胎内転落

tanaka azusa

第1話

「砂漠!」と呼ばれて振り返る。何年も前に買ったDiorのハンドバッグから280mlのポカリが揺れる音がした。夏だ。夏生まれに砂漠なんて名前をつけた理由を知らない。

もう、若くない。気づけばもうすぐ私は31になる。美しさで勝負出来る年齢じゃないことを心得て、控えめなヒールを鳴らし表参道の坂道を降りながら喫煙所に佇む渚に笑む。渚は美しい。高身長にすらっとしたボディライン、主張は少ないが在るべき場所に綺麗に整った女性にも見える顔立ち。女性である私ですら羨ましい程に。渚はハイライトメンソールの箱をグチャッと薄いブルーのジーンズにしまい、骨張った手で私の腰に触れた。周りからチラチラと視線が刺さる。平日の昼間も東京は人で溢れ返っているのだ。私もまだ美しいのかもしれないと錯覚して、生まれつき淡い栗色の髪を指に絡ませてみる。渚とは8年ほどの付き合いだ。友人なのか、そうでないのかはわからない。外出の少ない私にとって、平日の昼間に会える数少ない存在が渚だった。その足で渚の家に行く。いつものことだ。

タクシーで1メータ程しかないところを日差しを気にしてゆっくりゆっくり人混みを掻き分けるように車体が動く。脱ぎやすいサテンのワンピースの丁度花柄の所をぎゅっと握り締め車窓へもたれる。

一方渚はシートベルトを律儀に締めて瞼を伏せる、するとビルのまにまに光が差して長いまつ毛の影が揺れていた。コポコポ…バックの中から聞こえるはずの水音が今度は後部座席のすくそばで鳴る。細い道を何回か曲がれば植物の綺麗に管理されたコンクリートのマンションに着く。「ここで」と渚が言いながら支払い、私の手を取り部屋へ行く。8年前より少しだけやつれて青白い私達はエレベーターの光によって更に青ざめている。

最上階の突き当たり、カードキーを当てドアノブに手をかけた瞬間突き飛ばされる。腰を強く打つ、渚は私のミュールを簡単に脱がす。震える体に懐かしい感覚を覚える。動悸、殺意、虚無。おとうさん、おかあさん。

目玉がひっくり返りそうな程睨むと蘇ってくる、アドレナリンが溢れて視界が滲む。

「砂漠…!」嬉しそうな顔をする渚が近寄ってきて、胸の辺りに顔を沈めてきた。さっきから水の音がうるさい、徐々にバスルームへ向かっているからか。


私達は、被虐児だった。


渚は母と関係を持ち、父親代わりとして生きてきた。母は様々な恋人を連れてきては殴られて、渚も腹違いの小さな妹も標的になったのだ。男と別れる度に渚に縋る。思春期頃から男と同じように母を殴るようになり、その時の母の恍惚とした表情に虫唾が走ると共に愛情を感じるようになったのだとまるで笑い話のようにヘラヘラと私に開示したのはもう何年も前だ。


私も私で、父と関係を持っていた。

それと同時に暴力と罵声を浴びせられ、毎日学校と家は戦場だった。正直に言うと行為の記憶が殆ど消えて思い出せないが、頭を殴られる時に鳴る破裂音や容赦ない蹴りで出来た複数のカラフルな痣は鮮明に覚えている。母は止めてくれたが謝ってきなさいと最後には諭し、私が額を床に擦り付けて謝罪するのがルーティンだった。

人は、意思とは別に体が震える。歯がカチカチと鳴る。そして終いには、父の顔の中身が真っ黒に映るようになった。これもまた、私は渚にカラッとした笑顔で淡々と開示した。

私達はまだあの頃のままなのだ。成仏出来ない怨霊のように、形さえ分からない愛に渇望し、壊れている。


バスルームまで引きずるように絡まり合って私達ははだけた服を掴み破き、首に手をかけ合っている。良い歳した大人が愛着を拗らせたままこんなザマなんて笑い者になるだろう。それどころか、同情の目で憐れみの表情で見下ろすだろうな。過剰なものでしか楽しめず、幸せなんてものを掴み切れず、水の中で啜り泣くしかないのだ。被害者だとは言わない、ただもう、ただ、どうしようもないのだ。既に用意されていた泡風呂が綺麗に張られているバスタブに髪を掴まれて沈められた。

薔薇の味がする、鼻に水が入って痛い。涙はきっと出ている。叫んだ、泣き叫んだが誰にも届かない。これだ、こんな感じ。こんな風だった…!お母さん!お父さん!助けてなんて言わないよ。救いなんてもの無いって分かってる。ザバァッ……ゲホゲホッと咳き込みながら私は渚を見る。渚は泣きそうな顔で抱きしめて「砂漠」と呼ぶ。渚をバスタブへ突き落とし沈める。透き通るような渚の金髪が濁りながら泡を吸い込み揺れた。1分くらいそのままにする。歯軋りをして奥二重の目を見開いている私の口角は上がっていた。そしてハッと正気に戻り、手を緩めるとゆっくり白く青ざめた陶器のような顔が無表情で浮かんでくる。キスをした。本当に触れたか分からないくらいの力ないキスだ。


小学生のプールの授業が終わった後、妙に体が温かく感じるあの感じ、私はまた迎車と記載するタクシーに乗る。行きに買ったポカリをハンドバッグから雑に出し飲み干した。嫌にぬるくさっきまでの薔薇の味の泡を飲んでいるようだ。コポコポ…コポコポ…ザザァ…泡を含んだ波の音が左耳を過ぎる。私は咄嗟に耳を抑えた。左耳に塞がるピアスの穴に異物感を感じる。幻聴…幻聴か。もう病院へ何ヶ月も行けていない、隔週のカウンセリングも、訪問看護も全て塞ぎ込んでインターホンの電源も切ったんだった。今年は12月まで仕事が山積みだから、仕方ない。19:00から打ち合わせがある、その前に仕上げておく資料もいくつかある。腰まで垂れた栗色の髪が私の痩せすぎた首へ張り付いている。乾かしきれなかったみたいだ。タクシーの運転手がチラチラとこちらを見ながら不安気な顔をしているのをバックミラーで確認したが無視をした。スマホの画面に渚から「またね」とLINEがきていた。きっとまた、ね。返信をせず、画面と瞼を閉じた。家までは20分くらいか。目を落とすと薄灰色のサテンのワンピースに血が滲み皺になっていて薔薇だ、と思った。


暫くうたた寝をした。車窓に目をやるとさっきまでの酷くむさ苦しい人の群れは減り、平和な住宅街へ戻っている。細い道へ入ったので「あの青い車のところで止めてください」と言い、支払いを現金で払い領収書をグシャッと金を孕む財布に突っ込んで降りた。若い頃とは違って急激に体力が減りくたくただった。部屋へ戻ると全身鏡の前でワンピースを落とし下着も脱いだ。痩せて胸元に骨が浮き出しているが腰には丸みのある脂肪がついていた。やけに白い皮膚は歪に水を弾いている。醜い。私は何者なのか一瞬脳がグラつくが、頭を振って正気を保つ。目を閉じると、かすかに胎動のようなものが、体の奥で揺れた。コポコポ…コポコポ…ザザァ…ザザァ…


あれから逃げるように仕事をしながら渚とは何回か会った。会う度にやつれて衰弱している渚を食事に誘ったり、部屋で映画を見たり花を生けたりしたが一向に良くはならなかった。骨と皮のような渚を見て消えてなくなるのではないかと不安になる。お願いだから、いなくならないで。ずっといて欲しいと祈った。神など居ないと分かりながら祈ってしまうのが人間の常だ。


会う頻度を増やしてみるも、渚は決まって部屋へ私の手を引いて、赤ん坊のように私にしがみつくばかりであった。仕事も手につかないようだった。その内もう暴力を振るわなくなり、弱々しく華奢な背中を震わせて、しゃくりあげながらバスタブへ落ちる。薔薇の香りはしなくなっていた。濁った羊水と化したバスタブの中は静かに冷えていた。まるで何かが、完全に止まってしまったように。体から鳴る水音の幻聴が激しくなる。泡立つ漣だ。人がこんなにあっけなく消滅するのをただ目を開いて直視することしか出来なかった。目を逸らしたら居なくなりそうだから。ある日、渚の髪は長く、黒く染まっていた。嫌な予感がして、「今日、泊まっていく」と掠れた声で言うとあまりに力の無い笑顔で返してきた。ああ、これはもう。これは駄目だ。深夜、星色に輝く渚の髪は想像以上に暗く今にも夜空へ溶けてしまいそうだ。不意に渚が「あの時、あいつを殴ったら母さんが笑ったの、ああいうの、見たことある?」と呟く。私は、わからない、けど畳に額を擦りつけたあの瞬間父は優しく微笑んで、母も何事もなかったかのようにした事を思い出した。「ある、かもね…」バルコニーにダチュラがある。


薄い白月が微かに残る早朝にレースカーテンが私の頬を撫でている。風が吹いている。窓を開けたのか。私がいるはずの渚に手を伸ばすと弛んだシーツだった。静かに血の気が引いた、窓を見る。裸足のままバルコニーに出ると昨夜飲んだスイートワインが少し残っていた。まだぬるい風が吹きつけてくる。栗色の細い髪が私に見せまいと顔にかかるが掻き分けて見下ろす。遠い遠いアスファルトに小さく白い影が転がっている。風にほどけるような焔がまだひらひらと揺れている。

「………。」呼吸を忘れてただ舞い落ちるように溶けていく渚の残骸を暫く見つめた。涙は後から一粒一粒落ちてくる。そんな気がしていた。

淡々とするべき連絡をし、カーディガンを羽織り地上へ降りる。こんな安らかで悲しい顔、見たことないよ…渚。眠る赤子のような表情。泣いたであろう目元は赤い。担架に積まれて運ばれる。ただそれを他人の私が見ていた。何かが壊れたのだ。ゴボゴボゴボ……と勢いよく頭の中に水が広がる音がする。うるさい。うるさい。


あれから何日、いや何ヶ月経ったか分からない。毎日何時間泣いただろう。数々の締切を遅れ、信用を失いつつある。かろうじて手は動くが意識は朦朧として酷い仕事ぶりだった。日常は無いと言っても等しい程、私の部屋は荒れて食事もろくに取らず毎日の記憶さえ曖昧だった。表情を崩さずに涙を垂れ流しながらテーブルや床には涙の跡が醜く蔓延る。渚のあの顔、渚のやつれて痩せ細った体。頭から離れない。幻覚や幻聴も激しくなっていた。まだ夏の気配が鳴り止まぬ中、ゆらゆら体を揺らし渚の家を訪れると、そこが空き家であると聞き、私は契約をした。そこから地獄だった。記憶が毎日のように飛んでいく、気付けば知らない男に抱かれ揺れている。精神が擦り切れる度にエスカレートしていた。「愛してる」「愛してる」「愛してる?」「あいしてる」愛って何?

名前も知らない男らの形が少しづつ変わるだけで視界は同じだった。渚と過ごした部屋の間取り、ベッド、家具の位置。タバコのヤニのついた天井。皮膚の中に蹲ってしまえば誰だって肉の塊だ。卑しい顔や筋肉、ごつごつした手、吐き気の催す不快さと安心が私を包んで数えきれない夜を跨いだ。もう何だっていい。時折、一瞬だけ渚に見えることがあった。その一瞬を私は掴もうとして、ざらついた砂のような皮膚が音もなく崩れていく。幻覚の閃光だけを頼りにしてヒールはよたつくような高さになった。私は着実に衰弱していった。

ああ。なんで、砂漠なんて名前をつけたの?

なんて気味の悪い、飢えた名前をつけたのかしら。教えて欲しい、何が正しかったのか。

何を間違えてしまったのか。

人生は堕ちていくだけの地獄なの?

お父さん、お母さん。渚。渚。

ザザァー…ザザァー…


名前の通り、私は何かに渇望をしていた。昔一緒に観た映画を一通り垂れ流し、まるで生きてる時と同じように日常を過ごすと渚がいるような気がした。縋るように渚や母の幻覚を見ては駆け寄って掴もうとしても波の打ち際で手の隙間から砂と一緒に溢れていった。人間の手を五つに裂いた神は残酷だ。


喉が異常に渇く。

いつの日か大量の水を飲んでは吐く日々だ。

水を飲んでいても、なんだかざらざらした砂に塗れた気分になるんだ。

海になりたかったのかもしれない。

2Lのペットボトルを何本もグビグビ飲み干し1/3くらいは唇から垂れ落ちて首筋を伝い、

服や床がべしょ濡れになっている。

すぐに吐き気が襲ってきて、

トイレの便器にしがみつく。

胃液と水が混ざっている。汚い。

息を切らして、震えながら袖で口を拭いとる。

こんな風でも仕事部屋に座っているのだから癖っていうのはやはりなかなか抜けないものだ。

人には随分会っていないがネットで注文した水が切れると度々家からすぐのコンビニに少し出向くようになった。

虚な目をした中年の店員に睨まれながら、水を大量に買う。そのうち家賃で貯金も底をつくだろう。それでもまだ満たされない。不穏なドア音と共に外に出ると雨だった。傘は無い。重い袋を担いでマンションへ戻る。

エレベータの鏡を見たら

驚く程やつれて老けていた。

あんなに執着した美とはかけ離れてしまったのだ。


濡れた体を流しに行く。

ああ、この服は渚が好きな服だから

汚したら駄目だったのに。

脱ぎやすい服をいつも着ていたのに。


渚の幻覚が鮮明に見えるのは、

いつもバスルームだった。

何度見ても慣れなくて本物かと思ってしまう。

幻聴も決まって、水音が頭の中を燦めく。


渚はあの日の白いパジャマのまま、

私の白い手に触れてくる。

ざらざらと濡れた砂のような手触り。私の皮膚もまた、同じようにざらついている。


崩れながら砂を落とす幻覚は、

バスタブへと向かう。

薔薇の香り。あの泡。

ほんのりと薄紅に染まる湯に沈むと、幻聴と現実の音が重なり合って心地良い。


安心した。涙が、出ていると思う。

濁った泡のなかで、また渚が私に触れてきた。私は思わず抱きしめる。


——それだけで、世界はもう充分だった。


幻覚がほろほろと崩れる最中、


「砂漠…!」と呼ばれて振り返る。


何年も前に買ったDiorのハンドバッグから、280mlのポカリが揺れる音がした。

夏だ。

夏生まれに“砂漠”なんて名前をつけた理由を、私は知らない。


知らないまま。

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