0感 ―れいかん―

夜長灯

0感

今どきの霊は、電波に乗ってやって来るらしい。

科学の言葉で言うなら「混線」や「ノイズ」で片づけられるのだろう。

けれど、世の中にはその枠から少しだけこぼれ落ちる声がある。

通話の向こうから割り込む、聞き覚えのない声。

それは本当に電波のいたずらなのか。

あるいは、人ならざるものが回線の隙間から覗き込み、こちらへ手を伸ばしているのかもしれない。

──そんなこととは無縁に、ふたりの学生は昼下がりの部屋でSkypeをつなぎ、延々とゲームを続けていた。

「お、レアアイテム出た」

「やっば、また強化失敗した」

マイク越しの声は弾んでいて、画面の中のキャラクターが跳ね回るたびに笑い声が重なった。

現実では意味を持たないデータに一喜一憂し、絶望し、すぐ笑う。

無駄で、でも心地いい。そんな時間だ。

ほんの一瞬回線が乱れると声はまるで古いロボットのようにもなる。だが、それすらも笑いの種だった。

窓から射し込む光が床を明るく染めていた。

机の上には冷たいお茶がひとつ。昼の光を受けて、薄い黄金色が透けている。

誰も気にとめることのない、小さな輝きだった。

外は平日の昼間。ふつうなら大人は仕事に、子どもは学校に拘束されている時間だ。

けれど今日は創立記念日で、校舎の門も固く閉ざされている。

特別な用事もなく、予定もなく、ただ思うままにゲームへと没頭する。

それは怠惰と呼ばれるかもしれない。だが、彼らにとっては誰にも邪魔されない自由の時間だった。

机の上に散らかった教科書やノートは手つかずのまま。

それでもいいのだ。今日一日くらいは、何も考えず過ごしたってかまわない。

外では自転車のベルがかすかに鳴り、近所の子供が叫ぶ声が遠くに聞こえた。

世界の音を聞きながら今日も画面の向こうの世界でもう一つの世界を楽しんでいる。

だが順調だった進行は、短い一言で中断される。

「ごめん、ちょっとトイレ行ってくる」

人間には、どうしても抗えない強大なボスがいる。

ひとりが立ち上がり、椅子が短く軋んだ音を残す。

残されたもう一人は「いってら」と気の抜けた声で送り出すことしかできないだろう。

通話画面のアイコンは灯ったまま。

慌てていたのだろう、マイクは切られていない。

今日は家に誰もいないと言っていたし、問題になることなどないはずだった。

せいぜい帰り際の鼻歌が拾われて、少しからかわれる程度のことだ。

──その声が紛れ込むまでは。

「ねぇねぇ」

最初はノイズだと思った。

スピーカーの奥で揺れる膜のような響き。

「ねぇねぇ」

だが確かに言葉だった。

彼の声ではない。

幼い、少女の声。

「ねぇねぇ」

抑揚の少ない呼びかけが反復される。

壊れた玩具のスイッチが入れっぱなしになったように、同じ音の並びが間を置いて戻ってくる。

「ねぇねぇ」

繰り返すたびに、空気が湿るような感覚があった。

喉の奥がからからに乾いていくのに、呼吸だけがやけに重くなるように感じた。

一瞬、家族が帰宅したのかと思う。

だが、背筋に冷たいものが走った。

さっき彼は言っていたのだ。今日はひとりきりだ、と。

「ねぇねぇ」

声は続く。

昼の光はなぜか遠く、秒針の音がやけに鮮明だ。

ゲーム画面のキャラクターは待機姿勢のまま、微動だにしない。

その静止が、こちらの硬直を写しているかのようだった。

きっと指先がじっとり汗ばみ、膝は小さく震える。

笑いでごまかそうとした口元は、思ったよりも固く、思ったよりも震えていたことだろう。

「ねぇねぇ」

呼びかけは遊びなのか、それとも別の意図があるのか。

意味のない音列に見せかけて、こちらの返事を待っている気配だけが濃くなる。

沈黙は質量を持ち、部屋の空気をじわじわと重くする。

呼吸の回数だけ、距離が縮まっていくように思えた。

「ただいま〜」

突然、聞き慣れた彼の声が戻ってきた。

ほんの数分前と同じ、少し間の抜けた明るさ。

トイレから戻ってきただけだった。

「なぁ、誰か帰ってきたのか?」

「いいや?」

短い問答。

望んでいたのとは逆の答えが、軽い調子で落ちてくる。

つまり、あの声は「誰かの帰宅」ではなかった。

説明のつかない“何か”が、確かにそこにいた、ということだ。

先ほどの出来事を語ってみても、彼は笑ってみせる。

「なにそれ、怖すぎだろ」

信じる素振りはない。

にわかには信じがたいのも無理はない。

混線だったのかもしれない──そう言えば、話は丸く収まる。

……表向きには、そういうことになった。



けれど、実のところは違う。

混線なんかじゃない。

あの声を割り込ませたのは、私だから。

なんでこんなことしたのかって?

ただの暇つぶしだよ。

だって、彼には届かないんだよ。

子どもの頃からそばにいたのに、気づかないんだから。

だから私は声をかけるんだ。

彼の友人や──あなたに。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

0感 ―れいかん― 夜長灯 @yonaga05

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ