片道切符の舞台

らぷろ(羅風路)

片道切符の舞台

楽屋のドアを閉めた瞬間、空気が古びた座布団みたいに沈んだ。あたふたと散らかった台本、汗を拭いたタオル、冷めたペットボトルの水。照明の白さだけが鮮明で、体温の残る舞台から切り離されたように指先がすうすうする。さっきの本番は、いつものネタをいつもの角度で差し出し、客はそれなりに笑ってくれた。それでも、相方の目は最初のツカミからどこか遠くを見ていて、ボケの語尾が少しずつ弱くなっていった。袖にはける直前、最後の笑いが客席の暗がりでゆっくり波打ち、それがこちらに届く前に消えていくように思えた。


「なんで今日はあんなんやねん」

 言葉は勝手に口から出た。相方はキャップを上にずらし、肩で息をしながら、目を合わせようとしなかった。

「……別に。客、笑ってたやん」

「笑ってたけど、ちゃうやろ。いつもより薄い。ツッコミ待ちの間も長い。ボケの温度が低いねん」

「お前こそ、詰めすぎやねん。間、殺してるで」

 爪が掌に沈むほど握りしめていた。殴り合いにはならないとわかっているのに、胸の奥が体より先に疲れていた。

「とりあえず、今日はええわ。次のライブまでに直す」

 それだけ言い残して、相方は楽屋を出ていった。ドアがゆっくり戻る音のあとに残ったのは、冷房の微かな唸りと、耳鳴りみたいな笑い声の残響だった。客席に置いてきたはずの笑いは、いつも少し遅れてここにも流れ込んでくる。さっきのそれは、軽くて、そして遠かった。


椅子に沈む。空っぽの時間がしばらく続く。怒りというより、怒りの殻が崩れ、その中にあった粉っぽいむなしさが喉の奥にたまる感覚。時計の針の音だけが現実を刻んで、僕はやっと呼吸を整えた。


いったい、いつからこういう感覚が僕の中に住みついたんだろう。目を閉じると、高校三年の秋の匂いが立ち上がる。体育館の裏で練習した創作落語。方言の抑揚を真似るうちに、自分の声が自分のものから少しずれ、誰かの話し声に近づいていく。文化祭の本番、緞帳が開くと予想以上に人がいた。そわそわした笑いが最初の一言で弾け、それが連鎖していくのを、僕は客席の暗がりで確かに見た。笑いは粒になって空中を飛ぶのではなく、湿度を帯びた波だ。波が押し寄せて引き、また押し寄せるたびに、身体は軽くなっていった。


あの夜、家に帰ると母が台所で皿を洗っていて、僕はその背中に向かって、こう言ったはずだ。落研が有名な大学に行きたい。勉強は大丈夫だと思う。京都に行きたい。母は手を止め、ふっと笑って、「行ったらええやん」と言った。翌朝、父は新聞から目を上げずに、「怪我だけはするなよ」と声の高さを少しだけ落とした。それで十分だった。京都の四年は、落語一筋で終えるつもりだったのに、二回生の春、学館の廊下で立ち話をしている男に呼び止められた。背の高い、口数の少ないやつ。「お前、ツッコミ向いてるで」と言った。そこから一気に視界が開けた。正面から笑いを取りにいく落語と、脇からずらして笑いを起こす漫才。二人でやる分、温度差の管理やリズムは難しいが、成功したときの波の大きさは比較にならなかった。卒業と同時に養成所に入り、相方とコンビを組んだ。両親はそれを聞いて、反対しなかった。応援してくれた。けれど、父は一度も劇場に来なかった。


大学を出てもう七年になる。笑いの波に乗り続けるつもりが、気がつけばドラッグストアのレジで波の高さを数える日々がある。消毒液の匂いは夜勤明けに鼻の奥に残り、ポイントカードのやりとりは小さな台本のように手に馴染んだ。千円札の紙質、硬貨の汗ばんだ重み。閉店間際、売れ残った栄養ドリンクに薄い自分の影が映る。稽古場では声が出るのに、レジ前では声が浅くなる。それでも、ライブの夜、客席の暗がりから立ち上がる笑いが僕をまだ救う。あの波に乗ると、身体が正直になる。言葉の角度をほんの少し変えただけで、波は増幅も減衰もする。その繊細さに取り憑かれている限り、まだやれる、と信じていた。


数日後、母から電話があった。珍しい時間帯だった。レジの休憩室でペットボトルの水を飲みながら出ると、受話器の向こうの声は、慎重に言葉を選んでいた。父が今度手術するという。大きな手術ではないが、入院はする。これを機会に、たまには帰ってきたらどうか。母はそう言った。ここ数年、実家にまともに顔を出していない。母は時々大阪まで来て、僕のアパートの食器を洗い、洗濯物を畳んで帰った。父は、漫才に反対はしていない。ただ、僕の舞台を一度も見に来たことはない。その事実は、僕の中で、痛みよりもむしろ不確かな空白として横たわっていた。


翌週、急行に乗った。窓の外に見慣れた鉄塔や工場の煙突が流れる。ホームに降り立つと、空気は少しだけ甘い。駅前の自転車置き場に同級生の店が増えているのに気づく。家に向かう道は、タイヤのきしむ音まで思い出させた。十年以上前、高校の制服で汗をかきながら立ち漕ぎした直線。胸が苦しいのは坂のせいではない。玄関の鍵の重さも、土間の冷たさも、何も変わっていないのに、僕の足取りだけがよそよそしい。


夕食は四人で囲んだ。母の煮物の味は、昔より少し薄かった。弟は高校卒業後、地元の企業に就職して、今もそこで働いているという。口調に無理はなく、仕事に手応えがあるのだとわかった。長男であるはずの僕が一番自由にしているという事実は、食卓の湯気の向こうで静かに立ち上がる。箸の先で豆腐を崩しながら、ここには僕の居場所がもうない、とふと思う。悲しいというより、体温が別の場所に移っていくような感覚。僕は片道切符でこの家を出た。京都へ行き、大阪へ流れた。あのとき、切符の片道を選んだはずだった。


夜、幼馴染の二人と飲んだ。駅前の居酒屋。店の照明は明るく、店員の「おつかれさまです」が機械的で安心する。二人は、あの頃のお前は面白かったと、昨日の出来事みたいに笑って言った。文化祭のネタの細部まで覚えていて、勝手にモノマネまでした。自慢の同級生や、と肩を叩かれ、テレビに出るときは教えてくれ、映画やドラマに出たらサインをもらってくれと、どれも悪気のない言葉で僕を持ち上げた。酒の甘さが喉に残る。僕は笑いながら頷き、ほとんど何も言わなかった。


帰り道、コンビニの自動ドアが開く音がやけに大きく聞こえた。冷蔵庫のガラスに自分の顔が映る。片道切符だったのか、と自分に問う。もしかして、あのとき僕は帰りの切符を買えるだけの小銭をポケットに入れていたのではないか。心のどこかに、いつでも戻れるという逃げ道を畳んで忍ばせていたのではないか。人生は一度だと、何度も言ってきたし聞いてきた。けれど、それを本当に信じている顔を、ガラスの中の自分はしていない。信じているふりをして、笑いを仕事にして、やり直しの気分だけで生きていないか。


家に帰ると、みんなもう寝ていた。僕は昔の机を出し、引き出しから大学時代のネタ帳を見つけた。黄ばんだページの罫線に沿って、鉛筆の線が波打っている。手を洗い、椅子に座り、ペンを握った。何かを書こうとして書けなかった夜は山ほどある。けれど、この夜は違った。言葉が出る前に、笑いの温度が先に立ち上がった。客席の暗がり、最初の笑い、そこへつなぐ短い導線。相方の声の高さ、僕の間の置き方。ドキュメントとしての生活の細部――ドラッグストアのレジの音、割引シールを貼る指の癖、夜中三時のコンビニの照明――そういうものが勝手にネタの中に回収されていく。反省ではなく、設計。後悔ではなく、手直し。波の芯に当てる角度だけを探し出して、そこに納まる言葉を置く。書きながら、顔の筋肉が少しずつゆるむのがわかる。焦りや不安は消えない。ただ、その上に薄い膜のような希望の光が乗る。肩の力が初めて抜ける。


どれくらい書いたのか、気づけばページは折り重なっていた。背中が痛む。窓の外が白い。カーテンの向こうで鳥がせわしない。ゆっくり目を閉じると、波が近づいてくる気配がする。僕はペンを置き、深く息を吸った。階段のきしみで母の足音がわかる。


ガラリ、とカーテンが開いた。

「もう起きんか」

 光に目が細くなる。母は笑っている。僕は机のネタ帳に視線を落とし、それから顔を上げる。

「朝ごはん食べたら、大阪に帰る」

「もう一日、居たらええのに」

「……今、帰りたい。相方に、新ネタを相談したい」

 母は小さく頷いた。寝癖を直しながら、「ごはん、温めるわ」とだけ言って部屋を出ていく。その背中を見送ったとき、自分の胸の中心に、ぴたりとはまる何かがあった。後悔するというのは、あとで自分に嘘をついたことに気づくことだ、と誰かが言っていた気がする。僕は、嘘をつかない方の選択をしたい。片道切符という言葉に隠れて、戻れる言い訳を握るのはやめる。


荷物をまとめ、洗面所で顔を洗う。鏡に映った自分は、相変わらず眠そうだ。けれど、目の奥の曇りは少しだけ薄い。父の手術のことを思う。帰り際に病室へ顔を出すと、きっと父は新聞を読むときの声で「怪我だけはするなよ」ともう一度言うだろう。僕はうまく笑えないかもしれない。でも、笑いは僕の仕事で、そして僕の生活だ。


駅へ向かう道、朝の風は思ったより湿っていた。もう秋だというのに、シャツの背中に汗がじわりと滲む。汗のしみが冷える前に歩幅を広げる。ポケットの中のスマホが少し震えた気がした。相方に送るメッセージの文面を頭の中で並べる。「今日、戻る。新ネタ、試したい」。短くていい。必要なのは温度と角度だけだ。ホームに近づくにつれて、周囲の足音が揃っていく。改札の電子音が、舞台袖で鳴る合図に重なる。


客の笑い声は、約束ではない。舞台に立つまで存在しないものだ。けれど、波は必ずどこかから来る。こちらが合わせる角度さえ見つければ。電車が入ってくる風を受けながら、僕は胸の中の頁をもう一度めくる。書き足りなかった行間に、次の一本の構造が立ち上がる。焦りはまだある。不安もある。その上に、薄くてもしっかりした意志の板を渡す。嘘をつかないで歩くための板だ。


ドアが開く。乗り込む直前、振り返ると、朝の光の中に家の方角が淡く滲んでいた。僕はそれに手を振る代わりに、胸の内で一つだけ言葉を置く。人生は一度。だからこそ、選んだほうに力を込める。大阪で、相方と、笑いの波の角度をもう一度探しにいく。袖に近い場所で、最初の一笑いを待ちながら。電車の中の空気は冷たい。シャツににじんだ汗が、すぐに乾き始めた。

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