第4話 塔仲間
心地よい癒しの魔法が、波のように全身にしみわたってくる。
まるで地上にあがった魚のように、エイラは大きく息をついだ。
「メザル……師匠、目を覚ましました」
栗毛の髪、額に白い星を宿した少年が、大きな翡翠の瞳で、そっとエイラの顔を覗き込んでいた。
癒しを施したのは、この少年のようだった。
宝石のように澄んだ碧眼で、静かにこちらを観察している。
その向こうには、今日出会ったばかりの幼い見習いたちが、石組みの淵に手をかけ、不思議そうにこちらを覗いていた。
――いつの間にか、気を失ってた。
身を起こそうとしたとき、胸の奥で白い炎が灯った。
そこから、大きな梟が――真白な翼を広げて、飛び上がる。
梟は天へと舞い、塔の高い天井近くを王者のように悠々と旋回した。
塔の一同が低く、興奮したようにどよめく。
イラヤが静かに口を開いた。
「半身が梟とは、誠に縁起がよい。梟は畏きもの。ましてや大梟は、ナアラの眷属――。そなた、名は?」
すこしためらうように、エイラは答えた。
「……私の名は、エイラです」
口にしたとたん、胸をチクリと針がさすような違和感を覚え、思わず小首をかしげた。
「よろしい」
イラヤが満足げに微笑んだ。
続いて、白髪に長いひげを蓄えた賢人メザルが厳かに言った。
「王族の娘――ナアラの血脈が、大梟の半身を得た……。
これは、まこと僥倖じゃ。塔は今宵、祝砲を放とう」
そして、額に星を戴いた少年のほうへと顔を向ける。
「ロディス。半身を得た見習いたちを案内しなさい」
そばに控えていたロディスが静かに立ち上がり、
膝をついたまま見守っていたエイラに手を差し出した。
「はい、師匠」
彼は、エイラを優しく支えて立たせる。
そのまま肩を貸すようにして、しっかりと支えてくれた。
「最も幼き者たち、ついてきなさい」
その凛とした声に、新しく塔の子となった子供らが、そろって顔を上げた。
塔の螺旋階段を、一行がゆっくりと登っていく。
エイラはまだ少し足元がおぼつかないまま、ロディスの腕に支えられて、石の感触を踏みしめていた。
高くそびえる塔の階段の途中、外界からの光は届かない場所のはずなのに、壁に埋め込まれた魔石が淡い光を放っている。
それはまるで、ヒカリゴケに照らされた、洞窟の奥を歩いているかのようだと、エイラは思った。
「ロディス・エルヴェンといいます」
塔の中階へ差しかかったあたりで、彼が名乗った。
抑えた声は柔らかく、それでも確かな知性が宿っていた。
「私は、額に星をもらったために、十歳で塔に入りました。今は十五歳で、君と一つ違いです。夏には十六歳になるけれど」
「私は……エイラ・ヴァレント」
エイラが答えると、ロディスは軽くうなずいた。
「塔に上がった者は、二年の初歩見習いを経て師を選ぶのが通例ですが……君は免除されていると聞きました。かつて、塔の賢人であったミラナさまからの手ほどきは、それほどに確かなものだったのでしょう」
エイラは少し困ったように笑った。
(手ほどき……そう言えるほど、やさしい教えではなかったけど)
実際には、魔術の根幹に関わる知識を深く叩きこまれてきた。
でも、ここで口にする気にはなれなかった。
「君は、僕と同じ師につくことになるそうです。姉弟子もいます。もうすぐ十七歳になります。少しおせっかいだけど、お母さんみたいで、とても頼りになる人ですよ」
会話がいったん途切れる。
ふと、ロディスの額にある白い星が、魔石の光を受けてかすかに輝いた。
――話には聞いていた。
この印こそ、ナアラの与えた一つ星。
原初なる神の祝福の徴。
一瞬、羨望が胸をかすめる。
けれど、それはあくまで心のうちに留めておいた。
視線をそらし、足元に意識を戻す。
ロディスもまた、大梟と共に現れたエイラの姿を思い返していた。
原初の神の眷属――大梟。
あの半身には、膨大な魔力が宿っていた。
青灰の瞳を持つ黒髪の妹弟子に少し羨望を抱いてしまう。
一方、彼は、自分でも理由のわからないまま、彼女に奇妙な親近感を抱いていた。
ナアラの印である星とは違うが、ナアラの眷属を半身に持つ者が、こんなにも近くに現れたということに。
運命のような縁を感じていた。
やがて一行は、第二階層の廊下へと至った。
見習いたちが共に暮らす小部屋が、蟻の巣のように入り組み、
様々な色や形の扉が、整然と並んでいる。
ロディスについて長い廊下の先へと進むと、暗緑色の小さな扉の前で彼が立ち止まった。
それが、エイラにあてがわれた部屋だった。
扉を開けるとふんわり暖かい日向の匂いがして、エイラはその部屋に身を滑り込ませた。
荷物のない部屋は、無機質でよそよそしい。
しかし、陽の光が差し込んで明るいのには、どこか救われた。
寝台の上に腰を下ろす。
簡素な白布が敷かれたベッドは、少し湿気を帯びていた。
けれど、思っていたよりも心地よい。
部屋の片隅では、小さな魔術灯がほのかな光を灯している。
青白い明かりで、そこには空気の揺らぎもない。
それがかえって、どこか、夢のようでもあった。
エイラは胸に手を当てる。
――名を言ったとき、どうして、あんなにも小さな違和感が残ったのだろう。
「……私の名は、エイラです」
もう一度、つぶやいてみる。
言葉にあやまりはなかった。
音も、意味も、正しく感じられる。
あのときの違和感は――なかった。
けれど、それは本当に消えたのだろうか。
むしろ、深く沈んだだけのようにも思えた。
ふと、エイラは思い立って口に出す。
「――ヨナ」
名を呼んだ瞬間、部屋の空気が変わった。
どこからともなく、つむじ風のような気配が生まれ、室内をふわりと駆け抜ける。
光がきらめき、粒子となって舞い上がる。
それらが渦を巻き、形を成していく――。
現れたのは、あの大梟だった。
天井の低い部屋には不釣り合いなほどの大きさ。
なのに、音ひとつなく降り立ち、夢の中の生きもののように静かだった。
そして次の瞬間――。
驚くほど愛らしい仕草で羽を縮め、身を寄せてくる。
大きな黒い瞳がこちらをじっと見つめ、
ふくふくとした白い羽毛が、エイラの手に触れた。
あたたかさが、ゆっくりと沁みわたっていく。
ヨナは、小さく――まるで甘えるように、喉を鳴らした。
「これから よろしくね」
その言葉が胸にほどけると同時に、瞼が重くなる。
****
いつの間にか、眠っていたらしい。
――コンコン、と控えめなノックの音がして、エイラはゆっくりと身を起こした。
淡い魔術灯の光が照らす室内を見て、ここが慣れ親しんだミラナの家ではないことを思い出した。
ヨナはベッドの脇に丸くなって、静かにまどろんでいた。
「エイラ? 起きてますか?」
扉の向こうから、かけられた声は、やわらかな響きを宿していた。
開けてみると、ロディスと、もう一人の少女が立っていた。
「こんばんは。シルです。あなたの姉弟子。夕食のお誘いに来ました」
ふわふわの金色の髪をゆるくまとめた少女は、ふんわりした口調でにこにこと笑っている。
だがその瞳は、オニキスのように濃い黒で、強い意志を秘めた静かな光を帯びていた。
「寝ちゃってた? 寝ぐせはない? 食堂の場所を教えたいのと、顔合わせね」
「えっ……大丈夫……だと思います」
思わず前髪を直しながら答えると、シルは明るく笑った。
「ついでに、今後の話もしましょう」
そのとき、エイラの肩にヨナがふわりと降り立つ。
シルは目を見張った。
「うわぁ……なんて立派な大梟。……ふわふわ……」
目を細めながらも、きっぱりと言う。
「でも、お留守番ですね。食堂、ちょっと天井低めなんです」
先を歩きはじめるシルの後ろ姿は、まるで小さなおかあさんのようだった。
塔の廊下は、じんわりと明るい。
壁の魔石が優しい灯りを放ち、三人の影を静かに引いていく。
「シルは、僕と同じ師に学んでいる。見習い三年目」
ロディスが歩きながら言った。
「私の半身は菩提樹なの。癒しが得意で、今は戦闘術にてこずり中よ。
なんでも聞いて頂戴ね。……あら?」
シルが振り向いた。
「緊張してる? そうよね。初日はみんなそうです。
私なんて、緊張しすぎて最初の晩ごはん、食べられなかったんだから」
人懐っこい笑みをうかべて畳みかけるように続ける。
「好き嫌いはない? 実家からはなれても偏食はだめよ」
エイラは、思わず笑った。
(本当に、小さなお母さんみたい)
****
食堂は穏やかなざわめきに包まれていた。
長いテーブルに見習いたちが並び、パンと温かな煮込みを前に、思い思いの話を交わしている。
それを横目に通りすぎ、一番奥の窓際のテーブルの前に来て、シルが振り返った。
「いつも私たち、この辺りに座るんですよ」
シルがそう言うと、ロディスがエイラの椅子を引いてくれた。
テーブルの上には香ばしいパンと、豆と鶏肉と根菜の煮込み。
キャベツの酢漬け。
湯気が立ちのぼり、香草の匂いが鼻をくすぐる。
デザートはとろとろのプリン。
大好物だ。
「ちゃんと食べてくださいね。食べないと、髪にツヤがなくなっちゃうから」
「……髪?」
「うん。栄養って、けっこう大事なんですよ?あとね、ちゃんと食べたら、元気になるの。魔術って、体力使いますから」
言いながら、ふと真顔でエイラの襟元を直すシル。
「よし。かわいくなった。いただきましょう!」
その様子をロディスが穏やかな笑みを浮かべて見守っている。
エイラは――ふっと、肩の力が緩むのを感じた。
朝の儀式から、ここに至るまで、ずっと気持ちの糸が張り詰めていたことに、ようやく気づく。
二人のおかげで、不思議と落ち着いた心持ちになった。
「……ありがとう。誘ってくれて」
ロディスとシルが、互いに目を合わせてから、にこりと笑ってうなずいた。
塔の夜が、ようやくほんの少し、あたたかく感じられた。
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