おっさんと野獣

アガタ

第1話 嵐の森


 嵐は、雨をともなって男のマントを強く叩いていた。

 剥き出しになった顔と手が、雨水に濡れそぼる。

 男の顔に刻まれた、三十路を越えた中年の皺に雨水が伝う。節くれだった手は、雨の冷たさに凍えている。

 男の名はヴェルナール・ボナールと言う。

 彼は森の中、馬に乗っていた。手綱を持つ手は緊張で硬くなり、冷や汗がこめかみを伝う。


(くっそ。迷っちまった)


 ヴェルナールは商人だった。今日も街へ商談に言っていたのだ。しかし、それは破綻に終わった。今はその帰り道だった。早く帰ろうと思って近道にこの森を選んだのが間違いだった。彼はすっかり森の中で迷ってしまい、おまけに嵐までやって来た。


(なんて日だ。まったくよぉ)


 風がドウと吹いて、横殴りに吹きすさぶ。馬が小さく嘶いた。ヴェルナールは嵐に怯える馬を落ち着かせようと、その背を撫ぜて、手綱を引いた。

 ヴェルナールは隣街一帯で財を成した商家の二代目だったが、彼には商才がまったくなかった。商う商品は多岐にわたったが、それは父が遺してくれたもの。彼自身才能とは別だった。稼業を継いでからこっち、やることなすこと上手くいかず、嫁いで来た妻は早々に病気になり、天国に召されてしまった。


 残った一人娘のベルだけが、彼の心のよりどころだった。

 ベルの為に、父であるヴェルナールは明るく楽しくをモットーに一生懸命働いた。

母を早くに亡くした娘に、少しでも楽しい暮らしをさせてやろうと、ヴェルナールは道化よろしく陽気に立ち回った。


『見て見てベル!ほーら出張先のモミアゲだ~!』

『きゃっきゃっ!おとうたま!……それを言うならお土産でしょ……』


商才の無い彼にあるとりえは、陽気さだけだった。その陽気さのおかげで、友人は多かったし、顧客もまあ、父の古なじみくらいは失わずにすんでいた。

だから今日まで稼業を続けてこられたのも、ベルがいてくれたおかげだった。

そして、彼女は結婚を控えるまですくすくと、美しく成長した。

 ベルの結婚を盛大に祝ってやろうと、勇んで新しい商談に出かけて、結果がこれである。


(大それたことやるんじゃなかったな。おまけに嵐の中、迷子とは……自分の運のなさが嫌になるぜ)


 ヴェルナールのついた溜息は、嵐の巻き起こす風にのってたちまち消えていった。

 森を当所も無く彷徨い、ここが何処かもわからない。


「もう……」


 駄目かもしれない。ヴェルナールが諦めかけたその時だった。

 遠くで、何かがはためいているのが見えた。

 それは木々の間から顔を出していて、ゆらゆらと揺れている。


(なんだ?)


 木々の葉とも思われない。明らかに人工物に見える。


「行くぜ!」


 ヴェルナールは、馬を奮い立たせると、その揺れるものに向かって走り出した。木々の間を抜け、落ち葉を蹴散らしひた走る。

 突然目の前に、背の高い巨大な門が出現した。


「これは……!」


 ヴェルナールは雨粒を避けて眼の上に手を翳し、目を見開いて門を見上げた。アーチ状の門は堅牢で、背が高く、立ち並ぶ柵の鉄柱はユニコーンの角のように渦巻いて分厚かった。周りはアラカンサスの葉と蔦の装飾に縁どられ、門の中央には大きな抽象的な金色の翼が広げられて、右門と左門を飾っている。

 門を囲む白い塀も相まって、何かの口のようにも見えた。

 その門の頂きに、白いスカーフが引っかかって、ひらひらと揺れている。


(俺が見たのは、あのスカーフだったか)


 吹きすさぶ風が、門を強く押す。叫び声のような音が響いて、門が開いた。

 その時、空がカッと白く光った。続けて、地も割れんばかりの轟音が響いて、雷が落ちる。

 馬が驚いて前足を上げ、恐慌状態になり門に向かって走り出す。慌ててヴェルナールが「止まれ!」と声をかけたが無駄だった。

 馬は、そのまま門の中に吸い込まれるように走り込んで行った。

 わき目もふらず馬は疾走する。ヴェルナールは馬上にしがみ付きながら手綱を引き、叫んだ。


「止まれ!止まれ!」


 長い前庭を抜け、馬が地を蹴って走る。ヴェルナールは何度も手綱を左右交互に引く。

 馬が首を振り、ブルルと吐息を吐く。馬の脚の速さが少し緩んだのをヴェルナールは見逃さなかった。


「どう!どうどう!」


 ヴェルナールが手綱に込めた力を抜く。馬の恐慌状態がじょじょに収まって行き、四本の脚がゆっくりと止まった。


「よーし良い子だ、良い子、良い子……」


 そう囁きながら、手綱を短く持ち、ヴェルナールが体を起こして肘を引く。馬が左に首を振って完全に静止した。

 顔をあげて、前を見る。

 そこには、広大な屋敷が広がっていた。

 長いアプローチに、ポーチがあって、その奥に瀟洒で大きな玄関が見えた。


「……?」


 ヴェルナールが、怪訝な顔をしながら鐙に足をかけて馬上から降りる。

 先ほどとはうって変わった天気だ。雨は小雨になり、優しくヴェルナールの頬を濡らすばかりだ。

 嵐が過ぎ去ったのだろうかと、門の方を見る。すると、はるか遠くに門の向こう側が見えた。向こう側で、雷が落ちた。嵐は猛威を振るい、荒れ狂っている。

 一方門のこちら側は、嵐は止んでおり、雨は優しい。

 まるで屋敷に結界が張ってあるようた。

 ヴェルナールは、乱れたマントを整え、きょろきょろと辺りを見回した。


(なんて美しい庭だろう)


 そこは花園のような絢爛な庭園になっていた。

 何という、いい香りがあふれていて、目の醒める様に、綺麗な庭だろう。

 ジキタリスやアルセア、ラベンダーが植わっている宿根草の花壇は新しい芽を出して、細い葉の間から赤色や紫色の花が覗いている。

 草むらにはあちこちにアイリスや白ユリが群生し、常緑樹のアルコーヴには、すっと高く伸びたデルフィニウムやカンパニュラの青花と白花が揺れていた。

 それらが雨に濡れて、しっとりど庭全体を飾っているのだった。

 視線の端に円筒形の塔屋のついた厩舎が見える。

 そこに馬をゆっくりと引いて行くと、彼を繋いで休ませた。

 それから、ポーチに戻った。玄関ポーチは大理石でできており、緩やかな両階段が広がっていた。階段には流線形の黒い鍛鉄の手すりが備え付けられており、それを支える柱には、神話の女神達を模した彫刻が、一つ一つ施されていた。

 玄関の前に立って、見上げて眺める。

 玄関に立つのは、重厚なオークに躍動感のある貝殻と小石などの曲線状のモチーフと愛らしい小薔薇の中を舞い遊ぶ妖精の彫刻があしらわれた二枚扉だった。二枚扉には、それぞれグリフォンを象った大きな戸打ち金具が付けられていた。

 ヴェルナールは真鍮で出来たグリフォンの戸打ち金具を手に取った。その頭が喰いついた真鍮の輪は重く、ヴェルナールは慎重に輪で戸を叩いた。

 誰も出てこない。

 雨で凍え、手がふるえる。もう一度強くノックする。また返事がない。ヴェルナールは、しびれを切らし、声を上げて呼びかけた。


「ごめんください!」


 返事は依然としてなかった。体が冷えていてどうしようもない。ヴェルナールは、思い切って扉を押した。ガタンと扉が開く。勢いあまって、ヴェルナールは屋敷の中へ転がり込んだ。

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