第一章「デジタル化の波間で」

 設備資料課は、本社の地下深く、ひんやりとした空気が漂う場所にあった。サーバーの低い唸り声と、紙の乾いた匂いが混じり合う空間。蛍光灯の白い光が、まるで病院の手術室のように、感情を排した冷たい照明を提供していた。


 アキラに与えられた最初の仕事は、膨大な紙の図面や台帳をスキャンし、デジタルデータに変換していくという、気の遠くなるような作業だった。


「よろしく。何か分からなかったら、あそこの古賀さんに聞いて」


 そう言ってアキラを案内した蓮見恭子課長は、シャープなスーツに身を包んだ、いかにも切れ者といった雰囲気の女性だった。四十代半ばと思われる彼女の瞳は、常に効率と未来に向けられているように見えた。手にしているタブレットからは、絶え間なく新しい情報が流れ込んでいる。彼女にとって、情報とは常に「今」のものでなければならなかった。


 その彼女が指さした先には、部屋の隅で黙々と分厚いファイルと格闘している、白髪頭の老人がいた。古賀誠司、六十三歳。TMEPCOの生き字引と呼ばれる男だ。


 古賀は、コンピューターが普及する前の時代から、この会社で図面管理に携わってきた。彼の記憶の中には、東京の電力インフラの半世紀にわたる変遷が、まるで立体的な地図のように刻み込まれている。どの電柱がいつ建てられ、どの変電所が何年に改修されたか、すべて頭の中に入っているのだ。


 しかし、そんな古賀の豊富な知識も、デジタル化の波の前では、やや古い様式として扱われつつあった。蓮見課長は、古賀の経験は尊重しつつも、AIとビッグデータこそが未来の保守管理の鍵だと信じていた。


 同僚たちは、この単調な作業に早々に飽いて、スマートフォンの画面に視線を落としていた。彼らにとって、古い図面は単なる「処理すべきタスク」に過ぎない。一枚につき三十秒でスキャンし、ファイル名をつけてサーバーにアップロードする。効率が全てだった。


 だがアキラは違った。一枚一枚の青焼き図面が、アキラにとっては。昭和三十年代に描かれた手書きの配電系統図。そこには、今はもう地中に埋設されたり、ルート変更で廃止されたりした電柱たちが、生き生きと描かれていた。


 青焼き図面――正式にはジアゾ複写法による複製図面――は、現在では博物館でしか見ることのできない、貴重な技術遺産だ。アンモニアの独特な匂いを放つこの複写技術は、一九二〇年代から一九八〇年代まで、設計図面の複製に広く用いられていた。


 原図を半透明の紙に描き、感光紙に重ねて紫外線を照射する。現像液にアンモニアを用いることで、青い背景に白い線が浮かび上がる。デジタル技術に慣れた現代人には考えられないほど手間のかかる工程だが、その分、一枚一枚に製図者の魂が込められていた。


 (この頃はまだ木柱が主流だったのか……腕金の取り付け方も今とは全然違う)


 アキラは図面の隅に記された小さなメモ書きに目を留めた。「昭和39年10月、五輪景気ニテ資材不足。一部規格外品ヲ使用」。そんな記述が、無機質な図面に温かい血を通わせているように感じられた。


 一九六四年の東京オリンピック。それは日本の戦後復興の象徴的な出来事だったが、同時に大規模なインフラ整備が必要な時期でもあった。鋼材不足、セメント不足、技術者不足。そんな困難な状況の中で、現場の技術者たちは創意工夫を凝らして、都市のインフラを支え続けたのだ。


「規格外品」という表現の背後には、当時の技術者たちの苦闘がある。JIS規格に適合しない資材でも、工学的に問題がなければ使用する。そのためには、材料力学の深い知識と、豊富な現場経験が必要だった。現代のように、コンピューターシミュレーションで安全性を検証することはできない。全て、人間の目と勘に頼らざるを得なかった。


 アキラは、そんな先人たちの努力に思いを馳せながら、図面を慎重にスキャナーにセットした。高解像度でデジタル化することで、将来の研究者が細部まで検証できるようにしたかった。ただの業務としてではなく、文化財の保存のような気持ちで作業を進めた。


 来る日も来る日も、アキラは都市の記憶をスキャナーに通し続けた。それはアキラにとって、都市の血管を遡り、その成り立ちを追体験する旅のようだった。何気なく見上げていた日常の風景が、先人たちの試行錯誤と労働の積み重ねの上にあることを、アキラは肌で感じていた。


 ある日、アキラは興味深い発見をした。昭和四十年代の図面に、現在では考えられないほど複雑な配電経路が描かれていたのだ。まるで迷路のように入り組んだ電線の配置。なぜこんなに複雑にする必要があったのか?


 古賀に尋ねると、彼は懐かしそうに笑った。


「ああ、あの頃はね、土地買収が大変だったんだよ。地主さんが『うちの土地には電柱は立てさせない』って言ったら、。今みたいに、法的な強制力もなかったからな」


 そう、電力インフラの歴史は、技術の進歩だけでなく、社会情勢や法制度の変遷とも密接に関わっている。電気事業法の改正により、電力会社の権限が強化される以前は、一本の電柱を立てるのも一苦労だったのだ。


 地主との交渉は、時として数年に及んだ。そのため、設計者たちは、まるでパズルのように、限られた土地を有効活用した配電経路を考案せざるを得なかった。その結果生まれたのが、一見非効率に見える複雑な配線だったのだ。


 しかし、その「非効率」な設計にも、実は隠された知恵があった。複数の経路を確保することで、一箇所に故障が発生しても、別の経路で電力を供給できる冗長性が生まれる。現代のネットワーク理論で言うところの「耐障害性」を、当時の技術者たちは経験的に実現していたのだ。


 自動化されたシステムが支配する現代において、人の手で描かれた線の揺らぎは、ひどく愛おしいものに思えた。CADソフトが描く完璧な直線とは違い、製図ペンの微妙な震えや、インクの滲みまでもが、その図面を描いた人の息遣いを伝えている。


 アキラは、時々立ち止まって、図面の片隅に小さく記された署名を眺めた。「設計:田中」「検図:佐藤」「承認:鈴木」。今では退職し、あるいは既に亡くなってしまった技術者たちの名前が、インクの文字として残っている。彼らが設計した電柱は、今でも街角に立ち続け、人々の生活を支えているのだ。


 それは、ある種の不老不死と言えるかもしれない。肉体は滅んでも、設計した構造物は何十年もの間、その人の意志を体現し続ける。電柱とは、技術者たちの集合的な魂が宿った、都市の守護神なのだ。


 そんなある日の午後。アキラは、資料室の最も奥、誰も近寄らない施錠されたキャビネットの存在に気づいた。「旧第一工務部管轄 重要設備台帳」とプレートが貼られている。他のキャビネットとは明らかに雰囲気が違う。まるで、封印された何かが眠っているかのような、重苦しい存在感を放っていた。


 好奇心に駆られ、古賀に鍵の在り処を尋ねると、彼は少し驚いたような顔をして、錆びついた鍵の束を渡してくれた。


「蓮見課長には内緒だよ。あそこにあるのは、もう誰も見向きもしない、みたいなもんだからな」


 呪われた遺産。

 なんとも意味深な言葉だった。

 古賀の表情には、懐かしさと同時に、どこか哀しみのような感情が浮かんでいる。


「あの人の資料は、蓮見課長が就任してすぐに廃棄命令が出たんだ。でも、わしにはどうしても捨てられなくてな。こっそりとあそこにしまっておいたんだよ」


 古賀のという言い方には、特別な響きがあった。尊敬と親しみ、そして深い悲しみが混じり合った、複雑な感情。


 ぎ、と重い音を立ててキャビネットの扉が開く。中には、さらに厳重に和紙で包まれた、巨大な図面ケースが収められていた。和紙の包装からは、古い書物のような、時の重みを感じさせる匂いが立ち上ってくる。


 アキラがそれを埃っぽい作業台の上で慎重に開いたとき、この都市の見えない囁きを聞くことになる運命が、静かに動き出したのだった。


 和紙を解くと、中から現れたのは、これまで見たことのない種類の図面だった。表面に特殊なコーティングが施されているのか、新品のような光沢を保っている。そして、その情報密度の異常な高さに、アキラは息を呑んだ。


 これは一体、何なのだろう?


 アキラの心は、期待と不安で激しく波打っていた。封印されていた何かが、今まさに解放されようとしている。その「何か」が、自分の人生を大きく変えることになるとは、まだ知る由もなかった。

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