第2話 心臓はまだ鳴っている

「死にたい…」


 地に沁み込むような声を聞いた今村圭吾は衝動で隣の席の同級生の背中を叩いた。


 叩かれた上に噛んでいたガムを飲み込んでしまった智香は怒った。らしくない彼女に教室がざわめく。


 圭吾の心臓のたてる大きな音は英単語のテスト中もずっと鳴りやまなかった。



「本当にごめんなさい」


 次の日生真面目な智香は身体を真っ二つに折って謝った。心臓がまた酷く鳴り響き始める。


『どうして死にたいなんて言ったの』と聞きたかったが踏み込めない。その代わりに勉強に誘った。彼女の英語の成績は悲惨だ。


 智香の父親は英語の教師だ。英語が苦手だと知っているのはクラスで彼だけだ。智香の父親は娘に全く興味がなく彼女がいない態で暮らしているらしい。


『ともちゃんが前妻の娘だからって酷い』というのが圭吾の母の口癖だ。智香の母親とはまたいとこ。つまりはほとんど他人だが近所に住むから気にかけていた。子供の年も近いので若くして亡くなった時はショックを受けていた。

 だからと言って手を差し伸べることもない。卑怯だと圭吾は密かに思っていた。


 智香の父親は前妻が死んで1年後に新しい母親と子どもを連れてきた。智香より2歳年下の弟はあきらかに父親似だ。


『ずっと浮気してた』智香の両親は全く彼女に興味を持たず空気のように扱った。三者懇談も先生と二人でしている。進学校なのに週末バイトをしているのも親のせいだと圭吾の母親は憎々し気に言う。偽善者だと圭吾は感じる。


 両親が娘に向けているであろう目を智香もたまにする。学校でも文化祭でも遠足でも笑う彼女の目がぽっかりうつろになると圭吾の心臓は強く鳴り響く。


 寺の戒壇で自分が自分で保てなくなるような不安定な心持ち。圭吾は彼女の目が怖い。目の奥の暗がりに引き込まれて帰ってこれなくなるんじゃないか。

 彼は近寄らないようにしていたのだが席替えで隣になってしまった。


「英単語テストだぞ」なんてどうでもいい言葉をかけた自分自身を彼は呪った。もう関われないだろうと。



「俺今から図書館で勉強するんだけど一緒に行かないか」


 智香に謝られた圭吾は勉強に誘った。それは愚かでなく極々当然の行為に思えた。


 同級生が騒ぐような好きとか恋とかじゃないし憐憫でもない。ただ智香の近くにいたい。今までのように遠くから見るのは最後にすると決めていた。


 彼の心臓は彼女の存在という補正が入ったせいかこれまでになく平穏無事に動き始めた。

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