出版社編集者
出版社編集者 第1章 AI前
「未知の技術を避けることは安全ではなく停滞である。」
――杉村洋介(出版評論家)
これは十年後に語られた後世の断言である。当時の僕がその言葉を知るはずもない。けれど振り返れば、あの会議室の空気にはこの言葉がぴたりと重なっていた。
部長の椅子が軋む音、課長が資料をめくるたびに漂う紙の匂い。窓の外では街路樹が揺れ、風がカーテンをわずかに動かす。細部は確かに生きているのに、会議全体は不思議な停滞の中にあった。
机の上には『AI出版動向』と題されたレポートが積まれていたが、その表紙には薄い埃が残り、めくられた痕跡は乏しい。若手が口を開きかけると、部長は冷めたコーヒーを口に含み、黙ってカップを置いた。その沈黙が合図のように、議論の熱は下がっていく。
重ねられた企画書には「シリーズ継続」「読者層の安定」といった文言が並び、書き込みはどれも定型的だ。若手編集者のノートには海外ニュースの切り取られている。しかしそれを声に出す勇気は、会議室には存在しなかった。
会議の終盤になると、古参が昔話を始めた。雑誌の一ページが社会を動かした時代があった、と。懐古は誇らしげでありながら、同時に変化への怖れを丁寧に養っていた。
廊下に出ると、コピー機の音と電話のベルが交互に響く。若手は小走りに通り過ぎ、顔には言えなかった言葉の影が浮かぶ。彼らの声は夜の飲み会で小さな嘆きとして漏れるが、翌朝には再び沈黙に飲み込まれる。
一方で、密かに資料を読み込む者もいた。画面に映る海外ニュースには、新しい潮流を示すグラフが並んでいる。だが「閉じる」ボタンで終わりを迎える。試す勇気よりも、黙する安定が優先された。
紙の上には今日も決定事項の体裁だけが残り、実質的な進展はない。それでも会議は続き、議事録は蓄積される。安全は確かに確保されたが、同時に試す力はそぎ落とされていった。
夜遅く、編集室の机に一人残った中堅は、冷めた苦いコーヒーをすすりながら考え込む。スクリーンの隅に開かれたニュースには、世界の動きが小さな文字で刻まれていた。彼は読み進めながらも、ついには目を伏せ、画面を閉じる。守られた沈黙と、失われる未来。その二つが、同じ一杯の苦味の中に沈んでいた。
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