第10話 ゴリラ、キャバ嬢と出会う
表通りはネオンの光の洪水と言うほど明るかったた。だが俺はそこを避け、裏通りの影を縫う。
ごみ袋の臭い匂い、居酒屋の油、タバコの煙、全部、懐かしい。人間の夜の匂いだ。
とはいえ俺はいまゴリラ。表で堂々と歩くのは無理ゲー。
そう思った矢先、耳に刺さる声がした。
「いいじゃん、ちょっとくらいさぁ」
「やめてください」
路地の先には、ドレスの女とスーツの男がいた、。男の手が女の腰、肩、胸元へと動く。女は笑顔で受け流そうとしているが、目が笑ってない。
女の名は知らない。けれど嫌だと全身から伝わってくる。
嫌がってるしとりあえず俺は壁の影から一歩出た。
「金払ってるんだからちょっとぐらいいいだろ」
「やめてくださいって言ってるでしょ」
男の手がさらに伸びた瞬間――俺は胸を鳴らす。ドン、ドン。
「ウホウホ(その手を放せ)」
ふたりが振り向く。男の顔が凍り、女の目が大きく開く。
路地の蛍光灯が、俺の銀の背を淡く照らした。
「ひ、ひいっ……なんだよお前!」
「……ゴリラ?」
俺は男と女の間に入り、男を睨む。
「ウホ(下がれ)」
「調子乗んなよ、着ぐるみが!」
男は最初怯えていたが、俺のことを着ぐるみと判断したんだろう殴りかかってくる。俺も同じ状況になったらそう思うから仕方ないか。男は拳を振り上がるが俺はその手首をつまむように掴んだ。
――ボキッ。
「ぎゃああああ!?」
やべ、握力の加減を間違えた。でも手首だし最小限の方だ。男は尻餅をつき、片手を抱えて路地の出口へ転がるように逃げた。悲鳴だけが長く尾を引く。
場が静寂になる。蛍光灯のブーンという音だけが戻ってくる。
ドレスの女が俺を見上げた。
「……助けて、くれたのね」
落ち着いた声だった。怯えより先に礼がある。目が強い。
俺は胸を一度、静かに叩いた。
「ウホウホホ(お姉さん大丈夫だった?)」
普通ならここでウホしか聞こえないのがオチだ。けれど彼女は小さく目を瞬き、ふっと笑った。
「いま、大丈夫って言った?」
「ウホッ!?(え、通じてる!?)」
彼女は笑うでも怯えるでもなく、ただ俺の目を見る。
「ありがとう私は瑠璃。あなたは?」
名前を聞かれて俺は迷った。だってニューキングなんてダサい仮名をここで名乗るのはいやだろ?とりあえず誤魔化しとくか。
「ウ、ウホ……(ない、かな?)」
瑠璃は少し驚き、それから柔らかく微笑んだ。
「名前がないなんて、ちょっと可哀想ね」
いいえ、あるにはあるんだが物凄くダサいんです。
彼女は考えるように指先で顎に触れ、ぱっと笑う。
「じゃあ、とりあえずゴリちゃんでいい?」
「ウホッ?(……え、ゴリちゃん?)」
「ゴリちゃん。可愛いじゃない。気に入らない?」
俺は胸を叩いて抗議する。ドンと鳴り響く。
「ウホウホ(もっとかっこよさそうなのがいい!)」
「ふふ。そういうところもゴリちゃんっぽい」
瑠璃は楽しそうに笑った。俺の心の中はゴリちゃんという可愛らしい名前の照れと彼女の笑う姿にドキドキしっぱなしだ。
そのとき、俺の腹が主張した。
ぐぅぅぅぅ。
(……最悪のタイミングだよ腹)
「お腹、すいてるの?」
「ウホホ(まぁちょっとだけ)」
脱走する時余り食べずに来ちゃったからな、バナナの1本でも持ってくればよかったな。
瑠璃は小さく吹き出し、ドレスの裾をすくう。
「歩ける?すぐそこにフルーツくらいなら出せるお店があるの」
「ウホウホ(ちょ、ちょっと待て!俺をどこへ連れてく気?)」
「キャバクラ。私の職場」
キャバクラとかさらっと言うな。てか、やっぱりキャバ嬢だったのね。
路地の角を曲がり表通りに進むと柔らかな金色の光が映し出される。上品なネオンに「CLUB-R」の文字。看板にはクラブローズって書いてある。Rでローズって読むのなんかおしゃれだな。
俺は一歩、躊躇した。表に出れば騒ぎになる。それでも彼女の大丈夫よという目に、足が前へ出る。
「ウホウホホ(表通りに出てよかったのかな)」
「助けてくれたお礼なんだがらいいのよ」
彼女は笑って、扉を押した。ローズと酒の混じった香りが、ひやりと肌に触れる。
★★★★★★★★★★★★
高級そうなシャンデリアに厚い絨毯、漆黒のソファ。
ガラスの棚に整列するボトル。氷を割る音、グラスが触れ合う音。昼の動物園とは真逆の世界だここ。俺ここに来て本当によかったのか?
そして俺の入場で、時間が止まった。
「…………」
キラついたスーツの男が口をポカンと開け、キャストの女の子が目を皿にする。
バーテンダーが持っていたトングを落としそうになり、黒服が反射で俺の前に立ちふさがろうとするが瑠璃を見て止まった。
「ご案内するわ。私のお客さまよ」
店内に響く落ち着いた声。黒服の警戒心を下げてしまった。
黒服は眉をひそめつつも道を空けた。
「何かあったら責任は取ってくださいよ、瑠璃さん」
「もちろん」
俺は一番奥の半個室に通される。分厚い背もたれのソファ。座っていいのか?でも一応誘われた身だしいいよな?座ってみるとめっちゃふかふかで高級なソファだとわかる。
反射的に姿勢を正す俺を見て、隣のテーブルのキャストが小声で姿勢いいと呟いた。そんなことで褒められるのかと思ったが、俺はゴリラだから姿勢がいいだけで褒められるらしい。
瑠璃が隣に腰を下ろす。ドレスの光沢と体温が近い。落ち着いた香りがふわりと鼻をくすぐる。
「すぐフルーツ持ってくるわ。……それにしても」
彼女が俺の手をちらっと見て、微笑む。
「手が少し震えてる。緊張してるの?」
「ウホウホ(いや、場違いが過ぎて)」
「ふふ。大丈夫。私がいるから」
その言い方が、変に胸に来た。俺は胸を一度だけ、控えめに叩いた。
バーカウンターの向こうで、バーテンダーが戸惑いながらフルーツを切っている。
「盛り合わせ一丁……で、いいのかな?とりあえず一番豪華なやつで」
皿に色が積み上がる。パイン、メロン、キウイ、ドラゴンフルーツ、ぶどう、イチゴその全てが光輝きうまそうすぎて目が死ぬ。
やがてテーブルに置かれたそれは、小さな山脈だった。
俺は礼儀としてフォークに手を……いや、フォークが折れそうだ。手でいく。
パインをひとつまみ。
かじる。甘い!
「ウホ……!(うま……ッ!)」
喉が勝手に鳴った。昼の床直置きバナナとは別の食べ物だ。酸味と甘味が舌で弾け、冷たさが喉を滑っていく。
「美味しい?」
瑠璃が目尻を下げる。
「ウホウホ(すっごい美味しい!ありがとう!)」
「どういたしまして」
それだけ言って、彼女は水のグラスを俺の前に押しやった。
「冷たいの平気?」
「ウホ(平気)」
グラスが小さく悲鳴を上げる。握力、抑えろ俺。氷水が体内の熱を洗い流していく。動物園だと生ぬるい水しか出てこなかったから、この冷たさはありがたい。
隣のテーブルの客が恐る恐るスマホを向ける。黒服に目で止められて、そっと下ろす。黒服さんお仕事お疲れ様です!
「ゴリちゃん」
瑠璃がさきほど付けた名を口にした。
「あなた、どうして外に?動物園の子でしょ?」
「ウホ、ウホホ(檻の中にいるより人間の世界に居たいって思ったから、かな)」
彼女はグラスの縁を指先でなぞる。
「わかる気がする。……あなた、檻の中にいる顔じゃないもの」
「ウホ(顔でわかるの?俺ゴリラだよ?)」
「ええ」
即答。迷いがない。
俺は自分の手を見下ろした。鉄格子を曲げた手。助けた女に礼を言われ、フルーツをもらい、ソファに座っている手。
なんだろう、やたら人間っぽい夜だ。
そのとき、ボーイが小走りで来て瑠璃に耳打ちする。
「店長が……」
「私が責任取るから」
と彼女の一言にボーイは一礼して下がる。この人さっきから黒服だったりボーイだったりを言葉で従わせてるけどすごいな。
「騒がせてごめんなさいね」
瑠璃が俺を見る。
「ここ、普段はもっと静かに楽しい場所なの。今日は……特別ね」
「ウホ(あー俺のせいか)」
「結果的には、私のお願いよ。あなたをここで休ませたいって」
「ウホ(ありがとう)」
「お礼を言われることじゃないわ。さっき助けてくれたお礼。……それに」
瑠璃は少し視線を外し、戻す。
「あなた、誰かが人として扱ってあげないと、壊れてしまいそうだったから」
目を大きく見開く、言葉が喉で止まった。
檻の藁、雑な餌、放置された汚れ、ニューキングの雑な名、その全部を、誰かがやっと言語化してくれた気がした。
「ウホ……(ありがとう)」
低い声が自分で驚くほど静かだった。
「いいの」
瑠璃は柔らかく笑う。笑みが、夜の香水より静かに染みる。
「食べて。あなた、きっと今日はいっぱい走ったんでしょ」
「ウホ(脱走したからね)」
俺はもう一切れメロンを頬張る。甘い。鼻から抜ける青い香り。
気づけば皿が空に近づき、店の女の子が、
「追加、お持ちしていいですか?」
と恐る恐る聞いてくる。それを瑠璃が頷く。
フルーツ盛りをほとんど平らげ、氷水で喉を潤した頃。
瑠璃はグラスを指先で軽く回しながら、俺を見つめた。
「ねぇ、ゴリちゃん」
その慣れない呼び名に俺は内心ツッコミを入れながらも、視線を逸らせない。
瑠璃の目は真剣だった。
「あなた……これから、どうするの?」
……その言葉に、喉が詰まった。
答えがない。
動物園から脱走して、檻から出てきた。
でもその先。俺はいったい何をすればいい?
(俺は……ゴリラだ。元は人間だけど、もう戻れない。仕事も家もない。ただ檻から逃げてきただけの……逃亡者?)
何も、言えなかった。
胸を叩こうとして、途中で手を止める。空気が喉で詰まって、ただ沈黙が流れる。
瑠璃はしばらく待って、それからふっと微笑んだ。
「……そうよね。すぐに答えられることじゃないわ」
優しい声。責めるでもなく、追い詰めるでもなく。
ただ受け入れる声。
「でも、大丈夫。今はここにいる。それでいいじゃない」
瑠璃の言葉が、重たい胸の奥に柔らかく沈んでいった。
俺は結局、何も言えずに俯く。けれど瑠璃は、それすら肯定するように微笑んでいた。
「今夜はここで休んで。そして、もしよかったら、明日ちゃんと紹介するわ。店長にも、みんなにも」
「ウホ?(紹介?俺を?)」
「ええ。ボーイでも、ガードでもいい。あなたに合う形を探してみたい」
瑠璃の言葉に冗談がない。真顔でそう言ってる。
俺は胸を叩く。ドン。控えめに。ソファがちょっと震えた。
「ウホ(やることないしお願いします)」
瑠璃の口角が、わずかに上がる。
「ふふ、少し席を外すわね。あなたはここで休んでて」
「ウホ(わかった)」
瑠璃は、出るところが出て引っ込むところが引っ込んでいて、そして何より背筋が凛としていた。それは後ろ姿からでもわかる。
彼女が離れると、店のざわめきが少し戻る。女の子たちが控えめに覗き、目が合うと慌ててそらす。
俺は水を一口飲み、深く背にもたれた。シャンデリアの光が天井で滲む。
(俺はいま、どこに向かってるんだろう?)
檻から出て、路地で助け、フルーツを食べ、瑠璃に、紹介させてと言われた。
王でも見世物でもなく、誰かの役に立つと言われる場所。
胸の奥で、小さく働きたいという気持ちがうずいた。前世のオフィスじゃない、別の働き方。俺のゴリラこ体と人間の頭に合った仕事。
ソファの布が体温に馴染む。目が重くなる。
眠気が、ようやく正面からやってきた。
そのとき。
カーテンの隙間。黒服と店長らしき男の影。真剣な顔でこちらを見て、瑠璃と短く言葉を交わす。瑠璃は首を縦に振らない。静かに、しかし揺るがず、何かを説明している。押し通そうとしてるのだろう俺の居場所を、俺が居ていい場所を。
(任せっぱなし、は良くないな)
明日、俺はこの店の役に立たなきゃいけない。役に立つことで、ここにいていい理由を作る。
胸を一度だけ、軽く叩いた。ドン。
「ウホ(がんばるぞ)」
その決意の一言で、瞼がすとんと落ちた。
初めて、帰ってきた日本で安心して目を閉じた気がした。
檻の藁でもなく、森の根でもない。夜の街のソファ。
シャンデリアの光が遠のき、氷の音が遠のき、香水の甘さが遠のいて。
俺の腹が、満足そうに小さく鳴った。ぐぅ、ではなく、ぷしゅ、みたいな。
答えは、まだない。
けれど、ここにいていいという実感が、胸の内側で静かに灯っていた。
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