【二章】『彼方の月下美人』
今の会社に入り、一人暮らしを始めてしばらく経った頃のことだ。
引っ越しのダンボールも残り一つ。少し落ち着いたところで、自然と家の近所に興味が向いた。
会社と往復するばかりで、コンビニやスーパーしか行ったことがなかったが、ネットで地図を見てみると、徒歩で行ける範囲に大きな公園があることが分かった。
毎日のデスクワークで身体も鈍っている。たまに運動するのも気持ちいいだろうと思って、その週末、俺は一人で公園に出かけてみた。池や芝生の広場、テニスコート、カフェまである広い公園だ。家族連れが多く、子供たちの元気な声が響き渡っていた。
近所だと思って油断していたのだ。帽子を被ってくれば良かったと思いながら、汗を
テニスコートの裏、公衆トイレに
自動販売機も
そこにあるはずの財布が無い。パタパタと全てのポケットを叩いてみたが、どこにもない。家に忘れて来たか、それなら良いが、落としたのだとしたら
焦る顔や
「どうやら財布を落としたようです」と白状すると、公園の管理事務所で落とし物の受付もしているから、行ってみてはどうかと助言された。
そのついでに、どうせ行くのなら、これを持っていて欲しいと、一冊の大学ノートを渡された。
その人がこのベンチに来た時には置いてあって、誰も取りに来ないらしい。これも落とし物だろうからと、その人は言う。
お礼と共にノートを受け取って、俺は公園の反対側にある管理事務所に向かった。歩いている内に太陽は中天に昇り、そう言えば、喉が渇いたまま、腹も減って来たと嘆いている内に、管理事務所らしい建物に辿り着いた。
入ってすぐの掲示板に、「落とし物は総合受付まで」という文字と簡単なマップが目に入ったので、その通り進んでみる。受付には少年が一人並んでいて、見覚えのある財布をカウンターに差し出していた。
「ああ、それ、俺のです!」
思わず声を上げてしまい、はっとして我が口を
なんと大人げない。しかし、見つかって良かった。財布の中には運転免許証も入っていたので、本人確認は問題なく済み、そのまま返却して貰えた。現金やカードも無事だった。
少年にお礼を言うと、彼は「いいえ」とぶっきらぼうな
「中は、まぁ、ヘタクソな落書きです。どうでもいいッスけど」
財布のように本人確認が必要だと思ったのか、少年は恥ずかしそうに視線を反らして言う。
よく見ると、少年と言うには大人びていて、大人と言うにはまだ幼い。大学生くらいの青年だった。それも身体つきががっしりとしていて、見るからに体育会系だ。
見かけで判断してはいけないが、彼が絵を描くことに興味が湧いた。
「少し見てもいいかな」と断りを入れると、彼は無言で頷いた。
大学ノートには、花や風景が鉛筆でスケッチされていた。間違いないと言って、彼の手にノートを返した。
互いの落とし物を拾った仲、縁を感じたこともあり、お礼を
彼は「まぁ、腹減ってるんで、イイッスけど」と、またぶっきらぼうな返事を返してくれる。
カフェは管理事務所の隣にあった。ちょうど昼時だったこともあり、早速移動してソファーに座り、冷房とお冷を堪能しつつ、クラブハウスサンドのセットを注文した。
「絵は、最近始めたのかい?」
チラリと見ただけだが、
明らかにお喋りが得意なタイプではないし、誘ったのはこちらだ。気まずくならないように会話を続けた。
俺が最近越して来たことや、この公園に初めて来たこと、高校時代に美術部の恋人が居たが、絵の良さはさっぱり分からないなんてことを話していくと、彼も
どうやら、この春から高卒で働き始めた新社会人で、実家から車で通勤しているらしい。エンジンの部品を作るライン
高校時代は補欠ながらもラグビーをやっていたらしく、どおりでガタイがいいと褒めると、「手先は不器用ッス」とまた謙遜した。
そうしている内にクラブハウスサンドが届き、彼はお菓子でもつまむかのように手を伸ばした。一口で一切れを
「絵を描くのも好きなのかい?」
彼は口のものをコーラで流し込み、「別に好きってワケじゃ、ないッスね」と歯切れ悪く答えた。
「好きでもないのに描くのかい? どうして?」
「俺も居たんスよ。美術部の彼女」
彼はまたクラブハウスサンドを
俺にとっては遠い昔の記憶だが、彼にとってはつい最近の出来事だろう。余計な地雷を踏んでしまったかと、少し心配になった。
そんな俺をよそに、彼は言葉を続けた。
「同じ大学に行こうって言ってたんスけど、アイツ、本気でやりたいからって、遠くの美大を志望して、まぁ、そんなこんなでケンカして別れて……それなら俺も大学行く意味ねーなって思って、就職したんス。早く一人暮らししてーし」
「思い切りの良い生き様だね」
また心地のよさを覚えながら、にわかに笑った。本当に若々しい。
「で、なんつーか。他の友達もだいたい大学に行ったんで、遊ばなくなっちゃって、一人でも出来る新しい趣味? とかに手を出してみるのもいいかと思って。そんでまー、アイツがそんなにハマるくらいだから、どんなもんかなって。似合わないッスよね。俺みたいなのが絵とか。ド下手ですし」
「確かに意外ではあるけど、ギャップがあっていいと思うよ。最初はみんな下手だしね」
テーブルには彼のノートが置かれている。画材に大学ノートを選んだのも、彼の不器用さが現われていているように感じた。
「もう一度、見てもいいかな?」と頼んでみると、彼は口いっぱいに頬張ったまま無言で許可してくれた。
絵を描くために買ったノートなのだろうか。まだ数ページしか書き込まれていない。一番新しい絵は、花のスケッチだった。
また豪快に口のものを呑みこんで、ついさっき、この公園の植物園で書いたものだと教えてくれた。
「ハマる奴はハマるんだろうけど、やっぱ、俺には分かんねぇし、そのノートが返ってこなかったら、すっぱりやめようと思ってました。でもまぁ、返ってきちゃったんで、もうちょいは描くと思います」
「うん、とてもいいことだと思う。車があるなら色んなところに行って描けるだろうし、続ければ何か分かってくるかもしれないね」
「どのくらいッスかね?」
「そうだな……俺も素人だけど、少なくともこれが全ページ埋まるまで? かな?」
根拠はないが、彼に描き続けて欲しい一心でそう言うと、彼は薄い大学ノートを手に取り、「まぁ、そんなくらいッスかね」とぶっきらぼうに言った。
食事を終え、改めて互いにお礼を交わすと、彼はノートを抱えて植物園に入って行った。
俺は少しの罪悪感と共に家に戻り、最後まで残していたダンボールに向き合った。
このままガムテープで固く閉じ、押し入れの奥に封印してしまおうと思っていた箱だ。若者に貰った勇気でカッターを握り、開いた。
俺は彼に一つだけ嘘を付いた。
いや、嘘というよりは、ただ言わなかっただけだ。絵を描き始めたばかりの彼が純粋で美しくて、そのあまりに口にすることが出来なかったのだ。
ダンボールの中には、高校時代、俺が美術部で使っていたスケッチブックが入っていた。美術を名乗るのもおこがましい帰宅部で、最初は俺もそれ目当てで入部した。
当時の絵が残っているのは、彼女のお陰だ。
幽霊部員に囲まれる中、彼女は一人、静かな美術室で絵を描いていた。
俺はその姿に
告白をして、一応恋人にはなったが、結局、卒業するまで手をつなぐこともなかった。
彼女の恋人は、最初から最後までキャンパスの向こうに居たのだ。
落書きばかりを重ねた俺とは違い、彼女は在学中に何度か賞をとっている。大学進学と同時に別れ、それ以降は連絡も取っていない。
中途半端に使用したスケッチブックには、まだ空白のページが残っている。
ネットで調べてみると、公園の植物園では様々な花を育てているらしい。彼のスケッチではどの花を描いたものなのか、品種も何も分かったものではない。だが、美しい花であることは伝わって来た。
俺も描いてみたいと、とっくに忘れ去っていた手の
彼はまだ、あの植物園に居るだろうか。
俺は青春の忘れ形見を手に、嘘を
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