終確認だという。作戦の説明を受けた。魔王城への道のり、予想される敵戦力、そして魔王そのものについて。


その時、初めて聞いた。魔王の名を。


ラグナ・ヴェルド。


その名を聞いた瞬間、聖剣が強く脈動した。これは因縁なのか。それとも、ただの反応なのか。


王が言った。準備が整い次第、出発してほしい、と。国の、いや世界の命運がかかっている、と。


俺は頷いた。それが俺の使命だから。


部屋に戻り、日記を開いた。前の俺の記録を、もう一度最初から読み返した。


そして、今日の日記を書く。新しいページに、新しい決意を。


魔王ラグナ・ヴェルド。初めてその名を記す。


前の俺は、この名を書かなかった。なぜだろう。恐れていたのか。それとも、書く必要がなかったのか。


だが今は、この名前と向き合う。


準備を済ませ、近々出発する。仲間たちと共に、魔王城へ。


前の俺が守ろうとしたもの、戦い続けた理由、そのすべてを背負って。記憶はなくても、意志は引き継ぐ。


聖剣は俺に応えてくれた。理由なんてどうでもいい。

俺は勇者だ。それだけで十分だ。


ジン、トーロ、ネル、メイラ。顔も声も思い出せない。だが、君たちの想いは、この体に刻まれている。


カイル、ガルド、リュカ、エリス。まだ日が浅いが、君たちは俺の仲間だ。


この手記を書いている俺は、レオンなのか、別の誰かなのか。分からない。だが、勇者であることは確かだ。


前の俺へ。


あなたの願いを、受け取りました。勇者で、あり続けます。


そして、必ず成し遂げます。


魔王ラグナ・ヴェルドを倒すことを。


それが、俺の——勇者の物語の続き。


名前は同じでも、中身は違うかもしれない。だが、志は変わらない。


市井の人々が『勇者パーティ』に寄せる期待。その重みを、今、はっきりと感じる。


俺たちは、その期待に応える。名前としてではなく、今を生きる者として。


最後の戦いへ向かう。


この世界に平和を。

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ある英雄の手記 星盤 @stargazing

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