東の龍と西の竜
きのはん
東の龍と西の竜
山。その上にあって、下にも先にも雲が目に入る。
高く上ると、見上げても空だけがあり雲が足より下に来るという事を、山を知らぬ若人には伝えても理解してもらえない事が多かった。
俺も歳をとったものだ。
心の中で自嘲する。
きっと俺も、歳若く何も知らないあの頃だったなら、雲が足の下に来るという話など聞いてもたわごととしか思わなかったことだろう。そして俺が杖をついて立つような老人になる日が来る事も。
「おい、何を笑う?」
大きな体を傾けて、向き合っていた男が太い声を張り、問い掛ける。
どうやら、心が顔に出てしまっていたらしい。
「だから、何が可笑しいんだよ」
髭もじゃの男はまた反対の側に肩を反らして、問い直して来た。
俺との間で取っている間合いの長さを考えたとしても、過剰なまでに大きな声は、さっきよりもさらにもう一つ増して大きく響き、こちらに届く。
「いや、すまん。昔を思い出してな」
こちらも顎の髭をさすってから肩を動かしてみせ、問いに応える。そして「俺もあんたも髭は残ったな」と、男の方のもじゃもじゃとした髭を目で指して言葉を送る。
そんなに大きな声を出さなくても、声は届くのだ。
なにせ、この山の上には、今は俺とこの男しかいないのだから。
「ああ?相変わらず分からんな、お前の言う事は。まあ、確かに、俺もお前も頭の方は禿げちまったが、髭は有る。これは良い事だ。頭の上に毛が無くなるのは、兜の馴染んだ戦士の証だ」
声を張ってそう言いながら、男は俺の長い白髭とつるつるになった頭を指さしてから、その指を握り込むと自分の頭の兜を叩いた。
その兜は所々に茶や緑の染みに似た斑が入り、すっかり錆びて見えるのに、幾つかの古傷を誇るかのように男の拳をがっしりと受けとめる。
声と同じで、力加減を知らない男だ。しかし叩いても兜は殆ど音を立てない。古くとも、それだけ頭に馴染んでいる事と併せて、手入れが行き届いているからだろう。
この大男が毎晩律儀に装具を並べ、油を引いて拭きあげている所を想像すると、どこか微笑ましい気分にもなってくる。
「良い兜だな」
俺は思ったままにそれを讃えた。
男は不思議な顔をして、
「珍しいな。お前がこいつを褒めるとは。分かるのか?昔から鎧も纏わず、布巻きみたいな服しか着ないお前にこいつが」
「ああ。分かるさ。何となくだがな」
「何となくで褒めるな。ふざけやがって。やっぱりお前はよく分からん」
「人には全ては分からんさ」
「そうかもな。だが分かる。今日こそ分かる。俺の竜の方がお前の龍よりも強いって事が」
そう言ってから抜き身のままで下げていた両刃の剣を振り上げて、こちらには聞き取れない何かを天に叫んだ。
応えるように風が鳴り、眼下に広がっていた雲海を割って現れる。
こいつの竜だ。
蜥蜴のような、狼のような、蝙蝠のような、虎のような、しかし何よりも大きく獣としては強すぎる事が明白な西の竜。
「俺の竜が、一番強い。今日こそは」
男は、竜が翼を畳み足場を定めて爪を食い込ませたのを横目に見てからこちらを睨んでそう言った。
そして続ける。
「さあ、お前の龍を出せ。いつものあれを。あの訳が分からんおかしなやつを」
ひどい言い草だな、と思いながら、俺は杖を片手で立てて、腰に結わえた小さな方の瓢箪を持ち上げ腰紐から解き、その栓を抜く。
たちまちに、瓢箪が少しだけ軽くなり、周囲から浮き上がって集まった雲が濃い霧の覆いとなって、辺りを取り巻く。
同時に俺は不思議な心持ちになる。
理由は分からない。この封を解く度に、寝床に入るような心持ちになる事の。
周囲を覆っていた霧が晴れると、俺はその心持ちからまたこの場に向けて意を戻す。
俺の周りを長い胴体で巻くようにして、現れていた。
大蛇のような体から首を持ち上げ、眼は何を見ているのか分からない。角は太く、老木のようでもありながら古い岩の質を感じさせた。
あいつの竜とは随分違う姿に見えるが、これが俺の知る龍だ。
西の土地に住まう者から見られるならば、東の龍と呼ばれるだろう。
「俺の竜が、一番強い。今日こそは」
目の前の男はまた言った。
何故同じ事を二度も言うのか。この男には、それがそんなに大切な事なのだろうか。
俺は男に聞いてみる。
「なあ、あんたはその竜が『一番強い』と言うが、その竜はあんたが討って、ともがらとしたものだろう?」
「ああ、そうだ。もう随分と長い付き合いさ。知っているだろう?お前と初めて戦った頃からそうなんだからな」
「ならば、一番はその竜ではなくて、討ったあんたじゃないのかね」
あん?という拍子抜けしたような低い息の音がもじゃもじゃの髭を通して短く響いた。
一つ間を置いて、不思議な顔をする。
「いや、それは、そうとも言えるが、その、なんだ、何なんだ?お前は俺をおだてているのか?今日こそは決してやろうというこの場に及んで」
本当に混乱しているように見て取れた。
俺は思ったことをそのまま言っているだけなのに。
男は大きな体を揺さぶってからぶんぶんと首を振り、険しく顔を戻した上で、強く足元を踏みしめた。
仕切り直し、とでもいうものだろうか。
今日、この日、この時に。この山の上の場で。
もう何度目になるのかも分からないこの男からの挑戦を受ける約束。
面倒だったが、俺はそれを受けたのだ。知らない仲でも無いのだし、それ故にこの男の性分も知っている。共感は出来ないが、この男にはこの男なりに、何か大切な事として俺に挑んでいるのだと思われたから。
「決するぞ。屠れ!」
一度剣を振ってから、男が兜を揺らすように首を回して竜に命じる。
「なにも、変わらんよ。そして分からんものさ。何が一番だろうか、などともね」
俺の声を聞いてか聞かずが、こちらの龍もゆっくりと動き出す。
竜は真っすぐに飛びかかってきた。
しかし龍はそれが見えてもいないかのように、悠然と天に向かって伸び上がる。
食らいつこうとした首元を逃した竜が翼を広げ体を浮かせて上に追うのだが、龍はまたしても意に介さぬかとばかりにゆるりと回り、空をぐるぐると漂っている。
そういえば、西の竜には翼があるな。
当たり前の事に改めて気付く。
こちらの龍にそれは無い。
どこかの山には、翼を持った龍も伏しているとは聞いたものだが、それは今、目の前にしている西の竜とも違うものだろう。俺と同じような瓢箪をもった山の者に昔聞かされた噂話だ。
龍ならば、翼など有っても無くても同じなのだろう。
空も、土も、川も、海でさえもそうだろう。
龍は、それ自体なのだから。
西の竜は、また違うようだが、そちらの事は分からない。
頭上では、まだ竜が龍を追い回している。
いや、これを追っている、と言うべきなのだろうか。
西の竜は弧を描きながらも所々で速度を変えて軌道をずらし、飛びかかっては躱されて、その度にまた弧を描く軌道を変え続けながらその攻めを繰り返している。
龍の方は龍の方で、追って来る竜を見ているのかいないのかも分からない。
そのやりとりは、それぞれが空を泳いでいるようにも見えなくはない。
目線を上から戻して見ると、男は目を血走らせてともがらとする竜を見つめ、空いた方の手で拳を握り込んでいる。
おそらく、この男が使役する竜も、この男と同じく勝つか負けるかでものを見る生き物なのだろう。
龍は、本来そういうものではないのだろうにな。俺の知るこちらの龍は。
そう考えながら、また上に視線を戻すと、龍は変わらず空に長く体を伸ばして舞い続けていた。
そこでとつに、西の竜が天空の一点に静止して見えた。風を読みながら翼を活かして、その身を制御して留まったのだろう。
次の瞬間に、その口元から大きな火炎が吹き出されるのがここからも見えた。
「上でやりあってくれて良かっただろう。あれをくらえば、俺たちだって消し炭だ」
男は剣を片手で抱え上げるようにして自慢気に言った。
「土も木も人も消し炭も、龍からしたら元より大した違いは無いのではないだろうかね」
俺はぼんやりと呟く。それが男に聞こえていたかは分からない。
天空に放たれた火炎がその色を失うと、火線の跡から龍が首を覗かせて顔を近付け、西の竜の顔面に迫ってからまたくるりと長い胴体を翻してその周りを揺らめくように舞い踊る。
己が吹いた火の中から龍が現れたように見えたのであろう。西の竜は困惑した獣がそうするように足から翼までの全身を広げ、怯えと威嚇を同時に示す仕草を見せた。
「あ?なんで効かねえんだよ!?」
見上げながら男が叫ぶ。
「いや、効くとか効かないとか、そもそも同じものなんだからさ。龍は。火も、水も、風も、土だって。きっとお空も山も龍それ自体と区別は無いのだろうさね。おそらくは。おそらくね」
男に届くように声を掛ける。
聞こえてはいた筈だ。この男には、理解も納得も出来ないのかも知れないけれど。
「なんでだよ。俺の竜が。炎で決まった筈だろう」
男はそう言って歯を食いしばり、また空を強く睨みつけ直す。
「凄いねえ、西の竜は。いつ見ても。口から火を出すなんて、不思議な術を使えるんだから」
「馬鹿にしてんのか?それにあれは術じゃねえ。ようやく飛びながらでも吐けるようになったんだ」
「ほう。そうか。頑張ったんだなあ」
俺に怒鳴りつけて来る男を見直してみて、この大男があの竜と一緒に毎日鍛錬に明け暮れる姿を頭に浮かべ、またしても微笑ましい気分になった。
こいつ、こんなにいかついなりをしていながらに、装具はまめに手入れしているようだし、俺に近い歳なのに今でも毎日鍛錬か。ともがらと共に。きっと仲が良いのだろうな、あの獣、翼の生えた西の竜とも。
そんな風に思えて、つい心から顔まで笑みがこぼれた。
「おい!また、何を笑う!?またお前の勝ちで、敗れた俺を笑うのか?」
「違うよ。違う」
「何が違うんだ」
「いや、おそらくそれは全部違うよ」
「やっぱり、お前は分からんな。相変わらず、分からん奴だ」
怒っても問うてもそれがいずれも噛み合わないと諦めたらしく、男が握っていた拳から少しだけ力が抜ける。
空高くからでもそれに勘付いて応じたらしく、翼を広げたままで降りてきた竜はその横に据わりを定めた。
竜と目を合わせてから男は剣を腰の辺りまで静かに降ろす。
今日はここまでだ、という事を飲み込んだのだろう。
その仕草にあわせて、竜も隣で翼を畳み、大きな身の丈を一層伏せて瞼を下ろし、戦いの意思を納めたと伝わるに十分な姿を造りつつ男に頭を寄り添わせて見せた。
「今日の約束は、ここまでで良かろうね」
俺は片手で立てていた杖に体重をあずけ直して少し前のめり、そこから後ろに背を反らして筋を伸ばすと姿勢を正してからそう告げた。
「ああ。参った、参った。また負けだ。今日こそは、という気で祝杯まで用意して来たのにな」
そう言って大きな体の背を守る鉄甲と腰の隙間に手を入れて、平べったい革張りの酒入れを取り出して見せる。
この酒入れも、こいつは昔から使い込んでいるな、と過去の色々を思い起こすが、兜と違ってその酒入れは見る限り表面に疵が無い。
その日の装具に合わせる形で、革袋や布に重ね包んで身に付けているから疵もつきにくいのだろう。
やっぱり妙にまめな男だ。
とにかく、約束は果たした。
俺も龍を戻すべく、小さな方の瓢箪を掲げてまだ龍の舞う天空を仰ぎ、そしてまた瓢箪の口に今見た空を飲み込ませるように首を下ろした。
たちまちに、舞っていた龍が降りてきて、風が抜けるように俺とその周りに龍の体が薄く透き通りながら重なって過ぎ、龍が完全に姿を消すのとあわせて、瓢箪は持って来た時の重さを戻した。
ほんの一瞬だけ、俺はまたあの寝床に入るような心持ちを得るが、それもすぐ醒める。
瓢箪を栓で封じて、上げた目に映るのは雲を下にした山の岩肌と男と空だ。
俺は龍を戻した小さい方の瓢箪を腰に戻すと、紐を改めて結わえ直して、衣も併せて整える。
「なあ、お前」
ゆっくりと歩み寄りながら男が聞いてきた。もうその目には先程までの力みは見えない。
「なんだい」
「その、何て言うんだ、いつも腰に付けている龍を呼び出す時のそれ」
「瓢箪かい」
「ヒョウタン。それな、お前、いつ会う時にも龍を呼ぶのに小さい方の、その、ヒョウタン、か、それを使うだろう」
「ああ。封じているからな」
「よく分からんが、いつもその小さい方であの龍を出すじゃあないか」
「ああ。だからこれに龍を封じているんだよ」
「だったらそっちの、並べて腰につけている大きい方の、ヒョウタン、か。そっちのヒョウタンは何に使うんだ?他にも龍を従えているのか、お前は?」
従える?龍を?
ああ、西の者にとってはそちらの竜はそういうものなのか。
これは言っても納得できない事だろう、この男には。西の者には。
その前に、瓢箪を何に使うのかって?何を言っているんだ、この男は。
「こっちの瓢箪はな、瓢箪だよ。ほれ」
言いながら俺は結わえた腰紐をまた解きながら大きな方の瓢箪を持ち上げて見せ、男の目の前で栓を抜いた。
男の鼻先に瓢箪の口を近付ける。
男は少し、怪訝な顔を見せてから、もう一度また不思議な顔をして、その後でようやく笑った。
俺も小さく笑って見せる。
男の片手にある平べったい酒入れを顎で示して、
「お前さんのそれと同じだよ」
これは、珍しくすぐに伝わったようだった。
「一緒に呑もう。景色も良いし、古い馴染みに会うのも久し振りだしな」
俺がそう言って据わりの良さそうな岩に腰を掛けると、男は脇に伏せていた竜に目で伝えてから身を覆う装具の締まりをゆったりと緩め、隣の岩に剣を立てかけて酒入れだけをその手に残す。
「呑もう」
〈東の龍と西の竜 おわり〉
東の龍と西の竜 きのはん @kinohan
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
参加中のコンテスト・自主企画
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます