第2話 袋は……



1ヶ月後。



山奥の廃屋。

血の渇きにうなされ、何度も鎖をちぎろうと暴れた日々も、いまは嘘のように静まっている。


「倉田さん……僕……考えたんです。あの時死ぬ運命だったはずなのにこうして今生きている……


ならば、何かやるべきことを見つけることが僕の運命なのかな?って……


生きてた時に僕、人生について深く考えてこなかったのに……死んで考えるなんて笑っちゃいますけどね」


「人はそういう風にできている。」


「うん、こうなったのも……なんでも誰かに助けてもらうことしか考えてこなかった自分への因果応報なのかなってね……」


「……」



今まで見せたこともなかった陰のある顔を隠しながら

佐々木は照れ臭そうに

粗末な机に向かい、ペンを握った。


「……母ちゃん、父ちゃん。オレは元気……って書いてもいいのかな……」


震える文字をにらみつける佐々木の背で、倉田が低く言った。


「そろそろ、外に出る訓練を始める」


「……外?」

佐々木が顔を上げる。


倉田はいつものように無表情で答える。

「人の中で理性を保てなければ、生きられない」


その言葉に、佐々木は無意識に喉を押さえた。

焼けつくような渇きは、まだ完全には消えていなかった。



---


森を抜け、二人は山道を下りていた。

佐々木は重い足を運ぶ。


「……ねえ倉田さん、本気ですか?」


「本気だ」


「……僕、人を襲おうとしたら……」


「暴れる前に止める」


それだけを言い、倉田は前を歩く。

その背中は変わらず大きく、そして冷たい。


佐々木は唇を噛みしめた。

(……一ヶ月。僕は変われたのか? いや、変わらなきゃ……)



―――


小さな集落に着いたのは、日もとっくに沈んだ頃合だった。

農作業から戻る途中だろう老人が、桶を手に井戸へ水を汲みに来ていた。


「……行け」

倉田の声が、背後から低く響く。



「む、無理ですって……!」

佐々木の体はすでに反応していた。


老人の脈動が耳に響く。鼻腔を満たす、生温い血の匂い。

喉が焼け、視界が赤くにじむ。


(……落ち着け……落ち着け!)


足がすくむ佐々木を、倉田の声が突き動かした。

「……挨拶しろ」


佐々木は一歩、前に出た。

「……こ、こんばんは」


老人は目を細めて、にこりと笑った。


「おや、見ない顔だねぇ。観光かい?」



「は、はいっ……そ、そうですっ……!」

声が裏返る。額から汗が流れ落ちる。


だが、老人は気にも留めず、水を桶に汲みながら「気をつけて帰りな」と軽く手を振った。


佐々木は――かろうじて、襲わなかった。



---


森に戻った瞬間、佐々木は膝から崩れ落ちた。

「……くそ……ハアハア……死ぬかと思った………」


倉田は短く言った。

「殺していない。……それが全てだ」


佐々木は地面に手を突き、荒く息を吐いた。

その胸の奥に、ほんのわずかだが、かすかな自信が芽生えていた。



---


廃屋に戻り、毛布をかぶった佐々木は目を閉じながら呟いた。

「……僕、昨日の母ちゃんからの伝言、守んなきゃって決めたんですよ」


倉田は何も答えない。


「もし僕がお嫁さん探せたら……倉田さん、結婚式のスピーチ頼みますからね」


静寂が流れたのち――倉田の声が落ちる。


「……血より難題だ」




――――――




数日後

倉田に連れられ、佐々木は夜のコンビニに立っていた。

ドアが開くたび、人間の匂いが流れ込んでくる。

汗とシャンプーと、血の香り。


「……ぐっ……」

無意識に舌が尖り、唾があふれる。

レジに立つ女子高生の喉元に視線が吸い寄せられた。

心臓の鼓動が、はっきり耳に響く。


「落ち着け」

低い声が、背後から囁いた。

倉田の手が、そっと肩に触れる。

その瞬間、鋭く光る視線が佐々木を貫いた。


――催眠だ。


「……っ!」

吸いつきたい衝動が、冷水を浴びせられたように収まっていく。


佐々木は額の汗を拭い、かろうじて笑った。


コンビニから出てきた佐々木が、

昔見せた笑顔を倉田に向け


「……ハイ、袋いります、って……言えました!」


倉田は黙って頷いた。



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