第一章 幻視の試み
納屋の地下は、夜の時間がやっと沈み込んだかのように静かだった。樹里は紐のようなランタン機能付きの懐中電灯を天井に掛け、ノートを開いて床に置いた。ページには予め引かれた線があり、そこに彼女は寸法を書き込んでいく。蝋燭の列を揃えるための中心線、聖卓の角度、黒鏡を据える位置――細かな数字がペン先から淡々と生まれていく。紙に当たるカリカリという音が、広い地下の無音を切り裂いた。
蝋燭は高さを揃えられ、布きれで煤を拭かれ、赤い蝋の縁がいくつも整然と並んだ。指先で触れると、芯の先端がほのかに油を含んでいる。樹里は緊張をほぐすため呼吸法を行った。四で吸い、二で留め、六で吐く。口の中に残る空気の重みが、興奮と緊張を等しくならしてゆく。ランタンの明かりを落とし。ラテン語の短い祈りを、低く、しかし確かに発声する。舌が絡まる音の切れ目を、彼女はいつものように自らのタイマーに合わせた。
黒鏡が薄い虹のように光を返す。冷たいガラスを掌で包むと、鏡が肌に伝える冷気が一瞬だけ身体を貫いた。磨き終えた鏡を聖卓の中央に置き、樹里は最後にもう一度ノートを見た。数字と線。ここまで準備を整えたのは自分だけだという確信と、同時に、もし間違っていたら誰にも責めを問えないという孤立が胸の奥で震える。
「……もし間違ってても、誰も直してくれない。全部、私の責任だ」
火を灯すと、炎が揺れ、影が呼吸するように壁を動かした。蝋の燃える匂いが鼻腔を満たし、焦げた蜜のような甘さがほのかに混じる。樹里は椅子に座り、目を閉じて数度深く息を吸った。心臓は規則正しく打っているようでいて、鼓動の一つ一つが耳に近くなっていく。
黒鏡に向かって唇を動かし、彼女はまた短い祈祷文を唱えた。単語の端を丸め、舌の位置を確かめる。理論は教えてくれない微かな違い、そこに宿る音の奥行きを彼女は知っていた。最初は自分の顔が鏡面に映り、次第にその像が水面に映る影のように揺らぎ始める。顔の輪郭が崩れ、瞳の中が深い黒に溶けていく感覚。腕に鳥肌が立ち、指先の感覚が鋭くなる。
「……怖い。でも、目を逸らしたら何も始まらない。」
かすかな音が聞こえたとき、彼女は一瞬それを地下室の木材の軋みに帰した。だが音は繰り返され、間隔を持って耳に入ってきた。囁き――そう呼べるような揺らいだ音節。最初はどの方向からともなく、壁の向こうからでも、自分の頭の内側からでも聞こえるように感じた。
「……誰? ほんとに、聞こえてるの?」
樹里はペンを取り、震える文字で「声?」と走り書きする。手のひらが汗でしっとりしているのを感じたが、筆圧は緩めなかった。
声はしだいに輪郭を帯びていった。低く乾いた音色で、言葉の断片が耳の縁をかすめる。「…光…」「…見えぬ…」――断片がつながるたび、蝋燭の炎が一つ一つ揺れ、影が合わさって壁の中へ何かを描いていく。現実が希薄になり、隠された世界が透けて見える。黒鏡の奥に、薄い人影の輪郭が浮かび上がるように見えた。像は不鮮明で、しかもどこか古びていた。痩せた肩、落ちた頬。そこに時間が貼りついているのが分かる。
「…我は…サミュエル…」という名が、空気から切り出されて落ちてきた瞬間、樹里の胸は突き上げられるように跳ねた。
「サ、サミュエル……? そんな名前、研究資料には無かった……」
ノートを握る手が一瞬止まり、紙の端を折り曲げそうになるが、彼女は必死に姿勢を正して耳を澄ます。声は自分が想像した以上に現実的で、先に進むごとに肉声のような重みを帯びた。言葉が地下室の石に当たり、反響して戻ってくると、床や壁が震えるような錯覚に陥る。
恐怖が足元から這い上がるが、研究者の習性がそれを抑え込んだ。何よりも記録を残さねばならない。ペン先が走り、断片を切り取っていく。手早さと正確さが、彼女を現実に留めるための鎖となる。呼吸はまだ規則を保ち、四・二・六のリズムがぼんやりと機械のように機能している。
黒鏡の中の人影は、まるで光の帳に書かれたスケッチのように揺れ続けた。次第にその像は皺の刻まれた顔の輪郭を見せ、ずっと長いこと乾いた声で断片をこぼした。「…汝…天使か?」――その断片が意味するところを、樹里はじっと見据える。誰が語っているのか、いつの誰なのか。それを確かめるより前に、胸の中で何かが確信に変わるのを感じた。
「私は、樹里」
「 Julie!!」
その瞬間、すべての蝋燭がいきなり吹き消されたかのように暗転した。炎が一斉に消えたと錯覚したのは、暗闇の中で残るわずかな光が完全に沈んだからだ。周囲は吸い込まれるように黒く、ただ黒鏡の表面だけが薄く光を放っている。光は弱く、しかしそこにあるものは密度を持って響いた。声だけが、空間を支配する。そこにあるものから、少しの驚きと、途方もない落胆と絶望が伝わってきた。樹里の皮膚が冷たくなり、指先が震え始める。
耐えきれずに彼女は視線をそらし逃げた。黒鏡から目を外すと、空間の緊張がほどけるように一瞬で消えた。声も人影も、ふっと途絶えた。
「……終わった? それとも、始まっただけ……?」
地下室には元の静けさが戻ってくる。胸の鼓動はまともな割合に戻らず、汗がシャツの背中を冷たく濡らしていた。口の中は乾き、舌がざらつく。樹里は震える手でノートを開き、震える文字で「サミュエル」と書き付けた。文字は紙の上で波打ち、まるで自らが生きているかのように見えた。
立ち上がると、身体が重かった。彼女はノートを胸に抱きしめ、階段を上がり始める。階段の一段一段が、夜の湿気でわずかにきしむ。背後で、誰もいないはずの地下から木材の軋む音が再び聞こえた。その音はかつての儀式が残した余韻のように、薄く、しかし確かにそこにあった。
外へ出ると、冷たい空気が顔に当たり、地下に残したもの――声、影、震えた時間――が胸の内でまだ揺れているのを感じた。
「震えてるのに……どうして、嬉しいの……?」
唇の端で小さくつぶやいた。
「これが始まりだ」――その言葉は恐怖を否定し、次の追及を自らに課す決意の印だった。恐怖に呑まれて終わるわけにはいかない。次はもっと深く、もっと慎重に踏み込む。胸に抱いたノートの重さが、次の朝まで眠らせないだろうことを樹里は知っていた。
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