【ホラー】姉のエミリー

花田縹(ハナダ)

第1話



「翠ばっかりずるい!」


 リビングで遊ぶ姉の背中に向かって、妹の碧衣は癇癪をぶつけた。

 本人は癇癪のつもりなどない。正当な主張だ。

 夕方、姉の翠が買ってもらったばかりの人形セットの人形エミリーのお着替えをしている最中のことだった。

 エミリーのプラスチックの身体と髪はまだ新品の匂いがしている。

 

「翠ばっかり買ってもらってる!」


「今月は翠の誕生日だから買ってもらったんだよ? 碧衣だってゲームを買ってもらったでしょ?」


 見かねた母親が碧衣に真っ当なことを言う。碧衣だって誕生日にはプレゼントをちゃんともらっている。ずっと欲しいと言っていたゲームで、なんなら人形セットより高価だった。

 しかも、ひと月遊んだら飽きてしまって、今は全くやっていない。


「だって。翠はエミリーだけじゃなくて、着替えとか髪飾りとかまで買ってるよ」


「セットの中に入っていたものです。翠がわがまま言って足したものではないです」


 それは碧衣にもわかっていた。それでもエミリーで遊べないことにむしゃくしゃして、無意味でも意味不明でもいいから何か言い返したくて、無理やり絞り出しただけなのだから。


「ーーだって」


 もう碧衣はうつむくしかできない。その時、姉の翠は素早く立ち上がった。

 「だって」の声から碧衣が泣きそうになっていることを察したのだ。


「エミリー貸してあげる」


「えっ!」


 碧衣が振り返ると、翠は着替えたばかりのエミリーを差し出していた。髪はハーフアップに結われ、水色のワンピースを着ている。


「いいの?」


 碧衣はわかりやすく目を輝かせた。


「うん、いいよ」


 翠が笑顔で答えると、


「ありがとう!」


 碧衣は翠から奪うようにエミリーを抱き上げた。


「今から公園に持っていって遊んで良い?」


 なんのためらいもなく、前のめりになって姉に聞いた。


「いやだよ!」


 これには翠が悲鳴をあげる。


「えー! なんで?」


「だって汚れちゃうし」


「でも、わたし持ってきたい」


「碧衣!」


 母親が耐えきれず再び姉妹の間に入った。


「お人形を公園に持っていかないで! これは家の中で遊ぶおもちゃなの。しかも翠のでしょ?」


「なんでだめなの?」

 

 碧衣は隠す気もない不満を顔にそのままに、母親に食い下がる。


「なんで外で遊んじゃだめなの? 自由じゃないの?」


「碧衣。エミリーが見ているよ」


 だから何?

 そう思って碧衣は思いっきり顔をしかめる。


「お母さんはいつだって翠の味方なんだから」


 母親が深いため息を漏らした。


「翠のお人形だから、翠を困らせる碧衣を許さないかもしれない」


「なにそれ」


 碧衣は知っていた。これはまだ小さい碧衣を母親が怖がらせるための嘘だ。


(きっとそうだ)


 知ってはいるけれど、淡々と話す母の声が妙に冷たい。


「今夜、仕返しに来るかもしれないね」


 ひどく淡々と、冷酷に碧衣を見つめる母親は恐ろしかった。怒鳴られるほうがまだいい。

 碧衣は泣きそうになっていた。


「……行かない」


 しゃべると一緒に涙がこぼれてしまいそうだから、一言だけ呟いた。


「エミリーと一緒に寝る? 一晩借してあげるよ?」


 見かねた翠が言うけれど、意固地になった碧衣は突っぱねてしまった。

 

「いらない!」


 エミリーは仰向けに床に落ち、空虚な表情のまま天井を凝視している。翠もまた、それを無表情に見つめていた。

 



 碧衣は夜中に妙に揺れを感じて目を覚ました。

 起き上がりたいのに体が全く動かない。真っ暗で何も見えない。でも、ここが寝室ではないことは分かった。


(閉じ込められている?)


 狭くて袋の中に押し込められたみたいだ。


「ついたよ」


 見知った声がして、絞った巾着の封を解くように天井が開く。視線の先には翠の顔が見えた。

 翠は口元だけ少し笑んでいるように見えたけれど、妹の碧衣にはわかる。あれは、怒っているときの表情だ。

 恐ろしいのは翠の怒った顔ではない。その大きさだった。碧衣の家どころか、小学校の校舎よりも大きかった。


「エミリー、いきましょうね」


(エミリー?)


ーーなんでエミリーなんて呼ぶの?

ーー私は碧衣だよ?


 そう言ったつもりだけれど、声が出ない。それどころか顔が固められたみたいにピクリとも動こうとしない。

 そんな碧衣を翠の巨大な手が包みこみ、落ち上げる。

 碧衣はぎゅっと目を閉じようとしたのに、やはり瞼が動かない。


(これは夢?)


 きっと悪い夢。目が覚めれば終わる。早く覚めて。

 そう願いながら、巨大な手にされるがまま袋の中から取り出される。 

 ひんやりとした空気が肌を撫でていく。巨大な翠の背後に夜の空と見覚えのある滑り台が見える。ここは近所の公園らしい。


「エミリー、夜の公園だよ。ステキ」


 翠はニコニコしながら私を胴を掴み、


「一緒に遊びましょうね」


 翠は碧衣を胸に抱いたまま、誰もいない夜の公園を歩いた。

 翠が夜に一人で公園に来るなんてありえない。

 お母さんが許さない。

 碧衣は翠に抱かれ、ブランコに揺られながら、目だけで辺りを見回した。。

 街灯も消え、空には月も星も見えない。公園内は真っ暗なはずなのに、翠の顔も、ブランコのチェーンも、縁取られたようによく見えるのは何故なのだろう。

 その異様さが碧衣の不安を更に掻き立てる。

 ブランコに飽きたのか、ふいに翠はブランコから降り、真っ直ぐ砂場へと駆けていく。


「エミリー、お風呂に入ろうか」


 そういうと持っていた碧衣を乱暴に砂場に落とした。

 衝撃が全身に伝わる。痛みは感じないのに、激しい恐怖と悲しみに恐れ、大声で叫びたかった。でも、口が開かない。瞬きもできない。

 まるで、人形になったように。


「エミリー?」


 ふと、翠が碧衣を覗き込んだ。


「なんで不機嫌な顔をしているの? 私が嫌なの?」


 そう訊ねる翠は無表情だった。でも、碧衣にはわかる。静かな声と、眼の向こうに怒りが有る。


「わがままな子にはお仕置きをしないと」


 翠は砂場に素手で穴を掘ると、碧衣をそこにおいた。


「わがままは嫌い」


 両手で砂をすくい、碧衣にかけた。砂の中へと埋められていく。


「わがままといえば碧衣だね」


 翠の口元がわずかに微笑んだ。


「わがままな碧衣に天罰が下ればいい」 


 やめて!


 碧衣は翠に向かって声にならない声を放つ。もちろん、口は開かなかった。ただ異様な夜の公園に沈黙が広がるだけだ。しかし、翠の表情はゆっくりと険しくなっていったた。


「何、その目」


 小さな声に怒りが滲んでいる。


「その目嫌い。何でも欲しがる、いつでも助けてもらえると思っている。強欲な目」


 砂に埋もれかかった碧衣を見下ろし、翠はもう嫌悪を隠さない。


「私、いいもの持っているんだよ?」


 スカートのポケットを弄り、小学校の名札を取り出した。


「悪い目には穴を開けようね」


 何を言っているのか、すぐにはわからなかった。でも、翠が人形になった碧衣の頭を掴み、名札の安全ピンの針を向けた時、ようやく気づいた。


「涙が出やすいようにしようね」


 その針で、碧衣の目を刺す気なのだ。


 やめて!


 無表情のまま針を近づける翠に、声にならない思いなど届かない。

 恐怖を全身に溜めたまま、碧衣は意識を失っていた。

 



「碧衣」


 名前を呼ばれて目を覚ました。

子ども部屋の二段ベッドの上で寝ている碧衣を、下から呼んだのは翠だった。


「先に朝ごはん食べちゃうよ」


「すぐいく」


 碧衣は答える。そして、翠が部屋を出ていく足音に耳を澄ませながら、天井を見つめていた。目を閉じ、開き、もう一度目を閉じる。


(夢だった)


 心臓は恐怖でドクドクと音を立てている。頬は涙で濡れていた。

 怖い夢を見て泣いてしまった。

 ゆっくり起き上がり、頬を拭う。


(朝ごはん、食べに行かなきゃ)


 碧衣は二段ベッドの梯子に足をかけたとき、ザラリとした感触がした。

足の指には砂が挟まっている。今まで寝ていたはずなのに?

 それとも、昨夜の公園で、砂場に埋められたから?


「お母さん!」


 急いで母の元へと向かう。

 食卓には翠がすでに座っていて、出勤時間の早い父親はいなかった。

 翠の前にはエミリーが置かれていて、こちらをじっと見つめている。


「そんなに慌ててどうしたの?」


 母親が訝しげに碧衣をみている。


「怖い夢を見たの」


「そう。どんな夢?」


「ーー忘れた」


 思わず嘘を付く。


(翠に砂に埋められて目を針で刺されたなんて、言えない)


 碧衣は黙って翠の隣の、自分の席に着く。その時、エミリーが小首を傾げたように見えて、思わずエミリーを見つめた。プラスチックに描かれた目には、針で貫いたような穴があいていた。


「翠、ご飯の時はお人形はしまってきなさい」


「はーい」


 母親にたしなめられた翠がエミリーを手に取ったその時、碧衣は気づいた。碧衣の足の指と同じように、翠の手の指の間にも砂が挟まっている。


「また、遊ぼうね。エミリー」


 翠の瞳はエミリーではなく、碧衣を見つめていた。


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