日常

入日譲

せめて、人間らしく

 『せめて、人間らしく』

 庵野監督の作り出す作品、そのタイトルには、何とも形容しがたい魅力があります。


 この『せめて、人間らしく』は『新世紀エヴァンゲリオン』の第弐拾弐話のサブタイトルです。肉感があるというか、語りかけているというか、哀哭めいているというか。どの言葉もどうも当たらずも遠からずという感触がします。他にもいくつか気に入っているサブタイトルはあるのですが、このサブタイトルだけは外せません。


 さて、このサブタイトルが好きとは言っても、私は『新世紀エヴァンゲリオン』はあまり好きではないのです。新劇場版は好きですが。ですので、あまりエヴァについては語りません。今回記したいのは、このサブタイトルの『人間らしく』の部分です。


 はて、『人間らしく』とはどういうことか。

 もちろん作品のサブタイトルなので、作品の内容が関わります。おそらくアスカについてでしょうか。しかし先述した通り、今回は作品について触れることはないです。好きでもあるまいし。


 『人間らしく』という言葉は、特に創作においては、どうも枕詞的に使われる傾向にあります。例えば、「人間らしく生きる」とか「人間らしく死ぬ」とか。アンドロイドや異形になってしまった元人間などの口から出てくることが一般的でしょう。思えば当たり前ですね。人間そのものにとって、『人間らしく』というものはナンセンスというか、人間が成すことは『人間』そのものであるはずです。


 ならば人間は真に『人間』であるのか。


 たとえば「『人間』であるということは、生きることであり、死ぬことである」という考えはどうでしょうか。

 何か違う。人間でなくとも生死を以て、生物であると定義されます。動物にも植物にも微生物にも、生死はあるのです。


 その上で私が至った結論としましては、やはり『意識』でしょうか。

 私は哲学や心理学、精神分析学に明るいわけでもないので、意識というものについて議論するというのは、些か敷居の高い行為のように思えます。同時に、意識について議論を深めたとて、その本質を完璧に解き明かすことはできない、というのが『人間』であることではないかとも思うのです。だからこそ哲学という学問があるのでしょう。


 そして、自分のことを『人間』であると信じてやまないことも、やはりとても『人間らしい』行為であると思うのです。

 「Je pense,我思う、donc je suis 故に我在り」と表せば良いか。ここまで考えると哲学について学びたくなりますね。キェルケゴールかデカルトか、『意識と本質』か。


 今回は一回目の投稿ですので、「必要ない」と思うようなところもあえて残してみました。今後書いていくうちに削減されていくかもしれません。


 私からは以上です。

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日常 入日譲 @yuzuru319

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