🎆第25首 逢坂山🎆
名にし負はば 逢坂山のさねかづら
人に知られで くるよしもがな
(三条右大臣)
校舎の裏手、使われなくなった渡り廊下の先で、私たちは花火が始まるのを待っていた。
風は少し湿っていて、夜の匂いが混ざる。遠くでアナウンスが響くたび、胸の奥がざわめく。
「みんな、グラウンドの方に行ったね」
彼が言う。
「うん。ここなら、誰にも見つからない」
彼は笑った。けれどその笑みは、どこかためらいを含んでいた。
学祭の実行委員として走り回っていた彼を、私はずっと見ていた。
人気者で、誰とでも冗談を言い合って、近づくたびにまぶしくて。
だから、今日だけは——せめてこの夜だけは——二人きりでいたかった。
花火が上がった。音が遅れて届き、ガラス窓が震える。
空の色が一瞬ごとに変わり、彼の横顔を照らす。
光の筋が彼の頬を流れていくのを見ながら、私は呼びかける言葉を探していた。
名前を呼べば、きっともう一歩近づける気がした。
でも、それを口にした瞬間、何かが終わってしまう気もした。
「ねぇ」
彼がこちらを見た。
「どうしたの」
「……なんでもない」
笑い合う声が遠くで響き、グラウンドの歓声が風に流れてくる。
ここだけ、時間が少し遅い。
彼の指先がフェンスに触れて、金属の冷たさが夜気をはじく。
ふいに、線香花火のような細い光が風に揺れた。
どこかの班が余った花火を試しているらしい。
その小さな火を見つめながら、私は息を吸い込む。
「もし名前で呼んだら、秘密にしてくれる?」
彼が驚いたように目を瞬かせ、やがてうなずく。
花火の光が一瞬強くなり、空に散った。
私はそっと、彼の名を呼ぶ。
音は夜に溶け、風に乗って遠ざかる。
彼は少し照れくさそうに笑って、何も言わなかった。
その沈黙が、いちばんあたたかかった。
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