021 ロマンティックにはなれない女




 昨晩の温もりのように、暖かい色をした金木犀が咲いている。秋のふくよかな香りが辺りを包んでいた。

 直樹には考えがあるようで、光一と春ちゃんに遅れてホテルをチェックアウトするよう指示していた。


 私からすると、何が起こっているのかは全然わからない。


 ただ、いつも誰かに見られているような気はしている。

 少し不安になっていたら、直樹に優しく指先を絡み取られた。


さき」——耳元でそう囁かれ、抱き寄せられる。直樹だけの特別な呼び方は、優しい響きを持っている。私が安心できるスイッチのようだ。


 緊張を解いた私を見て、直樹が嬉しそうに微笑んだ。


 そんな私たちの前に、一人の女が立ちはだかった。手には石を握り、目はらんらんと異様に光っている。


「光一!! この女に騙されている! 他にも男がいるの、私、見たのよ!!」


 悔しさを嚙み殺すように、恐ろしい形相でぎりぎりと歯ぎしりをした。

 直樹が帽子を取り、私を庇うように女の間に立った。


「僕は光一君ではありません。この服は光一君のものですが」


 女はまじまじと直樹の顔を見ると、今度は怒りのために顔を歪めた。


「高橋アイさんですね。この中傷文の送り主もあなたですね?」


 差し出された紙を見て、アイはニヤリと笑う。


「そうよ。書いてあることは全部本当よ。あの女は汚い。親切で教えてあげてるの!」


「そうやって咲子さんを辱めても、なり代われやしませんよ」


「そんな女、抹消してやる方が世の中のためよ!! 光一だって騙されているに違いないもの。でなければ、あたしを好きになるはず……!」


 目の前の女は確かに高橋アイだった。

 だけど、私が知っている彼女とは様相があまりにも違いすぎる。

 整形が失敗したような不自然な瞳、私と似た髪型、似た服装——意図的に真似ているとしか思えない。それが薄気味悪い。


「光一君の恋人は咲子さんではありません。あちらをご覧ください。光一君と婚約者です」


 アイは光一を一瞥し、吐き捨てるように言う。


「また年上の女なんかと浮気して!! 許せない」


「あなたの耳は、自分の聞きたいことしか聞こえないようですね。婚約者だと言っているでしょう。それに彼女は“年上の女”なんかじゃありません。榊原春菜君です。ご存じでしょう?」


 彼女はどうしても認められないとでも言うように叫んだ。


「嘘だ! あんな男みたいな大女と光一が付き合うはずない! 咲子が私の真似して光一を盗んだんだ! 咲子が浮気されてるのよ! 私のことが本当は好きなのに騙されてるんだ!」


 直樹は大きくため息を吐く。

 まさか、ここまで酷い状態になっているなんて、私は夢にも思っていなかった。


「春菜君は普段ボーイッシュな服装をしています。しかし、光一君と一緒の時は女性らしい服を着るのですよ。部屋着も大変女性らしいものでした。なぜかというと、光一君は嫉妬深いのです。彼女が女性らしい服装で外出すると、途端に不機嫌になるそうです」


 彼女は耳を押さえギャーと悲鳴を上げた。


「春菜なんて男だ! あたしのほうが可愛い。嘘だー!」


 彼女は手に持った石を握り直し、こちらに向かって投げようとした。

 その腕を制服の警官が掴み、彼女を取り押さえる。暴行罪の現行犯逮捕だった。


「あなたに必要なのは適切な治療です。止めてくれる良識ある隣人が誰もいなかったようですね」


 直樹はぽつりと呟き、私に向き直った。


「高橋さんは、光一君のストーカーというより、咲のストーカーでした。光一君が浮気していると噂を流し、咲の周囲の男性には中傷をばらまいていた。あなたが男性から軽んじられたのもそのせいです。春菜君にも気づかないくらい、咲しか見えていないのです」


 信じられない気持ちで説明を聞いた。

 つまり、噂されていたのは、年上の浮気相手ではなく、光一と一緒にいる春菜だったのだ。

 春菜は存在しない光一の彼女に、心を痛めていたということになる。


 サイレンとともに、高橋アイはパトカーに乗せられる。彼女の本当に欲しかったものとは、一体何だったのだろう?


 長く私たちを苦しめた事件の全容は、哀れで、そして悲しい女性が生んだものだった。

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