鏡の中のわたし
トガミスイセイ
鏡の中のわたし
夜九時。
終電まではまだ時間があるが、会社帰りの人影もまばらになっていた。
改札を出ると、湿った夜風が肌にまとわりつく。
長時間のデスクワークで重くなった目をこすりながら、駅のトイレへと足を向けた。
中は無人だった。
蛍光灯の白い光が、やけに冷たく感じる。
蛇口をひねると、水音がタイルの壁に反響して、不自然に大きく響いた。
顔を洗い、目を開ける。
鏡には、自分が映っていた。
……ほんの一瞬、違和感を覚える。
水を止めたはずなのに、鏡の中の「わたし」はまだ蛇口を握っていた。
――遅れて動いている。
心臓が強く脈打つ。
けれど「疲れているせいだ」と自分に言い聞かせた。
タオルで顔を拭き、笑みを作ってみる。
だが、鏡の中の「わたし」は無表情のまま。
唇は硬く結ばれ、目だけがこちらを刺すように追っていた。
背筋に冷たいものが走る。
思わず目を逸らした。だが、視線は磁石のように引き戻される。
鏡の中の自分から。
その瞬間――。
「わたし」が、にやりと口角を吊り上げた。
反射的に後ずさる。踵が床を打ち、乾いた音が響く。
現実の自分はそんな笑みを浮かべていない。
なのに、鏡の中の「わたし」は嬉しそうに、口を大きく開いていた。
喉の奥から、掠れた声が漏れる。
「……誰だよ」
返事はない。
ただ、水音だけが続いていた。
ふと気づく。
蛇口を閉めたはずなのに、水は止まっていない。
むしろ、音はどんどん大きくなっていく。滝のように。耳を塞いでも鳴り止まない。
恐怖に駆られ、鏡から目を離し、逃げるようにトイレを飛び出した。
だが。
駅の階段を駆け上がった瞬間、足が止まる。
大きな窓ガラスに、反射した「わたし」がいた。
息を荒げているのに、映る「わたし」は落ち着いている。
笑っている。
膝が震えた。
後ろを振り返った。誰もいない。
それでも、耳元で水滴が落ちる音がする。ぽたり、ぽたりと。
見下ろすと、スーツの袖口が濡れていた。
鏡の前で、確かに蛇口を閉めたはずなのに。
窓ガラスの中の「わたし」は、もう笑ってはいなかった。
――口を、大きく開けていた。
声にならない悲鳴を上げているように。
そして気づく。
その口の形は、こちらの名前を呼んでいた。
鏡の中のわたし トガミスイセイ @togasui
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