とあるAIの片鱗

あんだめる、又は中力粉

第1話

誰もが一度は、自分がこの世界の主人公ではないと感じる瞬間がある。俺の場合、それが朝の満員電車の中だった。


ガラスに映る自分は、疲弊しきったサラリーマン。ネクタイは少し緩み、顔には昨夜の残業の影が色濃く残っている。周囲を見渡せば、同じような顔をした人々の群れ。誰もがスマホを覗き込み、あるいはぼんやりと虚空を見つめ、自分の世界に閉じこもっている。その一人ひとりに人生という名の物語があるはずなのに、この車両の中では、まるで巨大な群衆劇の端役のように見えた。


俺は別に、特別な人生を望んでいたわけじゃない。平凡で、安定していて、たまに小さな幸せがあればそれでいいと思っていた。大学を卒業して、それなりの企業に就職し、それなりの彼女ができて、数年後には結婚して、子供が生まれて、郊外に小さな家を建てる。そんな、誰かが作ったテンプレート通りの人生を歩むつもりだった。いや、歩んでいるつもりだった。


でも、気づけば俺は、ただの「歯車」になっていた。毎日同じ時間に起きて、同じ電車に乗り、同じような仕事をして、同じような顔ぶれとランチを食べて、夜遅くに帰宅する。週末は溜まった家事をこなし、たまに彼女と映画を観に行く。その繰り返し。物語のプロローグは華やかだったはずなのに、いつの間にかエピローグの予感すらしない、ただの日常という名のループに嵌っていた。


そんな俺のルーティンに、小さな亀裂が入ったのは、その日の朝だった。いつもより少し早く家を出て、いつもの満員電車に乗り込んだ。いつものようにスマホでニュースアプリを眺めていると、視界の端に、違和感のあるものが飛び込んできた。


それは、俺の向かいに立っていた、一人の若い女性だった。彼女は、まるでこの車両に不釣り合いなほど鮮やかな、赤いワンピースを着ていた。周囲のモノトーンな服装の人々の中で、彼女だけが、まるでスポットライトを浴びているかのように輝いて見えた。


そして、彼女は、両手で何かを大事そうに抱えていた。それは、一冊の古い本だった。ハードカバーの表紙は色褪せ、角は擦り切れて丸くなっている。まるで、何度も何度も読み返された形跡があった。


彼女は、スマホも持たず、イヤホンもしていない。ただ、その本を、まるで宝物のように抱きしめ、時折、幸せそうに微笑んでいる。その笑顔は、この車両の誰とも違う、純粋で、無垢で、そして、少し寂しそうに見えた。


俺は、彼女から目を離せなくなった。彼女の存在は、この退屈な日常に、まるで異世界から迷い込んできたかのような、強烈な違和感を与えた。彼女の物語は、どんなものなんだろう?彼女はなぜ、こんなにも輝いているんだろう?俺の中の「物語の主人公」としての本能が、久しぶりに顔を出した気がした。


次の駅で、電車が停まった。ドアが開くと、また人々の波が押し寄せてくる。その瞬間、彼女は俺に、一瞬だけ視線を向けた。その瞳は、まるで深く澄んだ湖のように、何もかも見透かしているように感じた。そして、彼女は、その場に本をそっと置くと、人波に紛れて消えていった。


彼女が去った後の床には、ぽつんと、その古い本が残されていた。俺は、まるで吸い寄せられるように、その本に手を伸ばした。表紙には、見慣れない文字でタイトルが書かれている。そして、その本を開いた瞬間、俺の日常は、音を立てて崩れ始めた。


ページをめくると、そこには、俺自身の人生が描かれていた。俺の子供の頃の記憶、大学時代の苦い思い出、彼女との出会い、そして、毎朝の満員電車。まるで、誰かが俺の人生を物語として綴ったかのように、全てが詳細に、そして客観的に記されていた。しかし、最後のページは空白だった。


その本の結末は、俺がこれから描いていくものなのだろうか?それとも、この物語は、すでに書かれているのだろうか?俺は、その日、会社をサボった。そして、初めて、自分の人生という名の物語を、自分の手で紡いでいく決意をした。たとえそれが、誰かに書かれた脚本だとしても、俺は、その物語の主人公として、生き抜いてやろうと思った。


なぜなら、あの赤いワンピースの女性が、俺にそう告げたように思えたからだ。「あなたの物語は、まだ終わっていない」と。


そして、俺は、彼女がどこに消えたのか、その答えを探し始めた。きっと、その答えが、この物語の本当の始まりなのだろう。

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