【字余り】雌雄を決す
「俺からも訊いていいだろうか」
「どうぞ」
青島は少し考えてから、「失礼に当たったら申し訳ない」と前置きしてから僕に問う。
「砂藤くんは、どうして糸篠さんの隣にいるんだ?」
「と、申しますと?」
彼は一度頷いた。
「糸篠さんは友達がいない」
「そうですね」本当にそうですね。
「人付き合いが得意な感じでないのは知っているが、どうも君とは仲がいいと言うか……いや、糸篠さんから君にアプローチを掛ける理由は誰もが知るところだが、何故君は友人という立場でい続けられるのか? というのは誰も知らない。良ければ教えてくれないかね、君のことを」
青島の語り口は最早穏やかだった。彼の拳は感傷に煮崩れて、人を殴る形をしていない。同時に少しだけ熱意もあって、どうも彼にはこの数十分の出会いという奴が、新たな友情を芽生えさせる一つの機会のように思えているらしい。
本当に優しい人なのだろう。温かな世界の中で生きて来た、罪も穢れも無い立派な男だ。
僕はそういう人間が好きだし、嫌いだ。
温水に浮かぶような心地で、手の中でぬるくなってゆくペットボトルの感触を、丁寧に指でなぞった。硬い実感が欲しかった。
心臓が笑う。ときめくように瞬くように。
「僕もね、糸篠と勝負してるんですよ」
青島は一瞬呆けた顔をしてから、それから三秒ほどの長い時間を掛けて大気を吸い込むと──一気に破顔した。鼻から笑い声が漏れる。それからすっと目を細めて、熱い息を吐きながらベンチにもたれ掛かった。全体重を乗せて青島悟志が溶ける。片腕で目元を覆い隠すと、少しの間そのまま、緩やかに言葉を反芻していた。
きっと青島の閉じられた瞼の裏では、あの日見た糸篠ユウの姿が何度も蘇っては消えて、蘇っては消えて──を繰り返して、少しずつ遠のいているのだろう。恋という病のけじめと、二度と罹らぬようにという心持を、何度も繰り返し唱えては、その呪文を糸篠の美しさが圧し潰してしまうに違いない。けれども乱反射する鼓動が血の温度と速度を上げて行って、それがこめかみ辺りに痛いくらいの血管を浮かせた辺りで──その加速と沸騰は、諦念という剣で袈裟懸けに心臓ごと切り裂かれた。
青島悟志の恋は死んだ。
死んだ者は蘇らない。
精悍な顔立ちを取り戻した青島は、曲げていた体躯をきっぱり元に戻すと、一層爽快な風で僕を見た。憐れみとも慈悲とも取り難い、なんと言えば良いだろう──幸福な感情と不幸な感情をマーブル模様に染み込ませてから、不幸の色だけを取り除いた後の姿で、そこには確かに不幸な色は残されていないのだけれども、異様なほどに歪曲した幸福の色、そして不自然な無色の部分が、哀愁を漂わせる感じだ。
「君は幸せ者だ」
僕は低く頷いた。
青島は地面に置いていた鞄を肩に掛けると、立ち上がり僕に背を向ける。
そしてそのまま、いなくなるように思われたが、フと遺言の様に、最期の禍根を断つ為にと彼は口を開く。
「そういえば何で勝負してるんだ?」
一瞬の黙考が夜を揺らす。
一番近い他人の心臓が揺れたような感覚だ。しかしそれは、どうも僕の物だったらしい。何処か他人事で、同時にそいつは脈動していた。
一口、息を呑む。
「普通にやったんじゃあ、勝ち目ありませんから」
「そりゃそうだな」
背中越しの彼の声が苦く笑う。
その笑みは伝染した。病のように。
「だから、どっちが早く死ぬか勝負してます」
青島悟志が振り向いた。
愕然と振り向いた。
「勝ったら僕は糸篠と付き合って、負けたら二度と会わない」
青島の顔。仮面でも貼り付けたかのような顔。
その顔と言ったら──目の前を歩いていた人にイキナリ落雷が落ちて一気に絶命してしまったかのような、不快を驚嘆に追い出された表情だった。
「お前何言ってんだ?」
早急に怒気を孕んだ声が僕に飛び掛かる。
「お前はその勝負で何がしたいんだ。だって、お前……その勝負に決着が着くときには、どちらか片方が死んでしまっているわけだから、絶対に糸篠さんとお前は付き合えないじゃないか」
「僕は糸篠と付き合いたいわけじゃないですよ」
僕の弁明は青島の怒号に掻き消される。
「違う。何を言ってるんだお前は。俺はお前の心配なんてしてない。お前は何がしたいんだ。彼女の心を弄んで楽しいのか?」
翻って距離を詰める青島は、一直線に僕に近づくと、胸倉を激しく掴み、持ち上げた。身体がベンチから浮いて、僕のうなじはきゅっと冷えた。困惑と怒りの感情が青島の身体を支配して、ついぞ行われなかった暴の行為が現れる。
彼は怒り故か震える肺に弾丸を充填して、爆ぜるように放った。
『だって──糸篠さんは砂藤のことを、何処からどう見ても好きじゃないか』
突き飛ばすように離されて、僕はむせる。帰って来た重力の実感をベンチの冷たさに思い出しながら青島を見上げると、我に返った青島は顔面を蒼白にしていた。咄嗟に暴力の行為に身をやつした、己の両手を震えながら見つめていた。意図的に僕から視線を剥がしているように思えた。
その表情は硬く、しかし怯えとは遠い。
僕には分かる。青島悟志は、自分なりの方法で糸篠ユウを守りたいのだ。納得できない不幸から彼女を守りたい。出来る限りの苦しみから守ってあげたい──それは普通の感情だと思うし、同時に高潔だとも思う。
けれども僕は知っている。青島悟志が、糸篠ユウに向けていた恋慕が、憧憬から派生した感情であることを知っている。それでは駄目だ。青島悟志に糸篠ユウは渡せない。僕にはまだ、彼女の隣にいる権利がある。
ベンチに体重を預けるのは辞めた。僕は自分の足で立つ。それから、青島の質問を頭骨の中で何度か反響させてやった。『お前はその勝負で何がしたいんだ──』『──お前は何がしたいんだ。彼女の心を弄んで楽しいのか?』
まるで主人公のようだ。ヒロイックで懸命で、一人の女性の幸福の為に悪意に挑む。そういう人が、僕は好きだ。
けれども【僕】と【青島悟志】は違う。
「そうですね……」
決定的な差異が在る。
覆し難い事実が在る。
「最高に気分が良いです」
何が違うって簡単だ。
僕は糸篠に好かれている。お前は好かれていない。完璧で究極な二分だ。この壁は決して崩れない。幸福の波はその壁を越えない。僕の世界で黄金比の渦を巻いて、他の誰にも降り注がない。
僕は、僕の世界に渦巻く激流のような有頂天を、不景気な顔面を晒す彼にも分けて遣ることにした。
「あんなにも綺麗で可愛くって何でも出来る女性が、無条件に僕のことを好きでいてくれることが嬉しくて堪らない。何度も飯や酒に誘ってくれて、遊びにも誘ってくれて、それを邪険に扱っても好きでいてくれる。自分が優しいんだぜって頻りにアピールしてくるところなんて堪らない。まるで邪念なんて無いみたいに家に何度も、何度も誘ってくれるのも滅茶苦茶に気分が良い。あれだけ気の無い素振りをされても僕のことを好きでいてくれる糸篠のことが、僕は大好きだ」
青島は喋らない。彼の中身で夥しい言葉の魚群が駆け巡っていた。そうして巨大な魚影となって彼の善良を喰い尽くす。
僕はそういうのが好きだ。
「貴方みたいな連中に嫉妬されるのも気持ち良くって仕方が無い。どいつもこいつも、好きな女に敗けた挙句僕に逆恨みで突撃してくる癖に、僕が一つや二つ、糸篠がどれだけ僕のことを好きなのか──そういう思い出を語ってやると簡単に意気消沈してとぼとぼ帰っていくんです。その小さい背中を見るたびに気持ちが良くってしょうがない。貴方は糸篠に敗けて全否定された気分だとか言っていた。そういうのも最高だ。興味の無い他人が、しかもある程度自分に自信を持っていた人たちが、今までの人生を卑下して僕にまで敗けを認めるのは最高の気分だ。僕は何もしていないのに、人は勝手に僕に敗ける。僕は勝ち続ける」
糸篠という光に誘われた虫は、そのガラスの檻の中で息絶える。僕はその死体を啄む小さな鳥だ。鳥は自由で光に誘われない。けれども光はなに故か、鳥の声が好きなのだ。
青島の口から、魂のような言葉が零れた。
「お前それの何が楽しいんだ?」
「全く分からない気持ちですか?」
僕は問いたい。お前の、糸篠さんを守りたいという感情は、真に高潔な感情なのかと。まるで清廉に取り繕ったその顔面も肉体も、原動力からすべてが綺麗なものであったと、お前が好きな何かに誓えるのか? 恋とか愛を綺麗な結晶だとは思っていないか? 所詮生物としての欲や衝動に過ぎない一過性の熱病に、何か幻想的な価値観を、己の視点から算出してはいないか?
傲慢な問いであることは自覚している。しているが
僕はそういうことを、世界でただ一人、お前に問うことが許されているのだ。
糸篠ユウを好きなこと、糸篠ユウに勝ちたいこと、糸篠ユウに好かれていたいことは、全てが同時に成立する。僕はそれをよく知っている。
所詮台風に巻き上げられた一石でしかない青島悟志では、風のカタマリ足る糸篠ユウには触れ得ない。
即物的な欲求に身を焼く限り、勝利の女神は微笑まない。
「貴方は糸篠と付き合えても誰にも自慢しませんでしたか? 見せびらかしたいという気持ちは、絶対に微塵も無いと誓えますか。その好意は純真で必ず綺麗なものでしょうか。糸篠を幸せできると。貴方が。彼女は僕が好きなのに? 青島悟志には、糸篠ユウをトロフィーのように思う部分は一切いないと断言できますか? 貴方は──」
暗闇に光が散った。白い火花が消え去ってから、冷たさの後に煮えるように熱くなる。殴られた箇所が血の行き止まりとなって赤く疼いた。
折れんばかりに歯を食いしばり、すべての情報を吸い込まんと両眼を広く拡大させた青島が、喉に物でも詰まらせたみたいにkaとかcuとか呻いて、せっかく整えた髪をぐしゃぐしゃに乱す。
僕はそういうのが嫌いだ。
初めは、途方もないくらいに高潔な気持ちだっただろう。自分には、好きな人を守れるだけの力と資格があるって信仰していたはずなんだ。鍛え上げた身体も、練り上げた哲学も、自分だけの宝物で宝剣で、綺麗で美しかったはずなのだ。
けれども一縷の嫉妬に狂って、自ら己の鎧を穢す奴なんてのは、悲しいし救えない。正確には救えなくなってしまった。だって、一度感情に任せて拳を奮ってしまった彼が、初めから高潔であった証明は、もう、二度と。誰にも為し得ない夢幻に成り下がってしまったのだから。
痛みを拭う。血は出ていなかった。
青島が本気で殴れば骨だって砕けるはずなのに、誰も僕を殴る時に激しくしない。何の得も在りはしないと言うのに、誰も本気で殴らない。
拳という部位──手でも腕でもない、拳だ。その部位という奴は、他のどれよりも本気の感情を込め易いはずなのに、けれども誰も、僕を本気で殴らない。青島も糸篠も、過去の有象無象も悉く。
それは僕という存在が、誰にも本気にされない存在であることの証明のようで
僕はそういうのが嫌いだ。
糸篠よりも、僕へと優先して感情を向けられることは未来永劫在り得ない。彼女の隣にいる限り。彼女に好かれ続ける限り、世界中の愛は真横の美しい女に吸い込まれて、僕は変わらず路傍の石だ。
僕はそんな下らない自分が、誰よりも嫌いなのだ。
「冴えた方法が一つ在る」
冴えた理屈が一つ在った。
青島悟志が、その胸に未だ燻る糸篠ユウへの恋心よりも、僕への殺意を優先し、僕を撲殺したならば、彼の中で僕は糸篠ユウを超えるのだ。
糸篠ユウという世界で一番優れた人間を、僕はこの瞬間だけ完璧に凌駕できる。
僕が糸篠に勝つ唯一の手段は此処に在る。
「貴方がその拳で僕を殺せば、糸篠は僕に勝ち、貴方は僕に勝つ。僕が死んだ時に空く人類のスペースは、きっと一人分じゃない。糸篠の隣という立ち位置の価値は、貴方にはよくわかるはずだ。僕がいなくなれば何百人もの人間が幸せになるかもしれない」
青島の身体から困惑は消え去っていた。そんな
羽を捥がれた矮小な鳥は、斯くて人語で囁く。
『やってみればいいんだ。難しいことじゃないだろう。その気持ちも、筋肉も、飾りじゃない本物なんだから』
──────────・・・
青島が逮捕されて、町は少し静かになった。僕は持ち込みの本を読み流しながら、今か今かと、彼女の見舞いを待っている。
その時は案の定すぐに訪れて、息を切らせた糸篠が、バカみたいな量の暇つぶしと差し入れを持って病室に駆け込んで来た。僕が振り向くと、泣きそうな瞳をぐっと拭って取り繕って、「生きてんじゃん……」と熱い息を吐くのだ。僕は一瞬で元気になる。糸篠ユウが可愛くて仕方が無い。僕は折れていない方の手で挨拶をしてから、塞がれた唇でふごふごと喋る。わざと不格好に喋ってやると、まるで赤子のように糸篠は笑う。僕も笑う。病室には笑顔が咲き乱れ、幸福な感情だけが得も言われぬ花の香りのように漂っている。
僕は今回も生き残った。
糸篠と雌雄を決するのは、当分先になるだろう。
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