【二章】『彼方の月下美人』

 今の会社に入り、一人暮らしを始めてしばらく経った頃のことだ。


 引っ越しのダンボールも残り一つ。少し落ち着いたところで、自然と家の近所に興味が向いた。

 

 会社と往復するばかりで、コンビニやスーパーしか行ったことがなかったが、ネットで地図を見てみると、徒歩で行ける範囲に大きな公園があることが分かった。


 毎日のデスクワークで身体も鈍っている。たまに運動するのも気持ちいいだろうと思って、その週末、俺は一人で公園に出かけてみた。池や芝生の広場、テニスコート、カフェまである広い公園だ。家族連れが多く、子供たちの元気な声が響き渡っていた。


 こよみ仲秋ちゅうしゅうだが残暑が厳しく、空も快晴。最初は肌を包む太陽光が心地よかったが、公園の中を歩き回っている内に汗が噴き出し、陽射しは体力をうばう熱光線と化した。


 近所だと思って油断していたのだ。帽子を被ってくれば良かったと思いながら、汗をぬぐいつつ休める場所を探した。


 テニスコートの裏、公衆トイレに隣接りんせつした日陰ひかげのベンチをようやく見つけ、ほっと胸を撫で下ろした。


 自動販売機もそばにあったので、水分を補給しようとヒップポケットの財布に手を伸ばし、ようやく非常事態に気付いた。


 そこにあるはずの財布が無い。パタパタと全てのポケットを叩いてみたが、どこにもない。家に忘れて来たか、それなら良いが、落としたのだとしたら面倒めんどうだ。


 焦る顔や一連いちれん挙動きょどうを見ていたのだろう、ベンチで休んでいた老人が、「お困りですか?」と声をかけてくれた。


 「どうやら財布を落としたようです」と白状すると、公園の管理事務所で落とし物の受付もしているから、行ってみてはどうかと助言された。


 そのついでに、どうせ行くのなら、これを持っていて欲しいと、一冊の大学ノートを渡された。


 その人がこのベンチに来た時には置いてあって、誰も取りに来ないらしい。これも落とし物だろうからと、その人は言う。


 お礼と共にノートを受け取って、俺は公園の反対側にある管理事務所に向かった。歩いている内に太陽は中天に昇り、そう言えば、喉が渇いたまま、腹も減って来たと嘆いている内に、管理事務所らしい建物に辿り着いた。自動扉とびらを抜けた先には、心地よい冷房の空気が広がっていた。


 入ってすぐの掲示板に、「落とし物は総合受付まで」という文字と簡単なマップが目に入ったので、その通り進んでみる。受付には少年が一人並んでいて、見覚えのある財布をカウンターに差し出していた。


「ああ、それ、俺のです!」


 思わず声を上げてしまい、はっとして我が口をふさぐ。受付の女性も、財布を拾ってくれた少年も、驚いた顔でこちらを見ていた。


 なんと大人げない。しかし、見つかって良かった。財布の中には運転免許証も入っていたので、本人確認は問題なく済み、そのまま返却して貰えた。現金やカードも無事だった。


 少年にお礼を言うと、彼は「いいえ」とぶっきらぼうな謙虚けんきょさを見せ、俺の手元を見て、「それ、俺のかもしれません」。と言った。


「中は、まぁ、ヘタクソな落書きです。どうでもいいッスけど」


 財布のように本人確認が必要だと思ったのか、少年は恥ずかしそうに視線を反らして言う。


 よく見ると、少年と言うには大人びていて、大人と言うにはまだ幼い。大学生くらいの青年だった。それも身体つきががっしりとしていて、見るからに体育会系だ。


 見かけで判断してはいけないが、彼が絵を描くことに興味が湧いた。


「少し見てもいいかな」と断りを入れると、彼は無言で頷いた。


 大学ノートには、花や風景が鉛筆でスケッチされていた。間違いないと言って、彼の手にノートを返した。


 互いの落とし物を拾った仲、縁を感じたこともあり、お礼をねての食事に誘ってみた。


 彼は「まぁ、腹減ってるんで、イイッスけど」と、またぶっきらぼうな返事を返してくれる。


 カフェは管理事務所の隣にあった。ちょうど昼時だったこともあり、早速移動してソファーに座り、冷房とお冷を堪能しつつ、クラブハウスサンドのセットを注文した。


「絵は、最近始めたのかい?」


 チラリと見ただけだが、素人目しろうとめにも上手いスケッチでは無かった。彼は視線を反らし、「まぁ、はい」と短く答える。


 明らかにお喋りが得意なタイプではないし、誘ったのはこちらだ。気まずくならないように会話を続けた。


 俺が最近越して来たことや、この公園に初めて来たこと、高校時代に美術部の恋人が居たが、絵の良さはさっぱり分からないなんてことを話していくと、彼も徐々じょじょに自分のこと話してくれた。


 どうやら、この春から高卒で働き始めた新社会人で、実家から車で通勤しているらしい。エンジンの部品を作るラインこうをしているそうだ。


 高校時代は補欠ながらもラグビーをやっていたらしく、どおりでガタイがいいと褒めると、「手先は不器用ッス」とまた謙遜した。


 そうしている内にクラブハウスサンドが届き、彼はお菓子でもつまむかのように手を伸ばした。一口で一切れをたいらげる食いっぷりは若者らしく、気持ちが良かった。


「絵を描くのも好きなのかい?」


 偏見へんけんかもしれないが、聞けば聞くほど、見れば見るほど、体育会系の彼と絵の趣味はかけ離れた存在に思えた。


 彼は口のものをコーラで流し込み、「別に好きってワケじゃ、ないッスね」と歯切れ悪く答えた。


「好きでもないのに描くのかい? どうして?」

「俺も居たんスよ。美術部の彼女」


 彼はまたクラブハウスサンドを頬張ほおばる。


 俺にとっては遠い昔の記憶だが、彼にとってはつい最近の出来事だろう。余計な地雷を踏んでしまったかと、少し心配になった。


 そんな俺をよそに、彼は言葉を続けた。


「同じ大学に行こうって言ってたんスけど、アイツ、本気でやりたいからって、遠くの美大を志望して、まぁ、そんなこんなでケンカして別れて……それなら俺も大学行く意味ねーなって思って、就職したんス。早く一人暮らししてーし」


「思い切りの良い生き様だね」


 また心地のよさを覚えながら、にわかに笑った。本当に若々しい。


「で、なんつーか。他の友達もだいたい大学に行ったんで、遊ばなくなっちゃって、一人でも出来る新しい趣味? とかに手を出してみるのもいいかと思って。そんでまー、アイツがそんなにハマるくらいだから、どんなもんかなって。似合わないッスよね。俺みたいなのが絵とか。ド下手ですし」


「確かに意外ではあるけど、ギャップがあっていいと思うよ。最初はみんな下手だしね」


 テーブルには彼のノートが置かれている。画材に大学ノートを選んだのも、彼の不器用さが現われていているように感じた。


「もう一度、見てもいいかな?」と頼んでみると、彼は口いっぱいに頬張ったまま無言で許可してくれた。


 絵を描くために買ったノートなのだろうか。まだ数ページしか書き込まれていない。一番新しい絵は、花のスケッチだった。


 また豪快に口のものを呑みこんで、ついさっき、この公園の植物園で書いたものだと教えてくれた。


「ハマる奴はハマるんだろうけど、やっぱ、俺には分かんねぇし、そのノートが返ってこなかったら、すっぱりやめようと思ってました。でもまぁ、返ってきちゃったんで、もうちょいは描くと思います」


「うん、とてもいいことだと思う。車があるなら色んなところに行って描けるだろうし、続ければ何か分かってくるかもしれないね」


「どのくらいッスかね?」


「そうだな……俺も素人だけど、少なくともこれが全ページ埋まるまで? かな?」


 根拠はないが、彼に描き続けて欲しい一心でそう言うと、彼は薄い大学ノートを手に取り、「まぁ、そんなくらいッスかね」とぶっきらぼうに言った。


 食事を終え、改めて互いにお礼を交わすと、彼はノートを抱えて植物園に入って行った。


 俺は少しの罪悪感と共に家に戻り、最後まで残していたダンボールに向き合った。


 このままガムテープで固く閉じ、押し入れの奥に封印してしまおうと思っていた箱だ。若者に貰った勇気でカッターを握り、開いた。


 俺は彼に一つだけ嘘を付いた。


 いや、嘘というよりは、ただ言わなかっただけだ。絵を描き始めたばかりの彼が純粋で美しくて、そのあまりに口にすることが出来なかったのだ。


 ダンボールの中には、高校時代、俺が美術部で使っていたスケッチブックが入っていた。美術を名乗るのもおこがましい帰宅部で、最初は俺もそれ目当てで入部した。


 当時の絵が残っているのは、彼女のお陰だ。

 幽霊部員に囲まれる中、彼女は一人、静かな美術室で絵を描いていた。


 俺はその姿に見惚みほれ、ただ彼女と一緒に居たいがために、よこしまな気持ちで隣に並んだ。


 告白をして、一応恋人にはなったが、結局、卒業するまで手をつなぐこともなかった。


 彼女の恋人は、最初から最後までキャンパスの向こうに居たのだ。


 落書きばかりを重ねた俺とは違い、彼女は在学中に何度か賞をとっている。大学進学と同時に別れ、それ以降は連絡も取っていない。


 中途半端に使用したスケッチブックには、まだ空白のページが残っている。


 ネットで調べてみると、公園の植物園では様々な花を育てているらしい。彼のスケッチではどの花を描いたものなのか、品種も何も分かったものではない。だが、美しい花であることは伝わって来た。


 俺も描いてみたいと、とっくに忘れ去っていた手のうずきを思い出してしまう。


 彼はまだ、あの植物園に居るだろうか。


 俺は青春の忘れ形見を手に、嘘をびるべく再び家を出た。

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