🌌第14首 陸奥の🌌

 陸奥の しのぶもぢずり 誰ゆゑに

 乱れそめにし われならなくに

(河原左大臣)


 仕事帰りの電車。窓に映る自分の顔が、やけに疲れて見えた。

 外には暮れ残る空。ビルの隙間から、わずかに朱色が滲んでいる。


 ポケットの中のスマートフォンには、先輩からの未読メッセージ。

 返信しようと開いては、結局言葉を閉じ込めてしまう。

「また食事でもどうですか」――その一文を打つのに、どれだけ迷えば気が済むのだろう。


 大人になれば、感情は整理できると思っていた。

 けれど現実は違う。

 会えば心はざわつき、ふとした笑顔に胸が波立つ。

 理由など問われたら、答えられやしない。


 ――陸奥の、しのぶもぢずり。

 昔、授業で習った歌が、不意に浮かんだ。

 自然に浮かぶ乱れ模様は、人の手では抑えられない。


 あの歌のように、誰のせいでこんなに心が乱れるのかと問えば、答えはひとつしかない。


「乱れそめにし、われならなくに」

 ――私のせいではないのに。


 理性で抑えようとすればするほど、乱れは深くなる。

 先輩と過ごした何気ない時間、交わした視線、短い言葉。

 それらが織り重なり、心に模様を描き続けている。


 電車が駅に滑り込み、人の流れが一斉に動き出す。

 気づけば画面には、たった一文だけが残っていた。


「また会えますか」


 送信ボタンを押した瞬間、窓の外には群青の空に灯がまたたいていた。

 乱れは、もう抑えようがなかった。

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