Case2 ダンウィッチ・インシデントという悲劇への考察と展望 第一部

Case2 ダンウィッチ・インシデントという悲劇への考察と展望


【第一部】

 アーカムの空は、いつにも増して陰鬱な灰色の雲に覆われ、重く垂れ込めていた。

 街の喧噪を遠くに聞きながら、ミスカトニック大学の民俗学科の研究室で、ライラ=シュルズベリイは机に向かい、古い文献をめくっていた。そこへ、ノックの音が響き、ドアが開く。


「失礼、邪魔するよ……ライラ=シュルズベリイ教授」


「貴方は……! ヘンリー=アーミティッジ教授、何用ですかな?」


 入ってきたのは、ダンウィッチ・インシデントを解決した英雄として知られるアーミティッジ教授だった。

 彼の顔は疲労の色を濃くし、深い皺が刻まれていたが、目は鋭く輝いていた。

 教授の後ろには、背の高い少女が控えめに立っていた。

 黒い髪が肩まで流れ、状況さえ異なれば最近流行りのハイファンタジー小説のエルフと見紛うだろう細長い耳が特徴的で、右目を隠す眼帯が彼女の顔に影を落としていた。

 

「急な訪問を許してくれ。話があるんだ。」


 アーミティッジ教授はそう言って、部屋に入り、ハイタがいるソファーの近くに腰を下ろした。

 ハイタは軽く頭を下げ、静かに見守っていた。ライラはビヤーキー越しに教授を眺め、ステッキを机に置いた。


「アーミティッジ教授、何か用件ですか?」


 教授は咳払いをして、切り出した。


「えへん、実は……急な調査でアーカムを離れなければならなくなった

数ヶ月は戻れないだろう、そこで私の娘ウィリアナを民俗学科で生徒として預かってほしいんだ

正式な学歴はないが、彼女の知性は君のスパルタ方針でも満足のいく優秀なものだぞ、太鼓判を押すよ」


 ライラは眉をひそめ、視線をウィリアナに移した。

 少女は静かに立っており、その容姿は異質だったが、表情は穏やかだった。


「何故、私に? 他の教授ではいけないのですか?」


 アーミティッジ教授は少し間を置き、斜視の視線をハイタに向けたが、ハイタはどこ吹く風と言わんばかりに欠伸をする。

 その意味を、ライラはすぐに察した。

 ウィリアナは何らかの異常存在で、狙われやすい存在なのだ。

 これはハイターーハスターという特級の異常存在を抱える自分を見込んでの依頼だと、ライラの胸に警戒の念が湧いた。

 だがそんなライラに、ウィリアナが深々とお辞儀をして挨拶をした。


「ご紹介に預かり候、ウィリアナ=アーミティッジと申しまする

拙へのご指導ご鞭撻の程、未熟者ですゆえよろしくお願いいたします!」


「……はぁ、よろしくお願いするよ?」


 異様に古めかしい口調と特異すぎる見た目、それに反してその純粋な言葉と態度にライラは困惑した。


「田舎者ですゆえ、都会の大学に憧れていたのでございます!

教授殿の授業についていけるよう、頑張らせていただきます!」


 異常存在という前提と、彼女の異様な特徴に反して、ウィリアナの目は無垢で和か、声には幼い喜びが混じっていた。

 それは、深淵の影を予感させるものとは対照的だった。ライラは言葉を探し、静かに頷いた。




 ミスカトニック大学の講義室は、蒸気の霧が窓ガラスを曇らせる中、重い空気に満ちていた。

 ライラ=シュルズベリイの民俗学の授業は、常に生徒たちを圧倒する情報量と、深淵の考察を強いる内容で知られていた。

 この日も、彼女は黒板にクトゥルフ神話の古い図像を描きながら、冷徹な声で講義を進めている。


「ヨグ=ソトースとは何か? その存在が示唆する次元融合の危険性を、ダンウィッチの古文書を基に説明せよ。」


 ライラの抜き打ちの質問が飛ぶ。

 他の生徒たちは顔を青ざめ、ノートを慌ててめくりながら言葉を探した。

 ある生徒が口ごもり、間違った解釈を呟くと、ライラのステッキが床を叩き、沈黙が広がった。

 そんな中、新入りのウィリアナ=アーミティッジは、左目を丸くして食い入るように講義を聞いていた。

 彼女の黒い髪が静かに揺れ、眼帯の下の右目は隠されたままだったが、その純粋な集中力は周囲を圧倒していた。

 ライラの視線がウィリアナに移る。


「ウィリアナ、君はどうだ?」


 ウィリアナは即座に立ち上がり、相変わらず古めかしい口調で答えた。


「ヨグ=ソトースは門であり、鍵であり、全ての時空を繋ぐ存在で御座います

ダンウィッチの古文書によりますと、その召喚は次元融合を引き起こし、不可視の半神格を生み出す危険を孕みまする

拙の見立てでは、ダンウィッチ・インシデントーーかの狂った魔術師オールド=ウェイトリーの事例のように、3次元地球生物との血統交配が絡めば

現実世界の崩壊を招く可能性があると、考察の必要性は極めて高う御座いますでしょう

如何でござりましょうか、教授どのっ!」


 満面の笑みと共に締めくくられたその返答は完璧で、見惚れている他の生徒達への質問さえも自主的に補足するものだった。

 アーミティッジ教授の評価通り、彼女の知性は純粋で優秀そのもので、ライラは内心で満足し色眼鏡の下でわずかに頷いた。

 眠たげなハイタの目が、薄く鋭く開かれ黒板に描かれたダンウィッチ・インシデントの概要を見返し、「んん……?」と首を捻る。

 ウィリアナの無垢な熱意が、授業の重苦しさを少し和らげていた。


 しかし、そんな授業の合間に邪魔者が一人……ハイタだ。

 ハイタはウィリアナの隣の席を執拗に選び、彼女に声をかけていた。

 噂されるほどの女好きの性分がここでも顔を出したのか、ライラをはじめ生徒達ですらハイタの行動に顔を顰める。


「ウィリアナ、君の故郷はどんなところ? 趣味は? 好きな物とか、教えてよ

俺、君に興味持っちゃってるんだよねぇ?」


「ふ、ふえっ? 拙に、興味でござりますか?」


 バキッ、とライラの手に握るチョークが割れて生徒達がビクッと彼女の手元に目を配る。

 ウィリアナは困惑しつつも、純粋に答える。


「えっとぉ、拙の故郷はダンウィッチの辺鄙な村で御座います。

趣味は古書を読むこと、好きなものは……わんちゃん!

拙、わんちゃん大好きで御座います、よく噛まれちゃいますけれども……えへへ」


「わかるわー、アイツらやたら吠えかかってくるもんな?」


 授業中だというのに微笑ましく談笑するライラは苛立ちを抑えきれず、手元のチョークを正確にハイタの眉間に投擲した。

 チョークは鋭く飛び、ハイタの額に命中し、彼は「ぐっ!」と呻いて後ろにのけぞった。

 授業室に軽い笑いが起きる中、ライラは冷ややかに言った。


「授業に集中しろ、ハイタ」


「へぇへぇ、わかりましたよライラ教授」


「わっ、わわわっ? きょ、教授どの、拙のせいでござりまするのでっ」


 頭を抑えて座り直すハイタとライラを交互に見て慌てて弁護するウィリアナにライラはピシャリと告げる。


「授業中に私語を慎まないその馬鹿が悪い、放っておけ」




 ミスカトニック大学の講義室は、午後の陽光が薄く差し込む中、昼休みの静けさに包まれていた。


 「では午後の授業も出席するように、抜け出した者には論文提出を課す 特にお前の事だハイタ、今日邪魔してくれた文論文は倍だ覚悟しろ」


「へぇへぇ」


 ライラ=シュルズベリイは生徒たちに休憩を告げ、ハイタを名指しで指摘しつつ資料室へ向かってステッキを鳴らしながら去っていった。

 その隙を狙って、ハイタは素早くウィリアナ=アーミティッジの隣に近づき、軽薄な笑みを浮かべて声をかけた。


「よし、ウィリアナ! デートしようぜ? 街をぶらついて、面白い話でもしようよ!」


 ウィリアナは黒い髪を揺らし、左目を輝かせて顔を上げた。

 デートと頭の中で反芻するように呟きながら、ウィリアナの顔が純粋な喜びに震え笑顔を作っていく。

 それはウィリアナの、純粋な好奇心が爆発した故の反応だった。


「デート……一度やってみたかったので御座います! わぁ、わぁ、拙、嬉しいで御座ります!

恋愛小説でしか見た事ないのでござりまするぅっ!」


 彼女は大喜びで立ち上がり、ハイタについて講義室を出て行った。

 あまりに流れるような展開に、周囲の生徒たちはその様子を呆然と見つめることしかできず、後からざわつきが広がった。

 誰かが「ハイタの奴、またか……」と呟き、別の生徒が首を振り、講義室に奇妙な緊張が漂った。



 やがて、資料室から戻ってきたライラは、部屋の空気を察知して眉をひそめた。

 色眼鏡越しに虚空の瞳で生徒たちを睨み、ステッキが床をひと突きするとブンブンと周囲を不可視のビヤーキーが旋回する。


「ん、 ウィリアナと、あの馬鹿はどこだ?」


 生徒たちは互いに顔を見合わせ、誰も口を開かなかった。

 講義室は地獄のような重い空気に包まれ、息苦しい沈黙が続いた。

 ライラは、すぐに察した。


「あっ……んの、馬鹿野郎がぁ!!」


 彼女の顔が鬼の形相に変わり、ステッキを握りしめて講義室を飛び出した。

 しかし、キャンパスの廊下を急ぎ足で探しても、ビヤーキーを遠隔接続限界範囲の20mギリギリまで飛ばしても、二人の姿はどこにも見つからなかった。

 ワナワナと肩を震わし、俯いてライラは呟く。


「生贄は……私だけにしておけと言ってるんだ……っ、あぁもう!」


 ライラは呟いてしまった内容に、口元をおさえ忌々しげに叫ぶと再び捜索を開始した。

 その呟きはウィリアナを自らの契約という渦に巻き込みたくない優しさと、ハスターにとっての唯一の『糧』であるという歪まされた喜悦が漏れ出たものと、二重の意味を持っていた。




「わぁ……ぁ、あ!」


 見上げて震えるウィリアナの紅玉のような瞳が、宝石のようにキラキラと輝きを放っていた。

 ミスカトニック大学近郊の通りは、学生たちの活気で賑わう混沌の活気だ。

 古びた喫茶店が煙草の香りを漂わせ、本屋の棚には黄ばんだ古書が並び、映画館の看板が古いホラー映画のポスターを掲げて客を誘う。

 ウィリアナはそんな街の喧噪に目を輝かせ、ハイタの横を歩いていた。


「そんなに珍しいかい?」


「え、えへへ! 拙、お父さんの書斎に籠って本の知識だけで育ちましたるゆえ……あんまり出かけても怒られちゃいましたし、悪くは思ってなかったのでござりますが……こんな、凄い……すっごい世界、新鮮なので御座りまするぅっ!」


 余程、古めかしい知識と厳格な倫理観に縛られた日々を送っていたのだろう。

 ここでは新しい発見が次々と訪れ、ウィリアナは興奮を隠せなかった。


「わぁ、この本屋さん、拙が見たことのない書物がいっぱいで御座います! 映画館も、こんなに賑やかだなんて……!」


 と、純粋な喜びを声にのせて語る。

 ハイタはそんな彼女を、妹を慈しむような優しい視線で見守り、軽く肩を叩いて応じた。


「そうだろ? もっと面白いところ、案内してやるよ」

 二人はデートを楽しむように、街をぶらつき、ウィリアナの好奇心を満たしていった。



 やがて、疲れを癒すために入った喫茶店『ウボ=サラディ』で休憩を取った。

 窓際の席で温かい紅茶を啜っていると、外を散歩する貴婦人の姿が目に入った。

 貴婦人は優雅に歩き、手綱を引く小型犬がふわふわの毛を揺らしてついてくる。

 ウィリアナは左目を輝かせ、思わず立ち上がって貴婦人に声をかけた。


「わぁ、わんちゃん! 拙、わんちゃん大好きで、触ってもよろしいでしょうか?」


 貴婦人は微笑んで頷いたが、次の瞬間……小型犬の反応は予想外だった。

 ふわふわの毛が逆立ち、目を吊り上げて牙を剥き出しにし、異常なほどの警戒心を露わにしたのだ。


「わうっ! ガルルルル……!」


 と、低く唸りながら、ウィリアナの懐に飛び込み彼女の腰にガブリと噛みついた。

 ウィリアナは「きゃあっ!」と小さく悲鳴を上げる。

 ハイタが慌てて飛びつき、「おいおい、離せよこの毛玉!」と犬の首根っこを掴んで引き剥がそうとする。


「ガゥるるるるるゴルルルル」


「いたたたた痛いで御座りまするぅ!!」


「ひっ、ひぃぃっ!こここコラっ!ハーベイ、何てことをっ!?」


 貴婦人が悲鳴をあげる中、犬は必死にジタバタしハイタの袖を引っ張り回し、テーブルがガタガタ揺れて紅茶がこぼれる。

 大騒ぎが続き、ようやくハイタとウィリアナの協力で犬を貴婦人の元に戻すと、貴婦人は顔を青ざめさせて必死に頭を下げて謝った。


「本当に申し訳ありません! うちの子、こんなに興奮するなんて珍しいんです……お怪我は?」


 ウィリアナは腰をさすりながら、慣れた様子で笑みを浮かべた。


「大丈夫で御座います、拙、わんちゃんに噛まれるの慣れておりますゆえ。」


 貴婦人はさらに頭を下げて去っていった……だが彼女が角を曲がった後、ウィリアナの表情が曇る。

 残念そうに左目に涙を浮かべ、ぽつりと呟く。


「せっかく可愛いわんちゃんでしたのに……拙、何か悪いことしたので御座いましょうか。」


 その純粋な悲しみに、ハイタは優しく彼女の肩を抱いた。

 しかし、ハイタはウィリアナの腰がわずかに出血していることに気づいた。

 服の端から赤い染みが滲み、痛みを堪えている様子だ。


「これは、まずいな……治療しよう。近くの公園に小屋がある、そこに行こう。」


 ハイタは彼女の手を引いて、街を抜け、公園の小さな管理小屋へと連れ込んだ。



 公園の管理小屋は木々の影に隠れた小さな建物で、周囲の喧噪から隔絶された静けさに包まれていた。

 ハイタは素早くドアを閉め、窓のカーテンを引いて外からの視線を遮った。

 鞄から緊急の医療キットを広げ、消毒液や包帯を並べながら、ウィリアナに言った。


「腰を見せてくれ。脱ぐ必要がある」


「んぇっ……いやぁ、その……それはちょっと」


 ウィリアナは一瞬逡巡し、黒い髪を揺らして下を向いた。

 顔は赤くなく、むしろ青いーーその反応はハイタの目には羞恥というより、恐れや怯えが混じったものに見え、彼女の左目が不安げに揺れた。

 ハイタは優しく囁く。


「大丈夫だよ、俺を信じて。傷をちゃんと治療しないと。」


 ウィリアナはハイタの言葉を信じ、ゆっくりと首から下を覆うドレスを一枚ずつ脱ぎ始めた。

 する、シュル、パサ、布地が一枚一枚滑り落ち、どこか背徳的な空気が漂う中、ウィリアナの白い肌と下着姿が露わになる。


「これは……!」


 ハイタは、彼女の身体の明らかな異質さに興味深そうに目を細めた。

 肋骨の一部が皮膚を抜けて豊満な胸を支える鎧のように突き出し、髪と同色をした怪しい黒紫をして怪しく金属的に輝いていた。

 そして脇腹や二の腕といった位置、他にも細かく所々に同色の鱗が並び点在している。

 そして彼女の腰から先の小型犬の牙が突き刺さった箇所には穴が開いており、痛々しいそこから流れ出ているのは単に赤い血ではなく、赤い中に隙間から漏れる光を反射した玉虫色の光沢を帯びている。


「……ぁっ、あんまり、見ちゃ……嫌で御座りまするっ」


 ここにきて初めて、ウィリアナは恥じらうように両腕で身を抱き、ハイタに抵抗するように後ろを向く。

 ウィリアナは震えながら、俯いた左目に涙が潤んで……か細い声で呟いた。


「御免なさい、この様な醜き身体を……皆と違う身体を見せてしまって」


 その言葉の裏に、彼女の故郷の記憶がフラッシュバックした。

 ダンウィッチの辺鄙な村で、同い年の子供たちに「化け物!」と石を投げられ、罵られた過去。

 孤独と恐怖が、彼女の心を蝕んだあの日の痛みが蘇る。


「こんな……拙っ」


 ハイタは静かに彼女の肩に手を置き、優しく言った。


「大丈夫だよ。寧ろ、よくこんなに『歪まず』に育ったな

お前は綺麗だよ、ウィリアナ」


「……っ!」


 その言葉に、彼女の頰がわずかに赤らんだ。

 ハイタは腰の傷に消毒液を塗り、丁寧に包帯を巻き始めた。


「ひゅぁっ、ぁ……つめたっ……塗る前に、言ってほしいでござりますよぅ」


 その優しい手つきに、ウィリアナの身体が反応し……赤みを帯びた白い胸が熱を帯びて震えた。

 肌が熱くなり、息が少し乱れ、ウィリアナは未知の感覚に身悶えた。



「・・・・・・・・・・・・。」


 しかし、ハイタの視線が窓の方に移った。

 カーテンの隙間から、鬼の形相のライラがハイタを見下ろしているのが見えた。

 彼女の色眼鏡の下の目は怒りに燃え、ステッキを握りしめている。

 ライラが手をついている窓が指先を中心にビシッ、バキッ、とひび割れていく。

 その顔は言外に……


「変な手を出したら今度こそ顔面を消しとばす」


 そう言っているようであった。

 ハイタは背筋に冷たい汗を感じ、命の覚悟をしながら治療を続けた。

 ウィリアナの傷を丁寧に包みながら、なんとかこの状況を乗り切ろうと心に誓ったのだった。



 アーカムの街は、夕暮れの薄闇に包まれ、蒸気の霧が路地を這うように漂っていた。

 ハイタは疲れて寝入ってしまったウィリアナを背中に担ぎ、慎重に歩を進めていた。

 彼女の黒い髪が彼の肩に柔らかく触れ、軽い息遣いが耳に届く。

 隣を歩くライラ=シュルズベリイは、色眼鏡の下で鋭い視線をハイタに向け、ステッキを地面に突きながら帰路を急いでいた。

 ステルス状態のビヤーキー三体が、不可視の棘をハイタの顔に刺さらない程度に押し付けている。

 その圧力で、彼の顔は変顔のように歪み、眉が吊り上がり、口元が引きつっていた。

 まるで命乞いをするような表情で、ハイタはライラに状況を説明した。


「待ってくれぇ、ライラ……あれは傷を治療していたんだ、やましい気持ちは毛頭ないんだ、本当だって!

みろよこの綺麗な寝顔、流石にこれを汚して喜ぶほど落ちぶれた邪神してないぜ? 少なくとも俺は!」


「ぐぬぬぬ……はいはい、今は信用してやる」


 ライラは怒りを抑えきれず、ステッキを強く握ったが、無理解ではない。

 ウィリアナの怪我を治そうとしていたのは事実だろうし、ハイタの言葉には嘘がないように感じられた。

 彼女の胸に、苛立ちと理解の狭間が渦巻く。


「ふん……だが、お前の軽薄な男の仮面にしても、本性の邪神の面にしても、ウィリアナに対する対応は異常だ

妹のように慈しむなんて、お前らしくない。何か企んでいるのか?」


 ハイタは事もなさげに肩をすくめ、ウィリアナの体重を調整しながら応えた。


「企む? いや、そんなんじゃないよ。ウィリアナは俺の……ハスターの腹違いの妹だよ、外なる神の血が流れてる」


「…………なっ」


 その言葉が、夕闇の空気に重く響いた。

 ライラの足が一瞬止まり、深淵の秘密がまた一つ、彼女の心を蝕むのだった。



 夜、アーカムの街は深い闇に沈み、ライラの住むマンションの一室は柔らかなランプの光だけが静かに揺れていた。

 中二階のベッドにウィリアナを寝かせ、ライラは彼女の寝顔を眺めながら傍の椅子に腰を下ろす。

 黒い髪が枕に広がり、眼帯をしたままの顔は穏やかで、細長い耳がわずかに震えるように息を吐いていた。

 まるで本当にただの子供のようだ、とライラは思う。

 いや、精神だけではない、遊び疲れて熟睡する姿は体力管理の欠如を指すもの、すなわち彼女は本当に子供なのだ。

 だとすれば、急激に大人と見紛う成長をする子供が故郷のダンウィッチでどれほど浮いた存在になっただろうか。

 異形の鱗と肋骨、村人たちの視線が彼女を化け物と呼んだ過去……ライラの心に、ウィリアナの孤独が優しく……しかし痛く染み入る。

 そんな思いに馳せるライラの背中を、突然、触手が絡め取った。


「ぁっ……あっ!?」


 柔らかく、しかし確かな力で彼女を引き寄せ、ソファーに引き戻す。

 締め付けが肌を這い、ゾクリとした震えが体を駆け巡り、興奮が熱く込み上げる。


「……っう、ハスター!」


 ライラは息を乱しながら、触手の主に尋ねた。


「ウィリアナの正体を、教えてよ! 彼女は一体、何なの?」


 ハスターは、ハイタの時の優しい口調を捨て、高圧的な声で真実を明かした。

 触手がライラの体をさらに強く締め、深淵の威圧を放つ。


「アレは我が父ヨグ=ソトースと人間ーーラヴィニア=ウェイトリーの間に生まれた選ばれしハーフゴッドだ

本人はまだ、己の血の価値に気づいていない様だがな。」


 その言葉に、ライラはショックを受け……体が、一瞬硬直した。

 心臓が激しく鼓動し、深淵の冷たい風が魂を撫でるような感覚。

 だが、彼女は冷静に記憶を探り、過去の事件を思い浮かべた。


「ダンウィッチ・インシデント——ヨグ=ソトースの血を継ぐ『不可視の稚児』を創り出し操った黒魔術師が起こし、村とミスカトニック大学に多大な犠牲を強いたあの忌まわしい事件

でもっ、あの時混血で産まれたのは不可視の稚児だけだろう!」


 ライラが、己の知るだけの常識を語るなど珍しかった。

 彼女はそれを何よりも愚かな行為だと知っていた、だが認められなかった。

 だが、それはハスターにとってお気に入りの飴にとっておきの隠し味が見えたように映った。


「双子ではない、など誰も言っていないだろう?

むしろ並行次元における『ダンウィッチの怪』では、双子ではない等と伝わっている方が稀だがな」


 ライラの視界が、色眼鏡の下でかすかに揺れた。




 マンションの一室は、淡いランプの光が壁を優しく撫で、静かな熱気を孕んでいた。

 ぐちゅり、ぐちゅりと、いやらしく身体を弄る触手の粘液に震えるライラは、いつかの交合に比べその身体を硬らせていた。


「うぅっ、く、うっ……んあぁっ、はぁぁ」


「どうした? ライラぁ、今日の反応は素直じゃないじゃあないか?」


 ライラはソファーに深く沈み、ハスターの触手が彼女の体を絡め取る感触に、息を乱していた。

 ヨグ=ソトースの血統、ウィリアナの正体が明かされた余韻が、まだ魂をざわつかせている。

 触手がライラの髪を掴んで持ち上げ、ハスターの声が耳元で低く囁く。


「哀れな家族を労わる気持ち、お前にもわかるだろう?」


「んぎぅ……っ!!」


 その言葉と共に、触手の先端がライラの服に滑り込み、ゆっくりと布地を剥ぎ取っていった。

 コートのボタンが外れ、タイトなミニスカートが捲れ上がり、肌が露わになる。 されるがままに、ライラの体はゾクリとした震えを抑えきれず、甘い喘ぎが喉から漏れた。


「んっ……はぁ……ハスターっ、お前!……っあ」


「そうだライラ、【深淵を見返すもの】共が殺し、俺が喰らった……憎いか?」


 しかし、その官能的な熱のと感情の渦中で、ライラの脳裏に突然、失われた家族の顔がフラッシュバックした。

 一族の金髪と緑の瞳、暖かな笑顔、奪われた日常の断片……それらが次々と浮かび、涙が色眼鏡の下から溢れ出した。


「……っひ、ぐっ、ぅぅぅ……っ」


「憎め、悪め、にくめ……存分に憎み尽くし、復讐の焔を燃やせライラ……それが俺の役割だ」


 頰を伝う雫が、熱い肌に冷たく染みる。

 それを拭うように触手が頬を撫でて、粘液に汚される。

 それは悲しみではなかった。ほとんど失われた家族の記憶を、ぼんやりとしか思い浮かべられない自分への苛立ち。


「普段の甘味も心地よいが、この憎しみもまた芳しい……あぁ、良い味だライラ」


「ぁぁはっ、や、やぁぁ……ぁぁ」


 そして今、仇の一つたる邪神に舐め回され、体を震わせて喜んでいる自分に対する、燃えるような怒り。

 触手が肌を這い、唇を塞ぎ、深淵の快楽を注ぎ込むたび、心の底から湧き上がる自己嫌悪が、涙を加速させる。


「ほうら、お前も味わえ……」


「んんぐっ、ぅ、ぅーっ!んんーっ!」


 だが、その怒りを晴らす術は、他にない。この喜悦に身を委ねるしかない。

 そしてその相手への気持ちと、この喜悦をこの邪神はあえて、邪神の家族関係というものを見せつける形でライラを刺激している。

 結果、喜びを否定しながら受け入れるライラの心は、ぐちゃぐちゃに乱れ、体がビクビクと痙攣した。


「はぁぁ! はぁ! はすたっ……ハスタぁっ!!このぉっ……」


 愛憎、ライラのハスターに対する感情はこの言葉を置いて他にない。

 今は、そのバランスが憎しみに触れているだけ。歪で、いつ崩れるかわからない肉体の関係。

 涙で濡れた瞳を虚空に向け、彼女はハスターの体を抱きしめた。

 触手の塊に腕を回し、強く、強く引き寄せ、肉の内側に深く埋められた触手がビクビクと震える。


「っく、やらっ、いぐぅぅっ……こんな、ぅぅぅっ!!」


 吐き出される情熱が内なる憎悪と混ざり、熟成され、触手の主は微かに笑う。

 その仮面の内側にある感情を隠したまま。

 涙と怒りと快楽の狭間で溶け合う、背徳の抱擁が、部屋の空気を熱く染めていった。




 残る熱気と甘い吐息の余韻に満ちた部屋で、ランプに照らされたライラの身体が艶かしく輝く。

 行為がひと段落し、ライラは肩で息をしながらハスターの体にしなだれかかった。


「ハッ……ハッ……はふ、ぅ」


 触手の感触がまだ体を疼かせ、甘い吐息をこぼしながら、彼女はハイタの姿に戻った彼の胸に頰を寄せる。

 愛を交わすような親密さで、憎しみに震えるライラの指が彼の肌を優しくなぞる。


「…………いつか、殺してやる……っ」


 甘い吐息に似つかわしくない、復讐の炎を宿した言葉が、ライラの唇から零れ落ちた。

 ハイタはそんな彼女を優しく見つめ、手を伸ばして金髪を撫でた。

 指先が耳元を滑り、穏やかな声で応える。


「そうだライラ、恨むのは俺だ……俺も、その日を楽しみにしているよ。」



 その時、コンコンと小さな音が部屋に響いた。


「……っ!!」「うおっ!?」


 ライラはビクリと体を震わせ、顔を赤く染めて飛び上がった。

 ウィリアナが起きたと思ったのか、慌ててソファーのクッションを掴み、ハイタの丸出しの股間を隠す。

 心臓が激しく鼓動し、恥ずかしさと興奮の残滓が混じり合う中、彼女の視線が音の方向へ向く。


 しかし、音の正体は白い紙人形が窓を叩く音だった。

 折り紙のように薄く、微かな魔力を帯びたそれは、外からの使者として静かに待っていた。


「あ、あいつは……やめてよ本当にぃ」


 ライラの緊張がわずかに解け、本当に泣きそうな弱々しい声に変わる。

 部屋の空気が再び甘く淀むのだった。


Case2 第一部 Fin



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