第3話 贖罪の舞台
――あの日。
赤いものが床を満たしていくのを、俺はただ見ていた。時間はゆっくりになり、音だけがやけに大きい。救急のサイレン、医者の靴音、誰かが呼ぶ俺の名前。全部が渦を巻き、最後に残ったのは、冷たくなっていく彼女の指先の感触だ。
「助けたい」と言葉にした瞬間、俺は迷いを捨てた。
医者は淡々と説明する。最新式の機械化手術。命はつなげる。ただし費用は重い。スポンサーは別室で待っていた。書類の束は厚く、文字は細かく、用語は冷たい。「投資」「回収」「価値」「収益化」。命の隣に置くには無骨すぎる語彙が、そこには並んでいた。
――それでもいい。
俺は震える手でサインをした。
彼女は生きる。代わりに、舞台に立つ。剣闘士として戦い、負債を返す。俺はトレーナーになる。支える。守る。簡単だ。紙の上では。
手術は長く、夜が何度か越えられた。消毒の匂い、白い灯り、仮眠のベンチ。
目を覚ました彼女は、弱々しく微笑んだ。
義肢を取り付ける音が、最初は受け入れがたい機械音に聞こえた。だが少しずつ、それは彼女の呼吸と重なっていき、やがて“彼女の音”になった。
初めての稽古の日、俺は彼女の背中に手を当てた。
歩幅を合わせ、重心の移動を支え、膝を守り、刃の角度を教える。
彼女は覚えるのが早かった。金属は彼女を重くしなかった。むしろ彼女を支え、跳ばせ、舞わせた。あの白い肌に、銀の線が一本走るたび、俺は安堵と誇りを同時に覚えた。
初陣の夜。
あの場違いなほどの美しさに、俺は言葉を失った。
歓声が爆ぜ、灯りが彼女の輪郭を縁取り、白と鋼が渦を描く。彼女は勝った。
勝利は祝福であり、同時に借金の数字が少しだけ減ったことを示すサインでもあった。俺は彼女を抱きしめ、耳元で「よくやった」と囁く。彼女は小さく頷いた。
……だが、それからだ。
勝つたびに、彼女が遠くなる気がした。
舞台袖から見る背中は、稽古場で見た背中とは少し違って見える。
客席の熱に照らされるほど、俺は自分がそこに居合わせる資格を失っていく錯覚にとらわれた。
命をつなぐために剣を握らせた。そう信じているのに、剣を握らせたのは俺のわがままじゃなかったのか。――そんな問いが喉に刺さるようになった。
酒場は、逃げ道だった。
酒は最初、言い訳を柔らかい言葉に変えてくれた。「彼女は強い」「俺は疲れているだけだ」「明日は行ける」。
そのうち言い訳は沈み、底に澱み、グラスの縁から腐った匂いが上がるようになった。それでも俺は通った。痛みの輪郭がぼやける瞬間が欲しかった。
そんな夜に、魔女が来た。
「――まぁ、立派な台詞ね」
鋼の脚が床を叩き、乾いた音が夜に散った。
スキュラ。深海の魔女。噂に聞いて、港で見かけたとき心臓が跳ねた女。目の前に立つと、彼女は想像より静かだった。静かで、よく刺さる。
「愛だの救いだのと口にしながら、舞台から目を逸らす。あなたの語彙は豊富だわ。『延命』『契約』『代償』……どれも正しくて、どれも便利」
俺は何かを言い返そうとして、うまく言葉が出ない。
喉に張り付いた言い訳は、彼女の冷たい視線の温度だけで粉々になるのだと、その瞬間知った。
「悩むのも、酔いつぶれるのも勝手。けれど――後悔だけは許さない」
彼女は低く告げ、最後に刃を鞘に納めるみたいな声で言った。
「私は、あなたを許さない」
許されない?
胸の中心に杭が打たれる。
けれど、その杭は俺を縫い止めるだけじゃなかった。逃げ道を塞ぎ、足を舞台へ向けさせるための、太い釘でもあった。
今、俺は関係者席にいる。
闘技場の灯りが、紙のように乾いた光で舞台を塗っていく。
汗で濡れた掌を握りしめる。膝の震えを椅子の縁で止める。呼吸は浅く長く、舌の上にはまだ酒の苦さが残っている。それでも、逃げない。逃げないことだけを、今夜の俺の仕事にする。
彼女はそこにいる。
白亜の肌が灯りに晒され、義肢がわずかに鳴る。俺だけが知っている音――稽古場で何度も聞いた、あの音。客席の歓声の向こう側で、彼女の息のリズムが確かに拾える。俺の胸が、そのリズムに合わせて打つ。
「ガラテア」
心の中で呼ぶ。届かなくてもいい。俺が呼ぶことに意味がある。
刃が交わる。火花が散る。踏み込み、引き、回転。
彼女は強い。強さは天賦じゃない。あの長い長い稽古の果てに獲得した“方法”だ。
俺はその“方法”の半分を知っている。半分は彼女のものだ。
半分でも、俺は共犯だ。ならば最後まで共犯でいよう。舞台の最後の鐘が鳴るまで、目を逸らさない。
ふいに、視線を感じた。
観客席の、そう高くない位置。暗がりに沈む青の影。
深い海の色を纏った女――スキュラが、腕を組んでこちらを見ている。遠くて、よく見える。彼女の目は、灯りに反射して鋭かった。
声はない。
けれど確かに、言葉より濃い意味が届く。
――お前に出来る唯一の贖罪は、彼女の舞台を見続けることだ。
俺は小さく頷いた。自分でも気づかないほど小さく。
彼女はそれに応えるわけでも、微笑むわけでもない。
いい。それでいい。俺が欲しいのは赦しじゃない。足枷だ。逃げられない、重い足枷。
白亜の妖精は舞い、戦い、息をしている。
俺は見る。
彼女の呼吸に、俺の呼吸を重ねる。
音が溶ける。
――俺はここにいる。最後まで。
決着の鐘が鳴った。
歓声が爆ぜ、紙片が舞う。
俺はその中で、深く息を吐いた。震えは残っている。けれど、逃げたいという衝動はどこかへ消えていた。
夜空の天幕に、薄い雲が流れていく。
港の方角から、潮の匂いが微かに届く。
月はまだ高い。
彼女が舞台の中央で息を整えるのが見えた。
――あの夜、港で彼女は言おうとした。
「月が綺麗だ」と。
俺は遮った。焦りの手で掴み、言葉を切った。
今度は、最後まで聞こう。彼女の言葉を。
椅子の縁から、手を離す。
指先が少しだけ自由になる。
俺は舞台を正面から見続けた。
それが、今の俺にできる唯一の贖罪なのだから。
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