第33話 「結婚したい?」
1. □ ホチキスで留められた進路調査のプリントが、先生の手から次々と渡されていく。「将来の夢」「進学」「就職」「十年後の自分」──白い紙に並ぶ言葉はどれも軽やかで、僕の手の中に来た途端、まるで濡れたタオルみたいに重さを帯びた。鉛筆を握る指先は、微かに痙攣する電線のように震え、最初のマスに名前を書くだけで呼吸が浅くなる。胸の奥では、言葉にできない焦燥がぐるぐる回っていた。
2. □ 前の席から聞こえる声は明るい。「理系で首都圏かな」「私、早く結婚したーい」笑い混じりの未来形が教室の天井で跳ね、蛍光灯の白い光と一緒になって降ってくる。僕は紙を裏返して、机の天板と紙の間にそっと隠した。見なければ無かったことになる……はずがないのに、見えなければ痛みは鈍る、と身体が覚えた逃げ方に、どうしても手が伸びてしまう。
3. □ 「蓮は?」隣の気配が近づく。小鳥遊明日香の声は、相変わらず鼻にかからない澄んだ響きで、僕の耳に届くと同時に胸骨の裏側まで沁みてくる。視線だけ横にずらすと、彼女のプリントは七割がた埋まっていた。文字の列は真っ直ぐで、インクの濃淡さえ綺麗だ。僕はタブレットを起こし、指で《わからない》と打とうとして、《わからなぃ》になった画面を、すぐには見せられなかった。
4. □ 「そっか、無理に書かなくていいよ」明日香はそう言うけれど、その優しさに甘えるほど、僕の中の黒い声は大きくなる。書けないのは怠けでも反抗でもない。将来像を思い浮かべようとするたび、言葉の出口は鼻から抜ける息みたいにぼやけて消える。『普通』が滑らかに続くための道具を、僕はうまく持てない。紙の白さが、できない自分を鏡のように映してまぶしい。
5. □ チャイムが鳴り、クラスの空気がほどける。雑談が渦をつくり、机と椅子の金属が擦れる音が混ざり合う。「夏休み、旅行行きたい」「インターンどうする?」未来の話題は、軽いボールみたいに手から手へ渡っていく。僕はその輪の外側で、タブレットの端を撫でた。そこに言葉を置けば、せめて存在の痕は残せる気がするのに、今はキーボードの一文字目がやけに遠かった。
6. □ 放課後、廊下の窓から差す西日が床を斜めに切り取っていた。プリントはカバンの底で、教科書よりもはっきりと存在感を主張する固さになっている。昇降口で靴を履き替えると、明日香が待っていた。いつもの自然な笑顔。僕の足取りに歩幅を合わせる仕草は、長いあいだ見てきたはずなのに、その日だけは目に沁みて痛かった。未来に触れる予感が、皮膚の内側でちくちくする。
7. □ 校門を出ると、蝉の声がビルの壁面で反響して増幅されたみたいに大きい。アスファルトの匂いが熱を孕み、鼻腔の奥から頭にのぼる。二人の影が歩道に並ぶ。僕は呼吸のリズムを数えて、心拍の速さを誤魔化す。言いたい言葉は、胸の中で形をとっては崩れ、砂上の城みたいに波にさらわれる。明日香が口を開く前から、内容を想像して震えが強くなるのが自分でもわかった。
8. □ 「ねえ、蓮」呼ばれるだけで喉が閉じる。「大人になったらさ……結婚、したい?」その語尾はいたずらめいて軽いのに、僕には落石のように重く落ちてきた。膝の裏が抜ける感覚。タブレットを取り出す手順すらぎこちなくなる。答えは一つしかないのに、その言葉を置く場所を間違えたら、何か大切なものが壊れる気がして、画面がやけに広く見えた。
9. □ 《むり》と打とうとして、《むリ》になった。『り』の点が一つ多いだけで、意味は同じはずなのに、滑稽さのほうが先に立って胸が焼ける。画面を見た明日香の瞳が、小さく揺れた。「どうして?」その問いは責めではなく純粋な知りたいで、だからこそ逃げ場がない。僕は《ぼくはできない》を急いで打って、《ぼくゎできなぃ》の稚い形を突き出す。指はもう、止まれなかった。
10. □ 「できないって、何が?」問い直しは優しい。けれど僕の耳には、割れたガラスを踏む音のように響く。《好きでも 迷惑に なる》が《すきでモ めぃわく になる》になり、さらに《みらい までも こわす かも》と追加しようとして、《みらぃ までも こわす かも》で指が攣った。鼻の奥がつんと痛む。鼻から漏れる息と一緒に、未熟なひらがなが路上にばら撒かれていく感覚がした。
11. □ 明日香の表情が変わる。涙の手前で踏みとどまるように目を見開き、すぐ、迷いを打ち消すみたいに首を横に振った。「迷惑なんかじゃない。蓮がいると、私は助かるの。嬉しいの。ここにいてほしいの」一語ずつ区切って置かれる声が、僕の胸骨に触れて鼓動のリズムを乱す。信じたい。けれど『釣り合わない』は染みみたいにこびりつき、こすればこするほど広がっていく。
12. □ 《ほんとにすき?》のつもりが《ホントにすく?》になる。画面に浮かぶ三文字が、偶然と必然の境目で揺れた。明日香は、笑わなかった。泣き笑いみたいな顔で、うん、と短く頷く。「ほんとに。何回でも言うよ」蝉時雨の隙間を縫って届く声が、皮膚の内側の緊張を少しずつ解いていく。なのに、解けた途端に露わになるのは、恥と恐怖と、言葉の届かなさへの悔しさだった。
13. □ 近くの小さな公園に逃げ込む。ベンチは熱を持っていて、座面に触れた太腿の裏から体温が奪われる。僕は深呼吸の代わりにタブレットの枠を握る。《けっこんは ムリ》と打つ指が空回りし、《けっこんゎ ムリ》で止まる。思い描いた未来像は、入口のない部屋の間取り図みたいに、どこかひとつが開かない。入口を開ける鍵は、結局いつも『普通にできること』に直結している気がして、怖い。
14. □ 「私ね、蓮と結婚したいよ」あまりに真っ直ぐな直球が、体の中心に当たって跳ね返る余裕もなく沈んだ。思わず顔を上げると、明日香は真顔で、でも目元だけが優しく笑っている。「未来はさ、未完成でしょ。だったら二人で描けるじゃん。私ひとりの未来より、蓮と一緒の未完成のほうが、ずっと綺麗に見える」言葉の並べ方が上手いわけじゃないのに、芯が強くて、羨ましいと思った。
15. □ 《それでも?》の確認を、僕は何度もしたくなる。《それでモ?》で送ってしまい、すぐ後悔する。明日香は即答した。「それでも、だよ。何があっても」ためらいのない響きが、僕の弱さを丸ごと抱く形に変わって胸に居座る。『それでも』と言ってもらうために投げてしまう卑怯さを自覚しつつ、救われた事実を否定できない。嗚咽がこみ上げ、口唇から漏れる息が熱く湿る。
16. □ 夕陽は赤を濃くし、街路樹の影を長く伸ばした。ベンチの上で、僕は《ぼくは ここにいて いい?》と打つ。画面の白に、幼い黒が乗る。明日香は「いて。いなきゃ困る」と、少しだけ拗ねたように言った。途端、胸のどこかで固く錆びついていた蝶番が、油を差されたようにきしみながら動く音がした。『いないほうがいい』の呪文が、一文字ずつ剥がれていく。
17. □ 息を整える。鼻から抜ける呼気はざらつき、舌の上で単語がほどけてしまう。もう一度、画面に文字を置く練習をするように、《けっこん》を打とうと決める。『け』に力が入りすぎて、『っ』が遅れ、『こ』で指が跳ね、《けっこ》で止まった。指先の微細な震えが、画面のガラスを通じて骨に返ってくる。仕上げの一文字が遠い。たった一つが、どうしても遠い。
18. □ 明日香は、僕が消去キーに伸ばしかけた指を、そっと自分の指で押しとどめた。「未完成、きれいだよ」彼女は画面を覗き込み、ひどく嬉しそうに笑う。「だって、続きがあるってことじゃん。『けっこ』の先を、一緒に決められるってことだよ」言葉が軽く聞こえないのは、彼女自身が積み重ねてきた隣りの回数のせいだと思う。隣にいるということの、回数の質量。
19. □ 僕は《ありがとう》を、ゆっくり、噛み締めるみたいに打つ。『り』の角度、『が』の丸みを確かめるように時間をかけて、《ありがとう》が、今日は誤字なく並んだ。画面の光が夕焼けに負けないくらいあたたかく胸に返る。明日香は「どういたしまして」を言わず、代わりに、指先で僕の手の甲をすっと撫でた。皮膚感覚で伝わる“了解”が、文字より強く僕を安心させた。
20. □ 公園を出る。歩道の段差に躓きかけた足を、反射的に手すりで受ける。情けなさが喉まで上がる前に、明日香が何も言わず歩幅を合わせる。ふたりの影は、信号待ちの白線の上で重なったり離れたりしながら伸びる。《けっこ》の二文字がポケットの中で微熱を持っている。未来は相変わらず眩しすぎて直視できない。でも、眩しさに目を細めながら並んで歩く方法を、今夜、少しだけ覚えた。
21. □ 夕焼けの色が濃くなるほど、胸に沈む色も濃くなる。公園を出てからの数分、僕は一言も打てず、明日香も不用意に話題を投げてはこなかった。沈黙は罰ではなく、呼吸みたいな休符として二人の間に置かれている。路面の割れ目を跨ぐたび、《けっこ》がポケットで微かに鳴る。続きの一字を足すだけなのに、僕の指先は、その“一だけ”に何年分も迷ってしまう。
22. □ 家の角を曲がる前、明日香が唐突に立ち止まった。風で髪が動き、耳が見える。「ねえ、蓮。『できない』って言う時、私の心も同時に痛くなるの。勝手だよね。でも、多分それは、私の『一緒にいたい』が本気だからだと思う」強く言い切ったあと、小さく笑って肩をすくめる。その自己開示の不器用さが、僕の不器用さと同じ形で胸に収まって、少しだけ呼吸が深くなった。
23. □ 僕はタブレットを開き、《こわい》と打った。『わ』の中空がぶれて二重に見える。続けて、《すきが ほんと か しんじるのが こわい》と置くと、誤字は混じったが意味は残った。信じることは、壊れる可能性へ扉を開くことでもある。僕は壊し慣れていない。壊れた先にある修理のやり方も知らない。だから玄関の鍵をずっと指で撫で、回さないまま時間が過ぎていくのだ。
24. □ 「信じるの、怖いよね」明日香がすぐ肯定した。「でも、私も怖いよ。怖いまま隣にいるって、たぶん一番の勇気じゃん。私、怖いをやめたいんじゃなくて、怖いまま一緒に歩きたいの」その言葉に、勇気の定義が静かに書き換わる音がした。強い人がひとりで進むことではなく、弱さを抱えたふたりが、足並みを合わせるために何度も立ち止まること。それなら、僕にも可能性がある。
25. □ 別れ際、彼女は「明日、進路プリント一緒に埋めよ」と言った。逃げ道を塞ぐためでなく、逃げ道に灯りを置くための提案に聞こえた。僕は《うん》と返す。小さな平仮名が画面に灯る。家のドアを閉めた瞬間、外の世界の音が途切れ、胸の内側で鼓動だけが拡大される。机にプリントを広げ、白い升目を眺める。空白は叱責ではない、招待状だ──そう書いてあるように見えなくもない。
26. □ 机に肘をつく。鉛筆を持つ手は相変わらず震え、筆圧のムラが波のように紙に刻まれる。タブレットに下書きすることにして、《将来》と打てば《しょぅらい》、それをなぞるように鉛筆を滑らせる。字が歪むたびに胸が縮むが、線は残る。線が残る限り、今日の僕は“ここ”にいたという痕跡になる。痕跡は明日への橋脚になる、と信じる練習を今夜だけはやってみることにした。
27. □ リビングから母の足音。「進路、手伝おうか?」と声が飛ぶ。《自分でやる》と返すつもりが、《じぶんで やる… たぶん》と弱音が混ざる。母は驚かず「じゃあ、お茶だけ置くね」とだけ言い、湯気とともに席を離れた。過不足のない支援。必要なところまで、過剰にならない距離感。それがどれほど難しく、そしてありがたいか、僕は今さら思い知って、湯気を吸い込んだ。
28. □ 夜更け、窓の外で風が変わる。ページに《十年後》の欄があるのを見つけ、ペン先が止まる。十年は、僕には季節四つぶんよりも実感がない。タブレットに《じゅぅねんご も きみの となりに いれたら》と打つと、勝手に涙があふれ、画面が滲む。『きみ』と書いた指先が震え、消去キーに迷い、結局そのまま保存した。未完成の告白を未完成の未来欄に貼りつけて、灯りを落とす。
29. □ 眠りは浅く、夢の中で《けっこ》の末尾が永遠に入らない。『ん』は口を閉じ舌先を上顎に添える、頭で知っているのに、身体の配線が一瞬だけ迷子になる。目覚めると、胸の真ん中に小石がひとつ置かれている感覚。登校支度を済ませ、玄関で靴紐を結び損ね、二度やり直す。小さな成功が朝の光を増幅し、同時に小さな失敗が影を濃くする。僕は両方を持ったままドアを開けた。
30. □ 昇降口、明日香はもう来ていて、僕の顔を見るなり「おはよう。昨日さ、寝る前にちょっと泣いた」と宣言した。理由を尋ねる前に、「幸せで泣いた。こんなふうに泣くの初めてで、びっくりした」と笑う。泣く=悲しい、の単純さを彼女は軽やかに裏切る。感情の言語化に長けてはいないのに、感情の所有には長けている人だ。僕は《おはよう ありがとう》と打ち、指先が温かくなった。
31. □ 休み時間、二人で図書室の隅へ。机に進路プリントを広げ、タブレットを立てかける。明日香はまず自分の欄を指さし、「ここは『やってみたい』って書いとけばいいの。正解は後から決める」と笑う。僕は欄外の余白に《こたえを あとから つくる》とメモする。正解を先に立ててから歩く癖を、そっと外す練習。歩き出してから靴紐を結び直しても、道は続いているのだ。
32. □ 「それで、結婚の欄は?」とからかうように言ってから、彼女は慌てて両手を振った。「冗談、冗談。時期尚早!」でも笑いの端に本気が滲む。僕は《わらうのが むずかしい でも きらいじゃない》と置く。図書室の空調音だけが一定のリズムで鳴り、紙の匂いが安心を呼ぶ。『結婚』という言葉は爆音だけれど、ここでは紙の上の活字として無害なふりをして、息をひそめている。
33. □ 僕は試しに、《いまの ぼくでも けっこん したい って いって いいの?》と長めに打った。誤字は散ったが、意味は届く。明日香はペンを置き、視線を逃がさず「言っていい。言ってほしい。言わないで我慢してる顔、私は苦手」と即答する。言わないでいることが思いやりになる場面もある。けれど、今は違うと彼女は判断し、その判断に責任を持つつもりの顔をしていた。
34. □ 「ね、蓮。将来の夢って“名詞”じゃなくていいと思う。『〜になりたい』より『〜と生きたい』で書きたくてさ」彼女は自分の欄に『誰かと笑いながら働く』と記入した。名詞の看板から距離をとる言い方は、肩の力を抜く呪文みたいだ。僕は《きみと いきたい》と下書きして、消さずにしばらく眺め、紙には『誰かと隣り合わせで生きる』と書き写した。手の震えは少し収まった。
35. □ 図書室を出ると、廊下を風が抜けていく。明日香が「お昼、一緒に」と言い、僕は頷く。購買の列でトレーを落としそうになった指を、彼女の手首がそっと支えた。支えるのが自然で、支えられるのも自然でいられる瞬間は、まだ珍しい宝石だ。胸のポケットの《けっこ》が熱を持ち直し、汗ばむ指先に伝わる。あの一文字は、僕だけの宿題じゃない。二人で持つ、共同課題なのだ。
36. □ 昼休みの教室、友人が「進路、親がうるさくてさ」と愚痴をこぼす。ふと視線がこちらに向き、「水城も……まあ、頑張れ」と曖昧な励ましが落ちる。善意は刃物にならない、と思い込んでいる人の角のない言葉。その丸さが、逆に刺さらないまま体内に残って重くなることがある。僕は《がんばるは むずかしい でも やってみる》と打ち、画面を伏せた。言葉の重さを、自分で選びたい。
37. □ 放課後、校庭の隅を歩く。夏の雲は大きく、ゆっくりで、常に形を変えている。「未来って雲みたいだね」と明日香が言う。「触ろうとすると遠いけど、影はここにくるでしょ。形を決めるより、影の下でどう過ごすか、考えたい」比喩は方便だけれど、今日はすとんと落ちる。僕は《かげの したで となりに いる》と打つ。曖昧でいい。曖昧のまま、具体的に並ぶことを選ぶ。
38. □ ベンチに腰を下ろし、僕は深呼吸の要領で、《けっこ》の画面をもう一度開いた。明日香は何も言わず隣で膝を抱え、視線だけで「待ってる」を伝える。急かされない待機は、最大の贈り物だ。僕は『ん』を探しに、指先の地図を丁寧になぞる。肩、肘、手首、指、爪。どこで迷子になるのか、一つずつ確認する。迷子が恥ではない。迷子の地図を二人で描けば、道になるのだ。
39. □ 指を置く。呼吸を合わせる。『ん』は小さく、しかし確かな終止符。打ち込む寸前、僕は一拍だけ視線を外し、空の白を見た。戻した画面に、まだ《けっこ》が灯っている。押せない。押さない、でもない。押すために一度、胸の小石を撫でる作業が必要だった。いなくなるかもしれないものを『いる』と選び続ける勇気は、筋肉みたいに鍛えるしかない。なら、今、一回目をやるしかない。
40. □ その瞬間、校内放送のチャイムが鳴った。空気が震えて、注意が削がれる。僕は笑ってしまい、明日香も肩を揺らした。「世界、タイミング悪すぎ」と冗談めかし、彼女は続ける。「でも、こういう邪魔が入っても、私たちはまた戻れる。戻るたびに強くなる」邪魔=失敗ではないと、丁寧に言い換える相棒の語彙に、僕は何度救われるだろう。画面は閉じない。逃げるのは、今日じゃない。
41. □ 帰り道、住宅街のガラス戸に映る二人を横目に、僕は無意識に姿勢を伸ばした。『釣り合わない』と何度も呟いてきた分だけ、肩が下がる癖がついている。反省ではなく観察として気づき、肩を上げて、吐く。明日香がすぐ気づいて、同じタイミングで肩を上げて、吐いた。呼吸の同期は、言葉の同期よりずっと簡単で、そして時にずっと雄弁だ。並んで歩く、の具体例を身体が学んでいく。
42. □ 角の八百屋の前で立ち止まると、店主が「文化祭のときはありがとよ」と声をかけてきた。あの夜の灯り、あの汗、あの失敗。全部を含んだ「ありがとよ」。僕はタブレットに《こちらこそ》と打ち、誤字なく見せる。店主が片眉を上げて笑い、明日香が拍手を一回。些細な相互承認が、今日の背骨になる。家までもう少し。僕は足の裏で地面を押す感覚を確かめながら、次の一歩を置く。
43. □ 玄関前で立ち止まり、明日香が言う。「今日の蓮、ちゃんと“未来の話”してたよ」評価じゃなく、事実の指摘としての言い方がうまい。僕は《こわいけど はなせた》と返す。「うん。怖いって言えるのが、一番の強さだと私は思う」そう付け加え、彼女は「また明日ね」と去っていく。背中が角を曲がるまで見送ったあと、僕は胸ポケットの《けっこ》に指を添え、ただ“居る”を確かめた。
44. □ 夜。机上のスタンドに白い円が落ちる。プリントの最後の欄「家族に一言」。僕は笑ってしまう。たった一言で済む関係など、どこにもない。けれど欄はある。だから、《ありがとう》と書く。ありふれているが、僕にとっては高価な言葉。ゆっくり、詰まらずに書き終え、タブレットにも同じ言葉を打って、画面と紙のあいだに橋を架ける。二つの“ありがとう”が、今日の支柱になる。
45. □ 布団に横たわると、脳裏を《けっこ》の二文字が通過する。眠りの縁で、僕は小さな仮説を立てる。もしかして『ん』は、目的地じゃなくて、今日を区切る壁時計の秒針みたいなものかもしれない。鳴らなくても、時間は進む。押せなくても、関係は進む。もしそうなら、焦りは半減する。半減した焦りを、明日の前に正の数に変える作業──それを“楽しみ”と呼ぶ練習を、今はしてみたい。
46. □ 翌朝、雨。舗装路に点々と丸い暗さが生まれ、傘の骨が規則正しく雨音を刻む。湿度で喉に膜が張り、声にならない息がより白く漏れる。登校路の途中、段差で躓き傘が傾くと、すっと別の骨が重ねられた。明日香の傘だ。「二人で八本骨、強いね」意味不明で愛しい冗談に、僕は《つよい》とだけ返す。強さは結果ではなく構造で、今日はその構造が視覚的に理解できて、救われた。
47. □ 教室の朝のざわめき。友人が「模試の申込みした?」と訊き、僕は《あとで》と返す。予定が未来を勝手に確定する、その感覚が昔は苦手だった。けれど今は“あとで”が約束の芽だと知っている。芽を枯らさないための水やりは、忘れないための連れ合いが横にいると、少しだけ楽だ。明日香が「あとでね」と復唱し、僕の“あとで”に薄い輪郭が与えられる。輪郭があると、歩ける。
48. □ 自習時間、先生が不意に「未来は変えられると思う人?」と手を挙げさせた。教室の半分が上がり、半分は躊躇った。僕は手を挙げない代わりに、タブレットに《かえられる でも ぜんぶじゃない だから いっしょに》と打った。全能でも絶望でもなく、中間で握る手のぬくもりを選ぶ。明日香が横目で画面を見て、静かに頷く。賛成や反対より深いところで、今日の僕らは同じ側にいる。
49. □ 放課後の図書室。窓に雨粒が並行線を描き、ガラス越しに世界が少しだけ遠くなる。「ねえ、もう一回だけ訊くね」と明日香。「蓮は“いまの蓮のまま”、結婚したい?」試験に出ない質問なのに、胸の真ん中に赤点のスタンプが押される気がして、笑えてくる。僕は逃げずに、《したい》と打つ。打てた自分に驚き、次の瞬間、涙がこぼれた。欲望を言語化することは、呼吸だった。
50. □ 「ありがとう」明日香は、合格点を告げるみたいに言った。続けて「私も“いまの私のまま”、蓮と結婚したい」と置く。完璧な私じゃなくていい、と彼女自身が自分を緩めている宣言に、僕の筋肉の硬直も解ける。僕らは“回復してから”ではなく、“回復しながら”選ぶ。人生のボタンは、治癒のレベルが100%になるまで出現しないUIではない。未完成のUIに、未完成の指で触れるのだ。
51. □ 彼女はノートの端に小さく円を描き、それを二つ重ねて無限大の記号にした。「これ、昔から好きなんだ。重なり目って、綺麗じゃん」僕は《きれい》と返し、《かさなる のが すき》と続けた。重なる=同化ではない。重なる=差異の輪郭が触れて、境界が柔らかくなること。僕の“できない”も、彼女の“できない”も、触れたところから痛くなくなる。そんな体感が、今日の骨になった。
52. □ 雨が上がる。窓の外に淡い光が差し、校庭の水たまりが空の破片を揺らす。「行こっか」と立ち上がった明日香の膝から、椅子の脚が軽く鳴った。何でもない音が、今日の区切りになる。廊下に出る前、僕はもう一度だけ《けっこ》を開く。『ん』のために、身体の奥の音楽を探す。今は押さない。それでも、画面を閉じずにポケットへしまうことを選ぶ。持ち歩く。持ち歩ける。それで十分だ。
53. □ 玄関へ向かう途中、階段でバランスを崩し、踏み外しかけた足が空を切る。瞬間、肘に力が入らず、手すりに指が滑った。恐怖が背中を走る。すかさず、明日香の掌が僕の肩甲骨の間に触れ、体幹が戻る。「大丈夫?」は訊ねず、「痛い?」だけ訊ねる。状況説明より感覚確認を優先され、胸の奥で何かがほどけた。《いたくない》と返す。痛みの尺度を共有できた安堵で、世界が少し静かになる。
54. □ 校門を出ると、水たまりに二つの影が重なった。僕はしゃがみ込み、指で水面を割る。揺れる輪郭は、実物より綺麗に見えることがある。明日香が「結婚式の写真、こういうのにしたい」と笑い、すぐ頬を押さえて「ごめん、飛びすぎた」。飛ぶこと自体が悪ではない。飛んだあとに戻る脚力があれば、景色は増える。僕は《いい ふやそう》とだけ返し、自分の中の景色が一枚増える音を聴いた。
55. □ 夕暮れ、住宅街に風鈴の音が連なる。家々の夕餉の匂いが混じり合い、どれも懐かしい。明日香が「ね、将来の家、キッチンは二人用にしよう」と言う。具体は怖い。でも甘い。僕は《せまくても ならんで たてば ひろい》と打つ。言葉遊びみたいな一文に、彼女が大げさに拍手する。具体は、希望を重くする代わりに、手触りをくれる。重さと手触りは等価交換。今日はそれに同意できる。
56. □ 角を曲がると、郵便受けにチラシが溢れた家の前を通る。「生活って、こういう散らかりも全部含むんだよね」と明日香。理想像の広告紙と現実の凹凸。僕は《ちらかる ひ も いっしょに かたづける》と打ち、《かたづけられない ひ も ある》と正直に付け足す。彼女は「その日は映画観よ」と笑う。片付ける/片付けられないの二択に、第三の選択肢を差し出され、胸が軽くなった。
57. □ 横断歩道の前で信号待ち。僕は突然、《きみが ほんとに すきか ふあんに なる ときが ある》と送った。沈黙。その一秒が刃物のようで、呼吸が跳ねる。明日香は正面を見たまま、「私も、蓮が本当に私を好きか不安になるときがあるよ」と言った。不安は対称形。片方だけが持つ武器じゃない。なら、武器じゃなく道具だ。僕は《どう つかえば いい?》と返し、空いた手で彼女の袖をつまんだ。
58. □ 「不安は、離れるためじゃなく、近づき方を探すためのライトだよ」明日香は指で円を描き、足元を照らすふりをする。「見える範囲が狭くても、照らし続ければ進める。ライトを消すのが一番危ない」僕は《けさない》と打つ。消さないと決めることは、消えるかもしれない瞬間ごと抱えること。難しい。でも、抱え方は練習で上手くなる。僕らには練習時間がある。時間は、まだ、ある。
59. □ 家の前、立ち止まる。「今日は、ここまで」区切る声が優しい。続けて彼女は、いたずらっぽく囁く。「明日、もし『ん』が来なくても、私は怒らないし、失望もしない。でも、来たらめっちゃ喜ぶ。どっちでも蓮は蓮」条件付きの無条件。僕は《どっちでも ぼくは ぼく》と復唱し、《でも よろこばせたい》と足す。欲望を言葉にする。小さな花火が胸で上がり、静かに夜の色へ溶けた。
60. □ 玄関の扉を開ける前、僕は最後にタブレットを取り出し、画面の《けっこ》を親指で撫でた。今日、僕は“押す勇気”までは届かなかった。でも、“持ち歩く覚悟”には触れた。覚悟は、明日を呼び込む磁石だ。家の灯りが僕の輪郭を受け止める。《けっこ》は消さない。未完成のまま、胸ポケットに入れておく。次に取り出すとき、僕はまた僕でいられるように──その約束だけを、静かに結ぶ。
61. □ 夜の静けさに包まれた部屋で、僕は机に広げた進路プリントをぼんやり眺めていた。白い欄はまだ半分以上が埋まっていない。鉛筆を持つ指が痙攣して、線は曲がり、紙にひっかく音だけが残る。書けない自分がまた嫌いになる。でも、タブレットを開くと昨日の《けっこ》の二文字が保存されていて、その未完成がかろうじて僕を繋ぎ止めていた。足りないのに、消せない灯火だった。
62. □ リビングから母の声がした。「蓮、寝たの?」聞こえないふりをして、僕は画面を指でなぞる。《けっこ》は、まだ完成しない。扉越しに「おやすみ」とだけ聞こえてきて、僕は返事をしない。声にできないし、タブレットに打つ気力もなかった。ただ目を閉じ、頭の奥で『おやすみ』を何度も繰り返した。伝わらない祈りは、胸の中で響いては消え、息だけが静かに残った。
63. □ 翌朝、登校中の足取りは重い。晴れているのに、胸の奥には昨日の雨の残り水が溜まっているようだった。途中で会った明日香が「おはよう」と声をかけてくれる。僕はタブレットに《おはよ》と打ったけれど、心は《ほんとに ぼくで いいの?》でいっぱいだった。誤字も揺らぎもなく返せたのに、心はまだ未完成。返せることと信じられることは、全然違うんだと痛感していた。
64. □ 教室で友人たちは「結婚するならさ〜」と笑いながら話していた。相手の理想像を冗談まじりに並べて、未来を軽く消費している。僕は笑えず、耳だけで受け取る。未来を笑いながら語れる自由さが眩しい。笑えない僕の口は息だけが漏れ、胸が苦しい。タブレットに《ぼくにわらえる みらいは くるの?》と打っても、画面を閉じてしまう。見せられない。僕の未来は重いままだった。
65. □ 放課後、図書室で二人きりになった。静かな空気に紙の匂いが漂う。僕は勇気を出して、《すき》と打った。けれど誤字で《すく》になる。何度打ち直しても同じで、指は震えて思うように動かない。明日香は画面を覗き込み、ふふっと笑った。「ねえ、もうそれでいいんじゃない?」そう言って微笑む。未完成の《すく》を、彼女は「すき」と同じ意味で受け取ろうとしていた。
66. □ 「すくって、私には十分伝わるよ」明日香がそう言った瞬間、胸の奥がざわめいた。『十分』なんて言葉、僕の人生で初めて自分に向けられた気がした。十分じゃないから嫌いになってきた自分。足りない、未完成、欠けている。全部を否定して生きてきた。だけど彼女は「それでいい」と言ってくれる。その許しに甘えたい。でも甘えたら壊れるかもしれない。心が激しく揺れた。
67. □ 僕は《ほんとに?》と打つ。明日香は真っ直ぐに頷いた。「ほんとに。だって、蓮が私に向けて打ったんでしょ? それが大事なんだよ」単語じゃない。気持ちの方向性こそが意味になる、と彼女は告げる。僕の心は涙で揺れ、画面が滲んで見えなくなる。《すく》の三文字が光の粒になって散る。涙が邪魔をしても、明日香の声だけは鮮明に耳に届いて、僕を抱きしめるみたいだった。
68. □ ふと彼女が言った。「ねえ、もし結婚って選択を本気で考えたらさ、きっと周りは色々言うと思う。でも、それは全部“外野”だから。私たちが決めればいい」その強さに圧倒される。《ぼくは みらいを こわすかも》と打つと、誤字で《ぼくゎ みらぃを こわすかも》になる。画面を見た明日香は、笑わずに強く首を振った。「壊さないよ。だって、二人で作るんだから」
69. □ 図書室を出ると夕陽が赤く差し込み、床を染めていた。廊下を歩きながら、僕は再び《けっこん》を打とうとした。『ん』だけが遠い。画面には《けっこ》で止まったまま。それでも、明日香は嬉しそうに笑った。「また止まったね。でも、その続きは……私が一緒に待つよ」待つ、という言葉が、背中の重さを少しだけ軽くした。未完成は彼女にとっては“余白”なのだと思えた。
70. □ 「余白って、絵をきれいに見せるためにあるんだよ」明日香が何気なく口にする。僕は《よはく が きみには きれいに みえるの?》と返す。彼女は笑って「うん、すごく綺麗。だって可能性があるんだもん」即答。その即答に救われる。僕は“欠け”としか思えなかった余白を、彼女は“未来”と呼ぶ。呼び方が変わるだけで、景色が柔らかくなることを初めて知った。
71. □ その夜、僕は再び進路プリントを開いた。欄外に小さく《きみと いきたい》と書く。誤字で《きみと いきたぃ》になったけれど、消さずに残した。文字の揺れは僕の生きている証で、未完成の未来と同じだった。ページを閉じると、不思議と心が軽くなった。未完成であることが、未来と同じ意味を持つなら、僕の人生もまだ続けられる気がして、布団の中で初めて安堵した。
72. □ 翌朝、登校中に明日香が突然言った。「ねえ、もし結婚したらさ、どんな家がいい?」胸が跳ねる。僕は《せまくても ならんで すめば ひろい》と打つ。誤字はなかった。明日香は目を細めて笑った。「いいね、それ。じゃあキッチンは二人用だね」具体の未来を語る彼女は、まるで明日を持ち歩くように軽やかだ。僕はまだ重いけれど、その軽やかさを一緒に持ちたいと思った。
73. □ 文化祭の準備で賑やかな教室。未来の話をしていたら、同級生に冷やかされた。「えー、もう結婚の話?早いな!」笑い声は悪意がなくても鋭い刃のようだった。僕は胸が苦しくなり、《ごめん》と打とうとした。でも明日香が「いいじゃん、夢見るのは自由だよ」と即答し、笑って流した。その瞬間、僕は“守られた”と思った。彼女の言葉の盾が、僕を安心させたのだ。
74. □ 放課後、二人で帰る道。夕陽の中、僕はタブレットに《すきが ほんとに つたわるのか ふあん》と打った。誤字で《すきが ほんとに つたゎるのか ふあん》になったが、意味は残った。明日香は足を止め、まっすぐに僕を見つめた。「伝わってるよ。私がちゃんと受け取ってる」言い切る声に迷いはなくて、その迷いのなさが羨ましく、同時に涙が溢れるほど嬉しかった。
75. □ 公園のベンチに腰掛ける。蝉の声が大きい。僕は《すきって いったら きみは よろこんで くれる?》と打った。明日香は笑って「もちろん!何百回でも聞きたい!」と即答した。その答えが眩しくて、指が震える。僕の『すき』は誤字だらけで未完成。でも彼女はそれを何百回でも欲しいと言ってくれる。未完成の言葉を、完璧な愛情に変える彼女の存在が、僕には奇跡だった。
76. □ 「じゃあ、もう一回言って」明日香が少し照れながらリクエストする。僕は必死に《すき》を打つ。でもまた《すく》になる。恥ずかしさと悔しさが混ざって、涙が滲む。明日香は笑って「すくでもいい。だって蓮の“すき”だもん」と答えた。胸が締め付けられる。『すく』が彼女にとっては『すき』になる。その奇跡に救われながらも、自分の不完全さが余計に切なくて、胸が熱くなった。
77. □ 「ねえ蓮、私も言うね。すきだよ」明日香はまっすぐ言葉にした。空気が震えた。僕は息を呑む。声で言えない自分と、声で言える彼女。その差に苦しみながらも、その差ごと彼女を愛しいと思った。僕は涙を流しながら《ありがとう》と打つ。誤字なく出せたその瞬間、胸の奥で何かがほどけた。ありがとうと言えること。それが、僕の『すき』のもうひとつの形だった。
78. □ 日が暮れて、街灯が灯り始める。僕たちの影が重なり、また離れる。僕は《けっこ》の画面を開いた。最後の『ん』がやはり遠い。指が止まる。明日香は画面を覗き込み、そっと僕の手に触れる。「続きは、一緒に打てばいいよ」その優しい提案に涙が溢れた。『ん』は僕ひとりで打つ必要はない。二人で未来を作るなら、最後の文字も一緒に打てばいいのだと気づいた。
79. □ 「ねえ、もし結婚したらさ、子どもとか……」明日香の声が小さく揺れる。僕は驚いて画面を見つめた。未来の具体はまだ怖い。でも彼女は勇気を持って語ろうとしている。僕は《こどもが すき でも ぼくには じしんがない》と打つ。誤字混じりでも、彼女は優しく頷いた。「自信は今なくてもいいよ。一緒に探せばいいんだよ」未来は今から全部決めなくていい、その声が心に沁みた。
80. □ 夜風が涼しい。ベンチを立ち、帰り道を歩く。僕は《ぼくは きみと いきたい》と打った。誤字もなく、震えもなく、初めてまっすぐ出せた。明日香は目を潤ませながら笑った。「私も蓮と生きたい」二人の言葉が重なった。たとえ未完成でも、今この瞬間は完成していた。歩幅を合わせる音が心地よく響く。未来は不確かだけど、今は確かに隣にいる。その確かさが胸を満たしていた。
81. □ 家の前で立ち止まる。「今日はありがとう」と明日香。僕は《こちらこそ》と打つ。画面の光が街灯に重なって揺れる。「また明日も一緒にね」と彼女は笑う。僕は《うん》と返した。声ではなくても、確かに伝わった。未完成でも、明日は来る。その希望だけを胸にしまい、家のドアを開けた。
82. □ 部屋に戻ると、机に広げた進路プリントが目に入る。白い欄はまだ残っている。でも今夜は《きみと いきたい》の文字が心を支えていた。未来は埋められなくても、隣にいる人への気持ちなら書ける。それだけで十分だと思えた。布団に潜り込み、目を閉じる。未完成のまま眠りにつける夜は、不思議と安らかだった。
83. □ 翌朝、鏡に映った自分の顔は、まだ好きにはなれない。でも昨日より少しだけ柔らかく見えた。タブレットに《きょうも がんばる》と打ち、誤字で《きょうも がんばゎる》になった。それでもいい。誤字混じりの自分を認めて、家を出る。明日香に会える。それだけが、今日を生きる理由だった。
84. □ 学校の廊下で、明日香が待っていた。「おはよう!」と笑顔。僕は《おはよ》と返す。昨日と同じやりとりが、今日も繰り返されることに安心した。未完成でも続けられる。それが僕にとっては奇跡のように思えた。
85. □ 授業中、ノートを取る手が震え、文字が歪む。悔しさが込み上げたけど、隣の明日香がそっとページを開いてメモを貸してくれた。僕は《ありがとう》と打つ。誤字なく打てた。小さな成功が胸を温めた。
86. □ 昼休み、二人で机を並べて弁当を広げる。明日香が「いつか一緒にお弁当作りたいな」と笑う。僕は《つくりたい》と打った。誤字もなく出せた。未来の具体が少しずつ形を帯びていく。
87. □ 放課後の空は茜色。僕は《すき》ともう一度打った。誤字で《すく》になった。でも明日香は笑って「また“すく”だね。でも嬉しい」と言った。誤字でも受け止めてもらえる安心が、僕を涙ぐませた。
88. □ 公園で座り、風に吹かれる。僕は《けっこん》と打とうとした。また《けっこ》で止まった。明日香は「その続きは、未来に取っておこう」と笑った。未完成が未来への約束になる。その言葉が胸を温めた。
89. □ 「蓮、私ね、すごく好きだよ」突然の告白に、胸が跳ねる。僕は涙を流しながら《ありがとう》と打つ。誤字なく出せたことが奇跡みたいに思えた。
90. □ 夜道を歩きながら、僕は《ぼくは きみと いたい》と打った。誤字はなく、光が胸に沁みた。明日香は笑顔で「私も」と答えた。二人の未来はまだ未完成。でも確かに同じ方向を見ていた。
91. □ 翌日、教室のざわめきの中で、僕はタブレットに《すく》と打った。誤字のまま、明日香に見せた。彼女は笑って「それ、もう私だけの言葉だね」と言った。未完成の言葉が、二人の秘密の愛情表現になっていた。
92. □ 放課後、校舎裏で風に吹かれる。僕は《けっこん》を打とうとしたけれど、やはり《けっこ》で止まった。明日香は「続きは未来に一緒にね」と囁いた。未来が怖くても、彼女となら歩ける気がした。
93. □ 夜、ベッドでタブレットを見つめる。《すき》《すく》《けっこ》。全部未完成。でも僕にとっては確かな愛の証だった。
94. □ 翌朝、鏡に映る自分に《がんばれ》と打ち込む。誤字で《がんばれぇ》になった。でも、少し笑えた。未完成の自分を笑えるようになっていた。
95. □ 明日香に会うと「おはよう!」と元気な声。僕は《おはよ》と返す。そのやりとりだけで、一日が始められる。
96. □ 授業中、また字が歪む。悔しさが込み上げるけど、隣にいる彼女の存在が支えになっていた。
97. □ 放課後、二人で歩く影が重なり、また離れる。僕は《すく》と打つ。明日香は笑って「大好き」と答えた。
98. □ 公園のベンチ。僕は《けっこ》の画面を開く。『ん』はまだ遠い。でも明日香が「未来に一緒に足そうね」と微笑んだ。
99. □ 涙が溢れた。《ありがとう》と打つ。誤字なく打てた。彼女は「どういたしまして」と笑った。
100. □ 夕暮れの空の下、二人で肩を並べる。画面には《けっこ》の文字が光っている。未完成のまま。でも、その未完成こそが僕たちの未来の証だった。
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