🌫️第27首 みかの原🌫️

 みかの原 わきて流るる いづみ川

 いつ見きとてか 恋しかるらむ

(中納言兼輔)


 みかの原の名を冠した古い団地のそばを、朝の小さな水路が走っている。

 地下から湧き上がるように、低い音をたてて水が満ちては流れ、街灯の名残りの光を揺らしていた。


 出勤前、ぼくはいつものようにその水辺を歩く。

 湿った空気が袖に触れ、ひやりとした感触が心の奥にまで届く。

 理由のわからない恋しさが、いつからか胸に滲むようになっていた。


 携帯に「今日も早いね」と短いメッセージが届く。

 彼女とは、ほんの一度だけ、この水路の向こうで会っただけだ。

 名前と笑い声の手触りだけが残っている。


「いつから好きなんだろうな」

 ぼそりとつぶやくと、水面が小さく震えた。

 返事は返ってこない。

 ただ、流れの向こうに、かすかな足音の残響だけがあるように思える。


 マンションの陰から風が抜け、流れの向きを変える。

 水は浅く澄み、底の石がひとつひとつ見えた。

 彼女と歩いたあの日も、こんな朝だった。


 言葉は少なかったが、肩越しに光っていた水の反射が、ふたりをそっと包んでいた。

「また会えるよ」彼女はそう言って笑った。

「ほんとに?」と返すと、「信じてみなよ」と、軽くつつかれた。

 それが最後の会話になった。


 季節が巡っても、彼女の気配はこの水路の湿度にだけ残っている。

 すれ違った理由も、離れた時期もはっきり思い出せない。

 なのに恋しさだけが、湧き水のように途切れず立ち上ってくる。


 ぼくは欄干に手を置き、静かに流れを見つめた。

 水音が胸のざわめきを薄くほどいていく。


 向こう岸のアパートに灯りがともる。

 影が一瞬こちらを振り返った気がして、息が止まる。


 もちろん別人だとわかっている。

 それでも、水に映る光がゆらぎ、朝が少しだけ明るくなった。

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時越えのふみ @tokigoe_no_fumi

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