結章 継承の自覚

 蝋燭の最後の芯が息を引き取ると、納屋の地下は瞬時に黒々とした闇に沈んだ。視界を奪われた世界で、樹里はしばらく椅子の背にもたれたまま、胸の鼓動がようやく一定に戻るのを待った。耳を澄ませば、外界の遠い物音は届かず、自分の呼吸だけが間隔を刻んで空間を満たしている。その一拍一拍が、さっきまで交わされた言葉と光景の余韻をゆっくりと胸の奥へと押し込んでいくようだった。


 指先がわずかに冷えている。黒鏡は傍らに覆いがされたまま、わずかに残る光を微かに返していた。


「……まだ、見てくれてるの?」


 その光は瞳のようで、樹里は暗闇の中で自分が見つめられているように感じた。夢だったのだろうかと脳が問いかけるが、胸にはまだカルマディエルの言葉が反響する。「知恵無き者よ、汝は選ばれし導きの道を歩む者なり」――その一句が瞼の裏で何度も反芻され、節々に引っかかる。無知と選ばれし、矛盾する二つの語が自分の存在を新しい輪郭で縁取っていく。


 ゆっくりと目を閉じ、彼女は声の一語一語を心の中で繰り返した。光、静けさ、祝福。言葉は耳ではなく内臓に落ちるように染み込み、体温の芯まで解かしていく。納屋の木の匂い、焦げた蝋の微かな甘さ、紙の油分の臭いが混ざった空気が鼻腔を満たす。現実の感触は確かなのに、その上に重ねられた聖なる感触があって、自分が二重の世界に立っていることを知った。


 振り返ったとき、背後にはもうサミュエルの幻影はなかった。彼が立っていた痕跡は、机の上に残された羊皮紙の断片や、蝋の焦げ跡、壁の刻印だけが静かに語っていた。床に一筋、光に溶けるように残っていた「涙の痕」も、今は淡く消えかけている。樹里はその痕跡に手を伸ばしかけて、やめた。


「さよならじゃなくて……ありがとう、ですよね」


 触れれば、何かが壊れる気がした。彼の喪失は喪失として在るが、同時にその孤独と渇望が自分をここまで導いたことは紛れもない事実だった。師の敗北は、無意味な足跡などではなく、継承のための地ならしだったのだと彼女は静かに悟る。


 ノートを膝に引き寄せ、震える手でページをめくる。万年筆の先を紙に当てると、小さな切り裂くような音だけが暗闇に響いた。書きつける言葉は自然に出てきた。「『知識は祝福であり、同時に重荷でもある』と書きつけた。


「……重たいけど、捨てたくない」


 震える文字は署名のように見えた。過去に背負ってきたものを自分が受け取ったこと、そしてそれを抱えて生きていく覚悟を書き留める行為が、彼女にとって初めての契約のように思えたのだ。


 記録を閉じると、赤布の前に静かに立ち、両手を組んだ。声に出すことはしなかったが、心の中で一語ずつ誓いを紡いだ。孤独であれ、私は歩み続ける。受けたものを無駄にしない。与えられた知恵は守り広め、また問い直していく。指先が赤布の織りに触れると、その感触が温もりとして伝わり、背中を押すような確かな力になった。黒鏡の端が薄く光を返し、それは承認か見守りか、あるいはただの残像かもしれない。だが樹里はその光を「承認の余韻」として受け取った。


「……うん、大丈夫。ひとりでも行ける」


 外の世界が少しずつ音を取り戻すと、地下室は完全な静寂の中に沈み、舞台の幕が静かに降りるように感じられた。彼女の胸には畏敬が残り、同時に重責を担うという冷たい確信が根を下ろしていた。サミュエルの影は去り、カルマディエルの声は遠ざかったが、その与えた種は樹里の内側で確かに芽を出している。灯が消えた黒鏡の向こうに目を据え、彼女はゆっくりと息をついた。今、彼女は一人の学徒から、選ばれた継承者へと変わったのだと、暗闇のなかで自分自身に言い聞かせた。


「……私が、続けます」

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霊的交信 ―黒鏡に映る声― 青月 日日 @aotuki_hibi

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