第2話 継承
58日目
朝が来た。ジンのいない、最初の朝が。
昨夜は眠れなかった。何度も隣の部屋を見に行ってしまった。もしかしたら、いつものように剣の手入れをしているんじゃないかと。だが部屋は暗く、ベッドは冷たいままだった。
書かなければならない。ジンの最期を。でなければ、本当にいなくなってしまう気がする。
氷葬妃ニヴルガとの戦闘は、極寒の渓谷で行われた。評判通り、奴は氷の分身を無数に作り出す。本体を見極めるのは困難を極めた。
戦いの最中、俺は分身の1体に聖剣を振り下ろした。それが罠だった。本体が背後に現れ、氷槍を構えていた。避ける間もない。死を覚悟した、その瞬間——
ジンが間に入った。
氷槍は彼の胸を貫いた。赤い血が、白い雪原に散った。それでもジンは剣を振るい、ニヴルガの左腕を切り落とした。これで分身が使えなくなる、と血を吐きながら笑った。
俺の右腕はニヴルガの最後の攻撃で凍結し、砕け散った。だが痛みなど感じなかった。ジンを抱きかかえることもできず、ただ義手だけで彼の手を握っていた。
冷たくなっていく手を、温めることもできなかった。
ジンは最期に、弟分を守れて良かったと言った。俺の剣術はまだまだだから、もっと稽古してやりたかった、と。涙が止まらなかった。兄のように慕っていた人を、俺は守れなかった。
トーロが無言でジンの瞼を閉じた。大男の肩が、小さく震えていた。ネルは淡々と戦況を記録していたが、ペンを持つ手が何度も止まった。メイラは泣きながら、ジンの体を清めてくれた。
王都に帰還後、右腕にも魔導義手を装着した。これで両腕が義手になった。聖剣との同調は完璧に近づいたが、もう誰かの手の温もりを感じることはない。
ジンの後任として、カイルという騎士が配属された。有能な男らしい。だが、稽古に誘われても断ってしまった。まだ、ジンとの稽古の記憶が新しすぎる。
夜、部屋で1人になると、ジンの声が聞こえる気がする。もっとしっかり構えろ。腰が入ってないぞ、と。振り返っても、そこには誰もいない。
メイラが部屋を訪ねてきて、一緒に泣いてくれた。2人で朝まで、ジンの思い出を語り合った。初めて会った時のこと、稽古で手加減してくれていたこと、俺を弟のように可愛がってくれたこと。
メイラの手を握りたかったが、義手では彼女の震えしか伝わらない。温度が、感触が、欲しかった。
79日目
トーロが死んだ。いや、死を選んだと言うべきか。
瘴霧王ガストールは、触れるもの全てを腐敗させる瘴気を操った。その霧は鎧を腐らせ、肺を焼く。メイラの浄化術も追いつかないほどの猛毒だった。
激戦の末、聖剣でガストールの核を貫いた。だが奴は最期の力を振り絞り、自爆しようとした。瘴気の爆発——それは周囲一帯を死の大地に変えるという。
トーロが動いた。
大盾でガストールを押さえ込み、そのまま2人して崖下の毒沼に落ちていった。自分ごと瘴気を封じ込めるつもりだったのだ。
俺は叫んだ。止めようとした。だが間に合わなかった。トーロは最後に、家族を頼むと言った。その声は、いつもと変わらず静かだった。
毒沼からわずかに上がる瘴気にも構わずトーロの沈んだ先を見つめる。戦闘で焼けた肺は空気を取り込まず、激しく咳き込んだ。メイラが必死に治療したが、肺の機能は戻らなかった。
またも王都へ。今度は呼吸器系を魔導義体に置き換えることになった。もう普通の空気を吸うことはない。フィルターを通した無機質な空気だけだ。だが毒への完全な耐性を得た。
トーロの葬儀に、奥さんと2人の娘が来ていた。幼い娘たちは、父がもう帰らないことを理解できずにいた。いつ帰ってくるの、と母親に聞いていた。奥さんは気丈に振る舞っていたが、棺に収められた遺品——あの家族の絵を見た時、崩れ落ちた。
俺は何も言えなかった。ごめんなさいとしか。
トーロの後任はガルドという男だった。トーロには及ばないが、盾の扱いは確かだという。だが、あの大きな背中はもうない。黙って肩に手を置いてくれる、あの優しさはもうない。
ネルが珍しく、トーロは良い男だった、と呟いた。感情を出さない彼女が、そう言ったのだ。それだけトーロの死は、皆の心に大きな穴を開けた。
カイルは懸命に場を盛り上げようとしてくれるが、空回りしている。ジンのようにはなれない。だが、それは仕方のないことだ。
メイラと2人きりになることが増えた。お互いに慰め合っているのか、それとも傷を舐め合っているだけなのか。だが彼女の存在だけが、俺を正気に保ってくれている。
夜、息苦しくて目が覚める。魔導義体の呼吸は完璧なはずなのに。これは多分、心が息苦しいのだ。トーロの選択を思い出すたび、胸が締め付けられる。
あの毒沼に、今も彼は眠っている。
95日目
ネルまでも失った。
幻影公アゼルファは、精神に直接干渉する幻術の使い手だった。見たいものを見せ、会いたい人を見せる。俺は幻影に惑わされた。死んだはずのジンが、トーロが、目の前に現れたのだ。
本物だと思った。すがりつこうとした。その瞬間、アゼルファの刃が俺の目を切り裂いた。
だがネルは幻術に囚われなかった。情報局の訓練の賜物だろうか。いや、違う。彼女は最初から死を覚悟していた。俺を守るために、アゼルファの刃を自ら受けた。
その隙に、視界の掠れる俺に敵の位置を教えてくれた。右へ3歩。上段から振り下ろせ。彼女の声に導かれ、俺はアゼルファを両断した。
かすみ、ぼやける視界に映るネルは腹を押さえながら、任務完了だと呟いた。情報局からの密命——勇者を魔王の元まで届けること。それが彼女の任務だったという。
だが最後に、小さく言った。任務だけじゃなかった。本当に、皆のことが大切だった、と。
初めて見た、ネルの涙だった。
メイラが泣きながら治療を続けたが、ネルは静かに首を横に振った。もう良いと。それより勇者の目を、と言った。最後まで他人のことばかりだった。
王都で両目を魔導義眼に置き換えた。暗視も熱源探知も可能になった。幻術への耐性も格段に上がった。だが、もう普通の景色は見えない。メイラの顔も、仲間の表情も、すべてが熱と魔力の分布図でしか認識できない。
ネルの後任はリュカ。暗部からの差し金らしい。優秀なのは分かる。だが、ネルのような不器用な優しさはない。あの、ぶっきらぼうに差し出される心遣いは、もうない。
カイル、ガルド、リュカ。新しい勇者パーティ。確かに戦力は維持されている。だが、これは俺の知っているパーティじゃない。
メイラだけが、最初からいる。彼女も限界が近いのが分かる。仲間を失うたび、回復魔法に込める力が弱くなっている。心が削られているのだ。
昨夜、メイラが俺の部屋に来た。もう、辛いと泣いた。皆どんどんいなくなる、と。俺は彼女を抱きしめた。義手でしか抱けない俺を、彼女は震えながら抱き返してくれた。
お互いがお互いの支えだった。恋なのか、依存なのか、もう分からない。ただ、失いたくない。メイラだけは失いたくない。
だが心の奥で分かっている。この戦いが続く限り、いつか彼女も——。
考えたくない。考えてはいけない。
今夜も、死んだ仲間たちの顔が脳裏に浮かぶ。熱源探知の義眼には映らない、記憶の中の顔。ジンの笑顔、トーロの大きな背中、ネルの不器用な優しさ。
皆、俺を守って死んでいった。
勇者とは何なのだろう。守られ続け、仲間を失い続け、それでも前に進む者のことなのか。聖剣は相変わらず軽い。まるで、もっと多くを捧げろと言っているかのように。
明日も戦いは続く。次は誰を失うのだろう。
いや、次は失わない。失わせない。そう決めた矢先に、また失うのだろうか。
メイラの寝顔を見ている。熱分布でしか見えない顔。だが記憶の中では、まだ彼女の本当の顔を覚えている。
忘れたくない。忘れてはいけない。
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