花天月地【第102話 星を求めて】

七海ポルカ

第1話



「では徐庶じょしょ殿、伯言はくげん様をどうかよろしくお願い致します」



 司馬孚しばふが徐庶に深く頭を下げた。

「あ、いや。俺は全然……」

「伯言様は優秀な方ですが、多少辛くとも辛いと仰らない方なので……」

「あ、うん。それは何となく分かって来たよ。

 大丈夫、傷のこともあるし、よく見ておくから……」

江陵こうりょう行きが差し迫っているからといって、伯言様が焦って剣や馬の修練を無理に始められた時は……」

「大丈夫。ちゃんと止めるから」

叔達しゅくたつ殿……、あの……私はそんなに心配ばかり掛ける人間でしょうか……」

 

 徐庶と陸議りくぎは十人の護衛を伴って、洛陽らくように行くことになった。

 長安ちょうあんの都に辿り着き、郭嘉かくか司馬孚しばふはここで一度別れる。

 司馬孚は最終的には許都きょと司馬懿しばいの帰還を待つことになるので、数日長安で休みを取ってから改めて許都に向かって出発することにした。

 

 郭嘉は約一月をめどに長安で療養し、洛陽で徐庶と陸議と合流する予定である。


 司馬孚は長安でしばらく陸議の世話を出来ると思っていたので、突然陸議の側を離れることになり、心配していた。

 

「あ、いえ、そういう訳では無いのですが」


 あまりにも重ねて司馬孚が徐庶にお願いしているので、馬車の窓から心配そうに陸議が顔を覗かせる。慌てて司馬孚しばふが馬車の方に寄って来た。


「伯言様は、私よりもずっと優秀で強い方であると知っています。

 ただ、その今回だけは事情が事情なので……」


「大丈夫。私も江陵での自分の役目は、郭嘉殿の護衛と補佐であると理解しています。

 まずは療養を優先すると、貴方に約束しますから」


 陸議がそう言うとようやく司馬孚の表情が和らぎ、安堵したように彼は溜息をついた。


「分かりました。江陵こうりょうは予断を許さない場所ですから……どうぞお気を付けて。

 許都で、兄上と共に帰還を待っています。

 徐庶殿、あなたも。どうかお気を付けて」


「ありがとう」


 一礼して、司馬孚は郭嘉の乗っている馬車に向かって歩き出した。


 長安から出て来た馬車に乗り換えて、これから郭嘉の私邸に戻るのだ。

 司馬孚もそこで数日世話になることになっている。

 涼州から乗って来た馬車には引き続き陸議が乗り、連れて来た十人の護衛もそのまま洛陽まで同行する。


 郭嘉とは、長安に来るまでに話せるだけは話したので、「迎えに行くからそれまではゆっくりしてね」とすでに別れは済ませた。


 馬車の窓から郭嘉が顔を出し、陸議に微笑んで手を軽く振った。


 陸議と徐庶が揃って一礼し、向こうの馬車は程なく走り始めた。


「さて……じゃあ俺達も出発しようか」

 護衛が頷き、馬車より先んじて数騎、動き出した。


「あ……徐庶さん」


 自分の馬の手綱を取ろうとした徐庶に、陸議は声を掛ける。

「あの、どうか徐庶さんもこちらに乗ってください。広いですし……」

「いや俺は……」

 涼州からは郭嘉が一緒に乗っていたのだが、彼はいなくなってしまったので、ただ一人隊列の中で馬車に乗せられ、陸議は心許なくなってしまった。

 みんなが洛陽まで再び馬に乗っていくのに自分だけ馬車に乗せられて中で寝ているのはどうも落ち着かない。

「君の護衛も兼ねてるから」

 断られて、そうか確かに……と思ったのだが、ここから洛陽は比較的整った街道を行く。 交易路でもあるから、護衛は十人もいれば十分のはずだった。

 本来なら貴人を馬車に乗せて、自分はそういう人を守るために馬に乗り外で護衛する立場なのに、守られるというのは苦手だ。


「すみません……」

 いいんだろうか……と肩を竦めた陸議に、徐庶は笑う。


「陸議殿。貴方は今、重傷を負っているんですよ。馬に乗るのは無理だから馬車に乗っているんです。

 郭嘉殿にはくれぐれも貴方に無理をさせないようにと私も、彼らも命じられています。

 誰も変に思ったりしません。遠慮無く休んでください」


「はい……」


 これ以上ごちゃごちゃ言っても出発の迷惑になると思ったのか、陸議は何かを言うのを止めて、馬車の椅子に座り直した。

 俯きがちな横顔は、落ち込んで見える。

 徐庶は苦笑して、少し自分の髪をくしゃと混ぜた。

 あれでは馬車の中にいても一睡も出来なそうだ。


 側にいた護衛も同じことを思ったようだ。

 近づいて来る。


「徐庶殿、どうぞ馬車に移ってください。護衛の数は十分ですし、貴方も涼州ではご多忙だったのですから。これから江陵でお役目につくとあらば、今は休んでいただかねば」


「いや俺は勝手に多忙にしてただけで……」

 

 護衛が陸議の方を暗に目で示したようだ。

 意味は分かる。

 あれではあまり休めないだろうと言っているのだ。

 徐庶は小さく笑って頷いた。


「分かりました。すみませんが、こちらはよろしくお願いします」

「はい」


 徐庶は馬を護衛に預けると、馬車の方に乗り込んだ。

 陸議の対面の椅子に腰掛ける。

 明らかに、徐庶が乗り込んで来て、陸議はホッとしたようだ。

 馬車がすぐに動き出す。


「すみません、徐庶さん」


「ん?」

「落ち着きませんよね……無理に乗って頂いて……前に、屋根のある場所は落ち着かないと仰ってたの、思い出しました」

 徐庶が目を瞬かせてから、吹き出した。


「確かにね、馬車なんかあんまり乗ったことは無いけど。

 いいんだよ。君のおかげで道中も寝れるから、楽だ。

 ただ洛陽に行っても休養は十分取れるから、休んでばっかりでさすがに少しくらい剣でも振っておかないと郭嘉殿に迷惑を掛けそうだね」


「私も、それはすごく不安で……」


「君は怪我を治す方が先だ」


 徐庶が馬車が揺れた時、陸議の左腕が壁にぶつからないように、そっちの方に毛布を畳んで置いてくれた。


「す、すみません」


「慣れないと思うけど、君は何も悪くないんだから。ゆっくり身体を休めるんだ。

 怪我を承知でも江陵行きに君を指名した、郭嘉殿のためにもね」


 郭嘉のためにと言うと、生真面目そうな顔で陸議は頷いた。


「はい」


 毛布を敷いた椅子に慎重に寄りかかるようにして、寝る体勢を整える。


「徐庶さんも休んでくださいね」

「うん。眠くなったら寝るから大丈夫だよ。俺は本当にどこでもすぐ寝るし」

 言ってから、徐庶は椅子の肘掛けに頬杖をついて、首を傾げた。

「君は一人の方が、誰に気兼ねなく寝れるんじゃ無いかなと思ったんだけど……俺なんかがいて大丈夫? 今更なんだけど……」


 陸議がようやく、少し笑った。


「本当は一人の方が寝れるんですが、叔達しゅくたつ殿や徐庶さんは天水てんすい砦で一緒に寝ていたので、慣れてもう大丈夫になりました」


 目を瞬かせ、徐庶は暖炉の前で何度か共に転がって寝たのを思い出した。


「確かに、そうか。いや、俺が君の寝る邪魔じゃないならいいんだ」

「寝る邪魔ではないですけど……でも……本当に私などが徐庶さんのご実家に行ってご迷惑じゃないのかは……心配です……」

「いやそれは本当に気にしないでくれ。こっちももう母親と水入らずで嬉しいなんて思う歳じゃない」

「でも……徐庶さんのお家はその、色々事情が複雑で……この一月、母君もどうせならゆっくり徐庶さんと過ごせた方が嬉しく思われるのではないでしょうか……」


「いや、俺は逆に息が詰まって来てどうせ洛陽をフラフラし始めてしまうと思うから、君がいてくれてむしろ有り難いんだよ。

 暇を持て余し過ぎて母親に今までのことをあれこれ聞かれても上手く話せる自信が無い。君がいてくれたら江陵とか涼州とかの話も出来るし、間が持つよ。母親にとっても俺にとっても有り難い」


「そうでしょうか……」


「言っただろ。君が長安で療養するなら、俺も長安に留まったよ。

 母に会うことが目的で洛陽に行くんじゃないから、本当に気にしないで」


「分かりました。これ以上言ってもなんだか気を遣わせるだけになりそうなので、今回はよろしくお願いします」


「うん。こちらこそ。母親もそんなにお喋りな人と言うわけでもないけど、今まで一人暮らしだったからね。人の世話を焼けるのがどうも嬉しいらしくて、君が療養しに来たなんて聞いたら、喜んであれこれ世話を焼きそうなのがむしろ心配だ。

 いや、君がゆっくり出来ないような風にはさせないから心配しないで。

 自分の家みたいに寛いでくれたらそれでいいから」


「自分の家……」


 ふと、徐庶は陸議を見た。


「私はあまり、自分の家というものに縁が無くて……その、早くに養父の家に引き取られたものですから」


「そうか。そんなに子供の頃に引き取られたんだね」


「はい。あ、でもだから他人の家にお世話になるのは比較的慣れているんです。

 いえ、あの……お世話になるのが慣れているというのも変な言い方なのですが」


「はは……慣れてるなら話は早いよ」


 徐庶が笑ってくれた。

 本当に、他人が来て迷惑だという感じはしなかったので、陸議はホッとした。

 それに徐庶が今「君がいれば江陵や涼州の話が出来る」と言ってくれた。

 徐庶は魏軍の未来の展望を、あまり語ったことがない。

 そういうことが聞けるかどうかも定かではなかったので、江陵に行って、自然とそういう話をするようになるのかなと思っていたほどだ。


 だが徐庶が話すと言ってくれた。

 洛陽で、徐庶の考えを聞けるのだろうか。


(話してくれるのかな……?)


 徐庶は、出会った時のきっかけも理由だが、陸議の中でどうしても背景が龐統ほうとうに重なる部分がある。

 

 誰とも馴れ合わず、自分の考えを語ろうとしなかったあの男と。

 側にいても、龐統はいつもこちらを見ず別のどこかを見ていた。


 ……諸葛孔明しょかつこうめいを見ていたんだろうなと思う。


 最後の最後まで、呉にいる時は、陸議はあの男の興味を引くことが出来なかったから、何となく、徐庶に対しても自信が無かった。


 郭嘉なら共に江陵で過ごすうちに、徐庶が語るように仕向けることが出来ると思ったが、自分がそれを出来るとは思えなかった。


 しかし今、徐庶は「話す」と自分から言ってくれた。

 話せたらいい、という意味を含んでいたと思う。


 徐庶の最終的な望みは【水鏡荘すいきょうそう】に戻り、学問を究めることだと分かった。


 それまでの時間を無駄には費やさないと徐庶は言っていた。

 魏で無駄に費やすくらいならば、馬超ばちょう馬岱ばたいと、彼は涼州に行ったはずだった。



「……徐庶さん……」



 外の景色を眺めていた徐庶が、こちらを向く。


「私は、貴方の望みを知っています。

 いつか正式に職を辞して自由になり【水鏡荘すいきょうそう】に戻って学びの道に入る。

 その望みを知っていたから……馬岱ばたい殿たちと行った方がいいと思ったんです。

 蜀から【水鏡荘】に向かうのは、魏からそこへ向かうよりはずっと自由にそう出来ると思ったから。そうしたい時は」


「うん」


 徐庶が頷く。


「でも……貴方は天水てんすい砦に戻って来た。

 まだやることがあると仰っていました。

 あれは……。

 あれは魏の軍師としてやることや考えることがまだあると、そういう意味だと思ってもいいのでしょうか?」


 少し間が空いて、徐庶が口を開く。


「魏で――自分から何か位を欲することは、もう無いと思う」


 陸議は息を飲んだ。


「自分で何か地位が欲しいとは思わない。

 ただ命じられて与えられる使命がある。今はそれはたまたま軍師としての働きだし、江陵では護衛だと賈詡かく殿にも言われた。

 与えられた任務を全うして、職を辞するつもりだよ。

 だから任務は問わない。

 軍師として考えろと言われれば軍師として考えるし、

 護衛をしろと言われれば護衛をするよ。

 馬丁でも、火の番でも、街の見回りでも、店番をしろと言われたらする。


 国の大局には関わらなくても、仕事を真剣にやれば、どこかで何か感じることや考えることが生まれるものだと思う。


 今までの俺は、そういうものが自分の中に生まれて来ても考えないようにしてた。

 涼州遠征を命じられても何をすればいいのか、何を思えばいいのか、それが分からなかった。

 でももう、はぐらかすのはやめるよ。

 与えられた使命は果たす。

 どこに行けばいいのか分からないなんて言い訳をしなくても良くなったのは、君のおかげだ」


 ありがとう、と徐庶が笑いかけてくれた。

 陸議は思わず赤面した。


「いえ、私は別に、何も……特別なことは何もしていません……」


 対面で、徐庶が口許を隠して笑っていた。

 そういう返しは予期していたようだ。


「徐庶さんに江陵のことや涼州のことを聞くのは、酷なことかと……少し考えていました」


 目の前の青年は優秀だけど、誉められることや、感謝されることに何故か驚くほど慣れていない。

 

 ……それでも時々そういう少年のような心の奥で、

 徐庶ですら考えないほどの、深いことを考えていたりした。


「そうか……。ありがとう。

 でも君に涼州で言った通り、自分の意志で俺はここに戻ったんだから、君がそんなことを気にすることはないよ」


「洛陽に着いたら江陵や長江の地図を揃えて、話をしたりしても構いませんか?」


「勿論。すぐに揃えてもらうよ。

 司馬孚しばふ殿から【九条院くじょういん】の知り合いに紹介状を書いてもらったから、いい資料を貸して貰える。ツテがないから今までは外から眺めるしか出来なかったけど、九条院にこれで堂々と入れる」


 陸議がようやく、笑った。


「郭嘉殿はすでに相当江陵のことを調べているようだからね。まあ、あの人が本気になれば俺がどう足掻いても勝ち目はないんだろうけど、せめて何か聞かれた時に一からなんですかそれはなんて聞き返さなくてもいいくらいにはしておかないと」


「はい」


 洛陽ですべきことが決まり、陸議は安堵したようだ。


「少し眠ります。夜の方が、思索が捗るので」

「うん」


 陸議は目を閉じた。

 毛布に深く潜り込んで、彼は確かに、寝ようと心を決めれば眠れるようだ。


 彼の場合すべきことが定まったり、自分の中に確固たるものが出来れば心の不安が解消されるのかもしれない。

 

 確かに腕の傷の痛みは、重傷を負ってから出るようになった。

 しかし彼は腕を負傷する前から身体に剣傷があった。


 こういうことは今までに無かったと言っていたから、やはり初めて、隻腕になるかもしれないと思うほどの重傷を負った衝撃というよりも、初めてそうなったことで、今まで出来ていたことが急に出来なくなる不安、腕を使えない不安、そういうものから来ていたのかもしれなかった。


 陸伯言りくはくげんは先程の馬車に乗る云々の遣り取りといい、基本的に誰かの役に立ち、尽くしていないと、これでいいのだろうかと不安を覚えるようなのだ。


 彼はそこに座っていると優秀な文官のような顔をしているが、その魂は余程武官なのかもしれない。


 徐庶は、陸伯言の人となりというものは涼州遠征で随分見た気はしているが、武官としての彼の本質は、まだ見切れていない。

 確かに郭嘉が、司馬懿しばいの補佐から外れた状態の、彼個人をもっと見てみたいという興味はよく分かった。


(いや……)


 徐庶は思い出す。

 牢に入れられた自分の元に装備を調えて現れた姿や、

 強い意志で、徐庶の迷いを含んだ問いかけを拒絶するように返した横顔も。

 

 機を見て、見極めた時に行動を始めると、陸伯言は誰に制止されようと止まらない意志の強さを見せた。

 

 周囲の人間に迷惑が掛からないかと気にしている今とは、明らかに違う表情だったと思う。

 司馬仲達が評価しているのは恐らくあの顔の方だ。


 周囲を気遣い、控え目で、穏やかな人柄。

 そういうものが理由で彼は陸議を戦場に連れて来ていない。


 ――一つだけ、徐庶が気になることがあった。


 陸議の身体にあった剣傷のことだ。

 無数にあったが一番大きな背中の斜め傷は、比較的真新しかった。

 ごく最近ついたものだと表現していいはずである。

 他は古傷もあった気がする。

 養父は戦で死んだと言っていたのと、今まで従軍したことはないと言っていたことから、軍などに参戦する形ではなくとも、戦に関わったことがあるのかもしれない。

 

 乱世となった今では国に属さなくても、辺境の街や村は乱れた情勢の影響を受けることは珍しくない。


 黄巾こうきん党が跋扈ばっこした時代などは、官軍を襲撃する部隊と、まったく国とは無縁の罪のない街や村を略奪目的のために襲うような部隊もあった。


 どちらに遭遇するかは、民には選べないのだ。

 陸議はもしかしたらそういう襲撃には出会っている可能性がある。


(ただあの傷は最近のものだ)


 彼は司馬仲達しばちゅうたつの許で暮らしていたはずだが、徐庶は自分の経験から、かなり詳細にその傷がいつ付けられたものかを判断出来た。

 一瞬のことでさほどじっくり見たわけでは無いが、あれは陸議が司馬懿の許にいる間についた傷と見ていいはずだった。


 司馬懿しばいが彼のあの傷を、知っているかどうかは不明だ。


 陸議は戦えるので司馬懿がすでに何らかの任務を与えて、その途上で付いた傷とも思えるが、陸議は司馬懿に自分の失態を見せることを恐れていたので、体調不良を言い出せずに倒れた洛陽での出来事のように、傷を負っても隠した可能性はある。


 深く毛布に包まって眠っている陸議の表情を見ながらそこまで考えて、徐庶は視線を少し開いた窓の外へ逸らした。


 彼は過去に、自分と関わった多くの人間を不幸にしたことがあったので、ある時から人間と関わることを忌むようになった。

 他人に興味を持ったり関わったりするのを止め、一人大陸を彷徨っていたのだ。


 逃れるように涼州に向かい、そこで偶然、黄風雅こうふうがに会った。

 お互いの素性を特に探らなかったので、気楽に付き合えた。

 黄風雅――馬岱ばたいには、以前涼州を去る時、もう少し涼州に留まらないかと誘われた。

 もし留まっていたら、彼がやっている運び屋や護衛業のようなことを手伝っていたのだと思う。


 側にいたら馬岱は馬超ばちょうのことをいつか打ち明けただろうか。


 そうしたら自分はかつて劉備りゅうびの世話になったことを打ち明けて、つまらない意地はやめて共に成都せいとに行って会いたい人に会おうと、彼に言えただろうか。



(……言えなかっただろうな)



 冷静に考えれば馬岱の側にいたのは、彼が自分の過去の因縁と一切関わりが無いからだった。 

 馬岱が間接的にも自分の過去の事情に関わってると分かったら、自分は歩み寄る所か、また同じような過去を繰り返したくなくて逃げ出したように思う。


 陸伯言のように自分の過去の出来事を、人を守ることや導くことに使おうと思うほど、徐庶は前向きではなかったからだ。

 

 馬岱が劉備と通じる事情を持っているというだけで、本当はどんなにそこに行きたいと望んでいても、自分は誤魔化し逃げ出したはずだ。


 今、馬岱ばたいとこうして再び遠く離れることになった。

 だが、ちゃんと言葉を交わして別れた今回は、心はさほど遠く隔たってはない気がする。

 

 もう一度、徐庶は眠る陸議の方へ視線を向けた。

 馬岱や、自分の望みと向き合うように諭してくれた彼のおかげだと思う。


(心を向けて貰っているのに、こちらから無意味に心を遠ざけて逃げるなんて、愚かだ)


 涼州遠征で孤高を決め込んでも、何一つ自分は成し遂げられなかった。

 今、以前より心が穏やかなのは、陸伯言が涼州で色々助勢をしてくれたからなのだ。


 おかげであの地で死ぬことも無く、友を死なせることも無く、生きてこうして戻って、もう生きて会うことは無いかもしれないとさえ思っていた母親と再会しようとしている。


 そうなることを徐庶は、最初から願っていたわけではない。

 ある意味、全ては偶然だった。

 

 しかし自分に手を差し伸べてくれる人間の言葉や意図を、拒まない中で手にした偶然なのだ。


 魏に残っても以前のようにひたすら自分の望みと違う場所にいる、そういう気持ちが徐庶の中から消えていた。

 涼州遠征は死へ向かう旅だったが、

 江陵は何か違う気がするのだ。

 

 江陵での任務をきちんと終え、郭嘉の信頼をもし得ることが出来れば、正式に職を辞して、逃げる形ではなく魏を去れる。

水鏡荘すいきょうそう】に戻り、そこからは定期的に母親に文は書いて、何かあれば気兼ねなく戻って、会いに来てやることも出来る。


 自分の愚かさで一度失った安寧の生活というものを、もしかしたら得ることが出来るかもしれない。


 新しい人生を歩み始める気がする。


(こんな気持ちは初めてだ)


 かつてたった一人の母親を置いて故郷を飛び出した時、何か新しい人生が始まる気がした。

 だがあの時は子供で、無学で、何も分かっていなかった。

 無謀な道に自ら飛び込んで行っていたと思う。

 結果、安寧とは程遠い日々を過ごすことになった。

 今から考えれば果てしなく心は自由だったけれど、


(……何も分かっていなかった)


 今なら何かを大切に出来る。

 失うことの恐れを知っているし、過ちが何かも分かっている。


 涼州で別れる時、陸伯言を捨てて馬岱を選ぶことが、正しいのだと一瞬思った。

 

 しかし自分は選び直したのだ。

 自分を逃がして牢に入っていた陸議を見た時、戻って来て良かったと心底思った。


 全てを守りたいなんて傲慢にはなれないけど。



(君だけは守り抜きたいと思うよ)



 対面に眠る、陸議と同じように椅子に身体を折り曲げてもたれかかり、徐庶は横になった。


 しばらく彼の穏やかな寝顔を眺めながら、やがて徐庶も目を閉じた。




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