怨霊になって。

忌井ふるい

本編

 ダイニングには死の匂いが立ち込めていた。

 腐敗した血肉や線香といった死を連想させるものではなく、死そのものが匂いとなって漂っているような、形容し難い匂い。

 敢えて喩えるなら、ドラッグストアに売っている薬品のような。

 そんな匂いの発生源は平然とした顔で椅子に腰掛けている親友――増田ますだ紗凪さなだった。

 頬杖をつきながら、もう片方の手で空いている椅子を指差している。


「一緒に食べよ。ま、わたしは食べれないだけどさ」


 浅見あさみ千歌ちかの顔から血の気が引いていく。

 紗凪は二ヶ月前に事故で死んだ。

 帰ってきて欲しいと願ったことには違いないが、いざ亡霊として現れると恐怖以外の感情はない。


「紗凪」

「ただいま」


 がしゃん。

 電子レンジから取り出したばかりの皿が、千歌の手から離れて割れる。

 千歌の顔は、今まさに対面している亡者よりも青褪めていた。

 一方の紗凪は、満ちた笑顔を浮かべる。

 まるで生死を交換したように。


 千歌は髪を洗いながら、視界の隅、鏡に写る紗凪の姿を見る度に体がびくつく。

 半透明の肌は漂白されたように色味がないし、浴室に制服姿というアンバランスな姿は何度目にしても慣れない。

 紗凪が幽霊として現れたことは、幾つかの言葉を交わしたことで受け入れることができたが、限度がある。


「ごめん、出てって」

「リビングにいたら、物音立てた時に怖がらせちゃうかなーって思って、ついてきたんだけど」

「そこに突っ立ってる方がよっぽど怖いよ。幽霊じゃん」


 物の例えのつもりだったが、今の紗凪は幽霊そのものだ。

 笑いを含んだ指摘に、紗凪は「そうかも」と勝手に納得し、浴室の折れ戸を押して出ていく。

 幽霊なのに律儀だな、そんなことを思いながら、髪を洗う泡をシャワーの水で流す。


 千歌が浴室を出ると、紗凪は服を脱いでいる最中だった。

 幽霊が服を脱ぐという奇妙な光景に呆気に取られていると、紗凪が口を開く。


「わたしも入る」

「幽霊なんだし入る必要ないよ」


 幽霊は汚れるのだろうか。

 汗をかくことも、汚れることもない――何故なら、実体がないから。


「それはそうだけど、ずっと身体洗ってないって気持ち悪くない? 」

「うーん、確かに」


 気持ちの問題、という至って単純な回答に返す言葉もない。

 しかし、水を浴びることはできるのだろうか。

 シャンプーのボトルに触れることは愚か、シャワーのレバーを引くこともままならないのでは。

 そんな疑問を払拭するように、紗凪が入っていった浴室からはシャワーの音が聞こえてきた。

 今、お母さんが帰ってきたらびっくりするだろうな。

 千歌はそんなことを思いながら、髪を乾かした。

 

 1人用のベッドに2人並んで横たわる。

 片や人間、片や実体のない幽霊で、窮屈な心地はしなかった。

 その代わりに、重なっている部分は氷水に浸したペットボトルのように冷たい。

 蒸し暑い夏には丁度いいが、同時に紗凪が幽霊であることを突きつけられ、やりきれない気持ちを抱える一因になっていた。


「そういえば、家には帰らないの」

「誰も気付いてくれないから帰らない。それに、自分の死が理由で壊れていく家族を見てるのって相当キツいよ」

 

 紗凪の弱気な口調に、千歌は無神経だったかもしれないと自省する。

 家族だからといって、都合良く見えるものではない。


「たしかに、ね」


 千歌はこれまで、一度も幽霊を見たことがなかった。

 故に、幽霊なんてものは空想上の存在だと思っていた。

 今も、半透明な親友が幻ではないかと疑っている。


「私自身、なんで見えてるのか分かんないんだけど」

「運命共同体だからでしょ」


 運命共同体。

 友達の最上級であると、いつか紗凪が言っていた。

 しかし、今の自分には、紗凪を運命共同体と呼ぶ資格はない。


「運命共同体ね。ま、好きなだけいなよ」


 そして、紗凪の口からも聞きたくはない。

 千歌は軽く流すように、話題を変えた。


「ありがとう。好きなだけいる」


 満足げな紗凪を前にして、一番に言うべき言葉が口でつっかえて出てこない。

 そうして、先延ばしにしているうちに、いつしか千歌は眠りについていた。


 千歌は夢現ゆめうつつのまま、“あの日”を回想する。

 終業式の日、千歌は積乱雲に夏休みの足音を感じながら、教室で紗凪を待っていた。

 本来であれば、自分達は体育館にいて全校集会で諸々の連絡事項を聞いている頃だ。

 それが、校内放送で先生の召集が掛かり、生徒はその場で待機することになった。


「電車が脱線事故を起こしたって」


 紗凪以外にも連絡の取れない生徒が数名いるようで、様々な名前が飛び交っている。

 事故が起きたのは、いつも登下校で使っている路線。

 点と点がそこにあって、線で結ばれていないだけの状態だった。

 教室へ戻ってきた担任が金切り声を抑えながら告げる。

 答え合わせ。

 焦燥、そして哀しみは教室中に伝染した。


「紗凪ぁ」


 不安が確信へと変わり、机に突っ伏す。

 あちこちで、千歌と同じように泣き崩れている生徒がいた。

 そして、青空の中では、積乱雲が黒い影を落としていた。


 葬式では、顔を合わせることも叶わなかった。

 葬式会場には、色がなくて、紗凪の遺影だけが色彩を帯びていて、遺影の紗凪だけが笑っていた。


「千歌ちゃん、今までありがとね」


 振り絞ったような感謝の言葉が自分を刺す。

 紗凪の両親の心境を案じ、葬式が終わると足早に帰宅した。

 紗凪に面と向かって伝えたいことはあったが、閉ざされた棺の前では届かないような気がして、胸の内に秘めた。

 紗凪が死んだという現実から逃れる術はなく、ただ目を覆うことしかできなかった。

 家に着くなり、ベッドに飛び込んで枕に顔を埋める。


「紗凪ぁ」


 嘆きと涙を枕に受け止めてもらう。

 保育園来の親友との別れには悔恨が残った。

 顔を合わせることもできず、想いも伝えられず。

 誰もいない部屋で、一頻り号哭した。

 二度とは思い出したくもない光景――漸く千歌はこれが夢であることに気付いた。

 吸い寄せられるように、意識が薄くなっていく。


「ひゃっ」


 冷たい感触が頬に伝い、千歌は目を覚ます。

 まだ日が登っていないようで、辺りは暗い。

 ただでさえ薄い彼女の輪郭が、宵闇の中に、寝起きのぼんやりとした視界の中に浮かんでいる。


「辛そうだったから、起こしてあげたんだけど、迷惑だった」

「んん」


 声が思うように出せず、仕方なく首を横に振る。

 紗凪の冷たい温もりは、柔らかいけど痛い。

 千歌は、あべこべな感情を抱く。

 寝ぼけているから、頭が回っていないのか。


 結局、碌に眠れず紗凪と顔を見合わせているうちに夜が明けてしまった。

 再び夢を見るのが怖くて、また紗凪のいない日々を追体験してしまいそうで、眠れなかった。

 あの、心が風化していくような乾いた日々を。


「暑い、頭痛い」

「それは大変」


 寝不足からくる頭痛と残暑に辟易しながら、駅を目指す。

 一人で喋っていても、周りから気味悪がられないように、イヤホンを片耳に付けて。

 隣を歩く紗凪は涼しそうな顔をしていた。

 睡眠も気温も彼女には無縁だ。

 羨ましい――千歌は出かかった言葉を慌てて飲み込む。


「電車乗るけど大丈夫」

「まあ、平気」


 事故が起きてから、電車に乗ること自体に躊躇いがあった。

 それでも、登下校において他の交通手段がない為に、渋々受け入れている。

 千歌個人としては、交通手段として割り切れるが、紗凪にとっては克服できないトラウマだろう。

 平気と答えたその顔も、到底平気そうではなかった。


「なんだったら、先に向こうの駅で待っててくれてもいいよ。壁すり抜けられるんでしょ」

「それはやだ。それじゃ、幽霊みたいだし」

「幽霊でしょ」


 自分が幽霊であることを棚に上げて拒絶する紗凪に、千歌は笑いを飲み込みながら、真面目なトーンで返す。


「そうだけど、でも、人間に出来ないことしてたら心まで幽霊になっちゃいそうじゃん」


 死んでいても、生きた人間でありたい。

 この世に留まっているのも、生への未練が残っているから。

 シンプルな理由だが、腑に落ちた。


「あ、でも映画はタダで観るよ」

「それ犯罪、いや狡くない」


 幽霊に法律は通用しないよ。

 そんな返答を予期して、千歌は言い直す。

 誰が言っていたかまでは覚えていないが、幽霊はライブ会場や映画館といった人が多い暗がりに集まる傾向があるという話を聞いたことがあった。

 ――まさか、娯楽を楽しむ為に。

 頭の上に豆電球が浮んだような気がした。


「咎める人もいないし」

「お坊さん的な人に見つかったら悪霊扱いされて祓われちゃうかもよ」

「う、やっぱやめ」


 笑いを含んだ会話の中でも、千歌の心には不穏が渦巻いていた。

 きっと、この世にいる時点で良くは思われないんだろう。

 それでも。

 彼女の根底にある芯は固かった。


 教室。

 紗凪をいない者扱いすることに心苦しさがあった。

 制服姿は、この日常に溶け込んでいる。

 紗凪の机には、花瓶が置かれている。


「混ざりたいのに混ざれないもどかしさ。悶々する」

『やっぱり、見えてるのって私だけなの? 』


 友達と雑談をしつつ、メモ帳アプリに文字を打って紗凪とも意思疎通を図る。

 10人には遠く及ばないが、気分だけは聖徳太子のようだった。


「当たり前でしょ。みんな気付いてないじゃん。廊下歩いてたら知らない子が一瞬凄い顔でこっち見てくるけど。あとは同じ電車に乗ってた子達――まあ、仲間」


 幸いと言えば表現は悪いが、千歌には紗凪以外の霊が見えなかった。

 しかし、紗凪が成仏できずにいるならば、他に事故で命を落とした生徒もこの世に留まっていても不思議ではない。


「とうとう、わたしだけになっちゃったけどね。みんな成仏しちゃった」


 見えないのではなく、いない。

 紗凪の孤独がより際立って見えて、千歌は心を痛める。


『可哀想。』

「だからさー、可哀想って言うのやめてよ。今は千歌がいるし、そこまで気に病んでないって」


 千歌がいる、という言葉には重みがあった。

 失われた体重が全てそこにあるような、重みが。

 気に病んでいない、本当にそうなのだろうか。


『ごめん』

「いいよ。あ、お詫びついでに一つお願い」


 お願い。

 その内容に、千歌は苦い顔を浮かべた。


 放課後。

 千歌はある場所へと向かっていた。

 緊張が枷になって、足取りを重くしている。


「でもいいの。昨日は壊れていくのが見てられないって言ってたけど」

「そうだけど、心配じゃん」


 とうとう紗凪の家に着いた千歌は、深呼吸を繰り返す。

 そうして、決心がつくと震える指でインターホンを押した。

 沈黙が流れて、そして。


「浅見千歌です」

「あら、久しぶりね。上がって上がって」


 インターホンから想像よりも明るい声が返ってきた。

 胸を撫で下ろしたのも束の間、家から出てきた紗凪の母は、皮膚と骨が同化したように見えるまでに窶れていた。

 笑顔で出迎えているが、その表情が余計に痩せ細った体が強調している。


「わざわざきてくれてありがとう。こんなものしか出せないけど」

「いえいえ、お気遣いなく」


 カットされた桃が何切れか、皿の上に乗っているが、手をつける気にはなれない。

 家中に漂う線香の匂いが、食欲を削ぐ。


「紗凪もきっと喜んでるわ」

「うん、大親友の紗凪が来てくれて嬉しい」


 家に招いたのは他でもない紗凪だ。

 そして、当の本人は母の横で一人芝居を演じている。

 朗らかであるが故に、一層虚しい一人芝居を。


「片付けたら紗凪がショック受けちゃいそうだからそのままにしてるの」


 念入りに手入れされているようで、紗凪の部屋は何一つ変わってはいなかった。


「最近は闘うことばっかりで心が休まる暇もなかったんだけど、千歌ちゃんの顔を見て、ちょっとだけ安らいだわ」


 紗凪の母の好戦的な口振りに、千歌は閉口する。

 遺族が鉄道会社を相手取って裁判をするなんて話が持ち上がっているらしい。

 自分から事故について調べるつもりもなかったので、詳しいことは知らなかった。


「紗凪だって死んでも死にきれないはずだから」


 千歌は俯きながら首を僅かに揺らし相槌を打つ。

 窒息しそうなくらい、酸素が薄い。

 まるで、首を絞められているような。


「騙されてるって思うかもしれないけどね。おばさん、有名な霊媒師の人に聞いたの。紗凪が成仏できずにこの世を彷徨ってる、って」


 千歌は固唾を呑む。

 その霊媒師が果たして信用できるものなのかはさておいて、現に紗凪はこの世を彷徨っている。


「ここに留まってる方が紗凪にとって苦しいんじゃないかって思うの。だから、近いうちにお祓いを頼むつもりなの」


 それは違う、紗凪は苦しんでなんかいない。

 そう信じていた千歌だったが、呻く彼女の姿を見て独りよがりな願望であることを自覚した。

 本人と意思疎通ができない以上、霊媒師とやらを当てにする他ない。

 紗凪の母の立場であれば、もし紗凪の姿が見えなければ、きっと自分も鵜呑みにしてしまうだろう。

 じゃあ、自分が彼女の本心を代弁すれば――信じてもらえるのだろうか。


「私は側にいても気付くことができないから」

「苦しくない。苦しく、ないよ」


 聞こえないことを悟ってか、徐々に声が小さくなっていく。

 千歌は本人が確かに此処にいて、それを望んでいないことを伝えるべきか葛藤しているうちに、とうとう機会を逃してしまった。


 紗凪の母に見送られながら、増田家を後にする。

 9月中旬というのに、未だに蝉は鳴いている。

 普段なら気にも止めないその声が、今は煩く聞こえた。

 これまで目を背けていた事故の生々しい輪郭に触れて、昨日まで自分もいたはずの、紗凪のいない日常を目の当たりにして、吐き気が渦巻く。

 それらは、千歌にとって直視できないくらいにグロテスクな形をしていた。


「ごめん」

「私の方こそ、ごめん」


 紗凪の顔には生気がない。

 母と意思疎通が出来ないもどかしさを残したままの彼女は、心までもが亡霊になっているようだった。

 千歌は、親友の納められた棺桶に想いを伝えられなかったあの日の自分と何ら変わりのないことを心のうちに嘆く。

 心のうちに、口にする勇気をガムのように噛みながら。


「私がいるから」

「慰めになってないよ、それ。だって、千歌しかいないじゃん」


 声を振り絞って放った一言も、冷めた眼差しの紗凪に一蹴されてしまう。

 千歌がいるから、千歌しかいない。

 昼休みに紗凪が言っていた言葉は、鋭利な呪いへと形を変えて千歌を刺す。


「やっぱり、成仏するべき、なんだよね」

「やだ」


 引き止めるように、制服の袖を掴もうとするが、その手は紗凪をすり抜ける。

 もう一度掴もうと手を伸ばすが、哀しくなって途中ふで振り下ろす。


「やだよ。今更成仏したいなんて」


 紗凪の孤独は分かっているつもりだった。

 そう、あくまでつもりだった。


「千歌は生きてるから分からないんだ。家族とか友達には気付かれないし、知らない人からは怖がられるし」


 一度は気に病んでないと言っていたが、やはり簡単に割り切れるものでもない。

 紗凪に責められながら、決して反論はしなかった。

 生者である自分に一切の非があるのだと。


「昨日今日だけだったけど、楽しかったよ。ありがとう」

「待って、待って」


 やっぱり、その身体は触れない。

 誰かの家の塀をすり抜けて、紗凪は姿を消す。

 自分を阻むコンクリートの固くてざらざらとした手触りは、隔たりそのものだった。


 どこにも紗凪はいない。

 まるでこの世界のどこにも彼女がいないような気がして、落ち着かなかった。

 昨日からさっきに至るまでの全てが幻に思えてくる。


「紗凪」


 玄関から呼んでみても、返事はない。

 昨日、紗凪が座っていた椅子にも、誰もいない。


「紗凪、会いたいよ」


 風化しつつあった哀しみが、再会と別れを経て再び込み上げる。

 死を受け入れられない自分の姿を見たら、紗凪は戻ってきてくれるんじゃないか。

 そんな甘え或いは期待を抱きながら、あの頃と同じように枕をクッション代わりに感情を落とした。

 どうせ、逃げる場所なんてない。

 そして、恐れていた夢の中へと、沈んでいった。


 千歌は観覧車の中にいた。

 街が外全体に広がっている。

 ガコンと揺れる車内は落ち着かない。

 いつか覚えていない、紗凪が生きていた頃の夢。


「高い所、苦手なんですけど」

「そんなん言ってたら飛行機も碌に乗れないよ」


 千歌は窓から目を逸らす。

 安全と分かっていても、怖いものは怖い。

 足場はあるのに、宙吊りになっているような、アンバランスな感覚は昔から苦手だった。


「幼稚園の遠足で、此処に来た時のこと覚えてる」

「うん」


 何を言おうとしているのか読めた千歌は、狼狽しながら答える。


「紗凪、ずっと『怖い」って泣いて観覧車乗らなかったよね。ジェットコースターは平気だったのに」

「そうだったね」


 想像した通り、恥ずかしい思い出話だ。

 観覧車に乗る度に、この話を聞かされている気がする。


「それで、わたしも『千歌と一緒じゃなきゃ嫌だ』って泣いて、二人だけ乗らなかったの」


 その話も何回も聞いた。

 親友である証明のようなエピソードだ。


「片方だけっていうのは、これからも無しだから。わたし達は、運命共同体だから」


 その言葉によって、ロールプレイングの中にあった意識が呼び戻される。

 答え合わせが終わった後では、運命共同体という言葉すら残酷だ。


「束縛じゃん」

「最後まで聞いて。運命共同体っていうのは、健やかなるときも、病めるときも、喜びのときも運命を共にする間柄なの」


 口は自然とあの日と同じ会話を紡ぐ。

 新郎新婦じゃあるまいし。

 浮かんだ感想もあの日のままだった。


「ってなわけで、運命共同体は友達の最上級表現だから。これからは友達でも親友でもなく、運命共同体って呼び合おうね」

「却下却下。長い」


 こんな時に、懐かしいじゃれあいを見せて、夢は無情だ。

 もう戻ることなんてないのに。


「千歌、千歌ってば」


 呼ぶ声が遠くから聞こえる。

 既視感のある、感触。

 そこに期待を見出し、目を開ける。

 その期待通り、紗凪はそこにいた。

 沈みかけの夕陽が、紗凪の半透明な顔を写し出している。

 頬に冷たい感触が走っているのは、紗凪の手が触れているからなのか、涙なのか。


「顔、ボロボロだよ」


 自分の顔はどんな風になっているのだろう。

 鏡なんか到底見たくないし、普段であれば他人にも見せたくはない。


「紗凪のせいだよ」


 想うほど、涙が止まらない。

 死はどんなに理不尽だろうと、受け入れないといけない。

 戻ることのないものに縋っていては、現世に生きているだけの亡霊になってしまう。

 でも。

 

「そんなになるまで、泣いてくれて嬉しい。ありがと」

「ありがと、じゃない。これからもずっといてほしい。誰が何と言おうと、この世に留まってることは悪いことじゃない。私しかいなくても、紗凪がずっといたいって思うくらい幸せにするから」


 ありがとうって、別れの言葉みたいじゃん。

 否定したい気持ちが昂って、溜め込んできたエゴを吐露する。

 紗凪の孤独を真に知ることはできない。

 知ることができないから、「ずっといたい」なんて言えるんだ。

 でも、言わなきゃ。

 だって、紗凪は――


「紗凪と一生いたい。私が死ぬまで、死んだ後も。天国とか地獄とかあの世でもずっと、いたい」


 運命共同体だから。

 棺の前で伝えたかった言葉を、そのままぶつける。

 幽霊でもいいから、一生いたいと願ったのは、他でもない千歌だった。

 死別なんて言葉はわたしにとって間違いだ。

 理不尽に裂かれた情を諦めることは、間違いだ。

 勝手に満足して、成仏するなんて狡い。

 それこそ、エゴじゃん。

 千歌はわがままになって、実体のない紗凪を引き止める。


「もう、そんなプロポーズみたいなこと言われたら、死んでも死にきれないじゃん」


 しわくちゃになった顔で見つめ合う。

 実体のない幽霊と、形のない情で結ばれている。

 感慨深いものを感じて、涙が混ざっていく。


「怨霊になっちゃうよ」

「いいよ」


 身体を包むような、紗凪の感触。

 冷たくて温かくて、柔らかくて痛くて、心地良い。

 千歌は、それに身体を埋めながら実体を感じていた。

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怨霊になって。 忌井ふるい @R1P_SIN

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