第21話「声にならない問い、涙の答え」

1. □ 夜更け。布団の綿が耳の形に沈み、時計の「コチ」が胸の鼓動とずれる。母の部屋からテレビの笑い声が薄く流れ、現実だけが明るい。

2. □ 目を閉じると、朝の送り迎えと学校のざわめきが逆再生で戻ってくる。最後に残るのは、言えなかった言葉と、喉に残った熱だけ。

3. □ 「……い、な……い ほうが」声にしかけて砕ける。砕けた欠片が鼻へ抜け、涙の形で頬を滑り落ちた。

4. □ 枕の端がじわり濡れて冷たくなる。指で拭うよりも早く、次の雫が「ぽと」と布に吸われて消える。

5. □ 親には聞かれたくない。心配を呼んでしまうから。だから泣く場所は、こうして暗くて狭いところだけ。

6. □ 「生まれなければ」その文が胸の板を三度叩くたび、新しい涙が用意され、行列のように落ちていく。

7. □ 目の縁が熱で膨らみ、瞬きをするたび傷口に水をかけるみたいに痛い。息は浅く、胸は小さく跳ねた。

8. □ 足音。廊下を渡る母の影。息を止め、喉の鳴りを布団でふさぐ。静けさが戻ったあと、罪悪感だけ残る。

9. □ 「大丈夫」と言われたら、また頷くしかない自分が嫌だ。大丈夫じゃないのに、頷けてしまう自分が。

10. □ 努力すれば治るなら、もうとっくに治っている。努力で変わらない場所に、努力だけを押しつけられる痛み。

11. □ だから、涙が代わりに言う。声の壊れた文の続きを、雫の点字で布団へ打っていく。

12. □ 鼻の奥がつんと締まり、嗚咽が勝手に背中を丸める。肩甲骨の間で小さな動物が震えているみたいだ。

13. □ 「いない方が、母は楽だ」思考の針は、刺さるたび鈍くなっても、場所だけは外さない。

14. □ 影のような自分。光の当たらない時間だけ、形がはっきりする。そこにだけ、涙が自由に落ちる。

15. □ 枕を抱え直す。布の匂いは洗剤と夏の汗。生きている証拠がこんな匂いになって残る。

16. □ 眠れない夜は、細かく砕けたガラスの上を歩く感覚に似ている。どこにも足場がない。

17. □ 母の笑顔を思い出す。送り迎えのハザード、急ぐ手つき、でも最後にふっと高く手を振るあの癖。

18. □ あの笑顔も、ぼくを軽くするための重さだったのか。想像だけで、涙がひと段と速くなる。

19. □ 「ごめん」が喉で丸まり、言葉にならない。言えない謝罪が、体のどこにも行き場を見つけられない。

20. □ まぶたの裏で、昼の教室がよぎる。笑い声の高さの中で、ぼくの声だけ低く沈んで見えた。

21. □ いつのまにか時計は一つ進む。夜は公平だ。泣いていようが眠っていようが、同じ速度で過ぎる。

22. □ 「いていい?」小さい声が喉から落ちる。答えはない。代わりに心臓が三度、強めに返事をした。

23. □ 涙が頬から顎へ道を作って、枕元の影に吸い込まれる。ぼくの水分で、夜が少し濃くなる。

24. □ 指先でタブレットを探る。《ぼくは いないほうが よかった?》入力して、保存も送信もせず消す。

25. □ 画面の黒に自分の目。赤い縁取りの中に、滲む光点が一つ。消すたびに、逆に消えないものが浮いた。

26. □ うつ伏せになり、深く吸う。肺が広がるのに、声の出口だけは細いまま。身体は正直だ。

27. □ どこにも届かない嗚咽。親に聞かれないように守った静けさの中でだけ、ぼくは崩れていい。

28. □ 「生まれなければ」——四度目の反芻で、さすがに痛みが鈍る。その鈍さが、逆に怖い。

29. □ いつか痛みも涙も出なくなったら、ぼくは何で自分を確かめればいいのか。

30. □ 目尻が乾いて突っ張り、次の涙が来る合図みたいにまた熱くなる。終わらない波。

31. □ そのうち眠りが来て、眠りの端でまた涙が落ちる。寝息のリズムに、雫の不規則が混じっていた。

32. □ 朝。光は無罪の顔をしてカーテンを透けて来る。鏡の前、目は赤く脹れて、昨夜の秘密を語っていた。

33. □ 台所で母が振り返る。「眠れなかった?」ぼくは小さく首を振る。否定の作り笑いは、口元だけが働く。

34. □ 味噌汁の湯気を吸って喉を潤す。けれど声帯のほうは、まだ夜の強張りを少し残している。

35. □ 「今日は早めに出ようか」母は仕事の時計で話す。ぼくは《うん》と打ち、見せ、息を押し下げる。

36. □ 靴紐が二度解け、三度目でやっと結べた。母は笑って待ち、その目だけが時計へ寄り添う。

37. □ 玄関のドアが開き、朝の涼しさが頬に触れる。昨夜の熱は、まだ薄皮みたいに残っていた。

38. □ 通学路。人の声が重なり、蝉がさらに上から塗る。世界の音量はいつも、ぼくの声より先に満席だ。

39. □ 「おはよう」通りすがり。ぼくも「……お、は……」と出す。返事は風に攫われた。

40. □ ほんの少し、また胸が沈む。届かない挨拶は、存在の輪郭を一瞬薄くする。

41. □ 「蓮くん!」明日香の声は、世界の上に空席を作る力がある。そこへ、ぼくの音がすっと座れる。

42. □ 「目、赤い」指摘は鋭いけど、刺さらない。静かに置かれて、そこに椅子が増えたみたいだ。

43. □ 「……だ、い……じょ」言い切れず。彼女は「そ」と短く頷いて、歩幅を半分に落とした。

44. □ 「昨日、写真の貼り替え見た? きれいだったよ」彼女が“普通”を差し出してくれる。

45. □ 普通の話が、救命具みたいに浮力をくれる日がある。ぼくは「……き、いろ」と小さく答えた。

46. □ 教室。出欠の「はい」が「は、」で壊れる。手を上げる。世界は視覚でやっと受理する。

47. □ 板書。線は波打つのに、意味は真っ直ぐ。昨日覚えたばかりの祈りを、今日も重ねてみる。

48. □ 休み時間。明日香が水を渡す。「のど?」——ぼくは頷く。水は喉だけでなく、夜の跡も少し流した。

49. □ 「昨日、泣いた?」直球。ぼくは一瞬止まり、目が勝手に“はい”の形をした。

50. □ 「親に聞かれないとこで?」——ぼくはさらに頷く。秘密を見つけられて、隠す労力が少し軽くなる。

51. □ 「いない方が良かった?」彼女が言葉の芯に触れる。ぼくは視線を落とし、机の木目で返事をした。

52. □ 「私は、いてほしい」早口でも、迷いのない温度。夜の冷えを内側から押し返す種類の熱だ。

53. □ 涙が予告なく溢れる。教室の光を一粒ずつ抱えて、頬を滑っていく。

54. □ 彼女はポケットから小さなティッシュを差し出す。差し出し方に、慰めの形だけがちゃんとあった。

55. □ 「……ほ、んと?」掠れ声。彼女は笑わず頷く。軽く言わない重さが、信じる練習を助ける。

56. □ 「いない方がいいって、私には一度も思えない」断言は刃じゃなく、盾の面をこちらへ向けてくれた。

57. □ 涙が止まらないのに、痛みの角が丸くなる。昨夜の塩辛さが、今は少し甘い。

58. □ 「泣いてていいよ」許可をもらった瞬間、涙は速度を上げて、やがて自分の速度へ落ち着いた。

59. □ チャイム。授業が始まる。泣いたあとの視界は、少し澄んで、黒板の白が新しく見えた。

60. □ 音読は飛ばしてもらった。彼女が小声で「あとで一緒に」と言い、ぼくは目だけで「うん」と答えた。

61. □ 昼。屋上。風は昨日より塩の匂いが薄い。弁当の卵焼きの甘さが、舌の上でやっと意味を持つ。

62. □ 「夜、息できた?」——「……す、こ し」少し。少しの報告を、彼女は大事に頷く。

63. □ 「泣ける場所を持てたの、えらい」初めて聞く評価。弱さを環境として肯定する言い方。

64. □ ぼくの中で、涙が“失敗”から“手段”に名前を変えた。

65. □ 「母には言えないけど、私に言っていい」彼女は頼り過ぎない距離で、隣に椅子を置く。

66. □ 「……い、て いい?」——「うん、いて」会話が成功した、と胸の奥で小さくチャイムが鳴る。

67. □ 午後の授業。ノートの端に小さく《いる》と書く。震えた字でも、今日の中でいちばん濃い線。

68. □ 放課後。校門へ向かう足が、昨日より半歩だけ長い。影の角度がそれを証明していた。

69. □ ハザードの橙が点滅する。母の顔に疲れの薄膜。けれど笑うと、その縁からゆっくり破れる。

70. □ 「今日は?」——《ふつう でも だいじ》大事、の“じ”が少し太った。母が目を細める。

71. □ 車が動き出す。窓の外へ今日の景色が流れ、ぼくの胸には“まだ”が残った。

72. □ 「目、赤いね」母はミラー越しに言う。ぼくは《ねむい》とだけ打つ。真実の半分で家は保たれる。

73. □ 「産んでよかったよ」突然の直球。昨夜の針が、今夜も準備される気配。

74. □ その言葉を、信じたい。けれど「仕事に遅れるかもしれない顔」を知っている自分が、信を削る。

75. □ 《ありがと》指が震える。送信した瞬間、胸の石がひとつだけ小さくなった。

76. □ 夕焼けの光が車内の埃を金色に浮かせる。見えなかった粒が、今日の終わりにだけ見える。

77. □ 家。玄関の鍵の音「カチャ」。食卓の時計はいつもの速度。昨夜より、針の音が少し柔らかい。

78. □ 風呂の湯に肩まで沈む。水面が涙の塩気を薄め、皮膚の下から強張りを浮かせて流す。

79. □ 鏡に向かい、小さく発音の練習。「——い、て いい?」鼻へ抜けても、意味は折れない。

80. □ 机にタブレット。《ぼくは ここに いる》今度は保存する。誰にも送らない、小さな宣言。

81. □ ベッド。枕の匂いは朝より中立。秘密の記憶を抱いても、夜は何も言わない。

82. □ 目を閉じると、教室の彼女の「いて」がリピートで再生される。音は薄れず、むしろ厚みを増す。

83. □ 母の「産んでよかった」が、今夜は少しだけ近くに座る。完全には信じられないけど、追い出しもしない。

84. □ 「いない方が良かった?」問いは残る。でも、隣に“反論の声”を置けるようになったのは初めてだ。

85. □ 涙がまた一つ、静かに落ちる。悲しみのためだけじゃない涙。肯定のためにも落ちる涙。

86. □ シーツの冷たさが、今度は目を覚ます冷たさじゃなく、熱を引く冷たさに変わった。

87. □ 「——いていい」口の形にする。声は掠れるが、胸の中でだけははっきり聴こえる。

88. □ 返事をするように心臓が三度強く打ち、やがて静かなテンポへ戻った。

89. □ 明日の台本。「おはよう」「ありがとう」「またあした」。三つを磨けば、夜は少し短くなる。

90. □ 眠りの縁で、昨日の自分がこちらを見る。涙で腫れた目。手を伸ばして、その肩にそっと布をかけた。

91. □ あの子は、親に聞かれない場所で泣くしかなかった。だからこそ、涙はまっすぐだった。

92. □ 涙は弱さじゃなく、翻訳だった。言えない文を、体で訳す唯一の手段。

93. □ その翻訳を、少なくとも一人は読める人がいる。明日香。だから、ページを増やせる。

94. □ 「いない方が」——途切れるたび、遠くで“いて”が返す。夜の中で、ゆっくり勝ち越していく。

95. □ 目尻の塩が乾き、皮膚が少し引きつる。指で押さえると、笑う筋肉が一緒に動いた。

96. □ ぼくは未完成。涙も未完成。けれど、その未完成が誰かの“いて”と噛み合う瞬間がある。

97. □ その瞬間のためだけに、今夜は眠る。眠ることも、十分な努力だと自分に許可を出して。

98. □ カーテンの隙間の街灯が、まぶたの裏で静かな輪をつくる。輪は破れず、ゆっくり小さくなった。

99. □ 未完成の恋模様は、未完成の夜を抱えたまま、それでも明日へ向かう準備を終える。

100. □ ぼくは泣いたまま眠りに落ちた。涙の跡に、明日の光が必ず触れると、今夜は少しだけ信じながら。

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