第3話
そして夕方。空が茜色に染まる頃。先生がやってきて、二人の計画は始まった。
ママの体は抜けてしまった魂の分軽くなっているはずなのに、なぜかとても重かった。とてもじゃないけれど凪が抱えて立つことはできない。そこで先生の出番だ。
「よいしょっと」
そんな掛け声と共に、先生がママの遺体を背負いあげた。それを凪が後ろから両手で支える形だ。何度かバランスを取ったあと、上手い具合に安定したのを確認して二人はアパートを出た。昨日スマホのナビで調べておいた海に繋がる道を歩き出す。とは言っても先生は何度か道に迷ったように立ち止まったが、その度に土地勘のある凪が「右です」「真っ直ぐです」などと後ろからナビをした。
それ以外にも色々な話をした。
「……海野さんも、人魚なんですか?」
「いいえ、私は人間ですよ。ママは海から陸に上がってくるときにひれを捨てたんです。だから残念なことに私に遺伝はしませんでした」
「残念なんですか?」
「はい。私、ママのこと大好きなんです。愛してました。いいえ、今でも愛してる。でもパパのことは大っ嫌い。私が人間だってことはパパに似たってことでしょう。だから残念です」
「失礼ですが、海野さんのお父さんは……」
「ひどい人でした。だってママを殺してその肉を売ろうとしてたんですよ。先生は、八尾比丘尼の話は知ってますか?」
「はい。人魚の肉を食べて不老長寿になったという尼ですよね」
「そうです。人魚の肉を食べたら本当に不老長寿になるのか、私は知りません。でもそれを信じて大金を出す人は世界にたくさんいるんです。ママは肉も、骨も、灰ですら、高い値がつく。それが嫌だから海に還してほしいと言っていたんです。海に沈めば泡となって世界から消えることができるから、還してほしいと願っていました」
凪にそう言ったママの言葉には続きがあるのだけれど、それは先生に言うことではないなと思ったので心の中に留めておいた。
ママの瞳を思い出す。
──凪、あなたなら、私の遺体を少し食べてもいいわよ。肉でも、骨でも、灰ですら。
ママにそう言われたとき、凪は別に不老長寿になりたいとは思わなかったので「いらない」と答えた。そんな凪に、ママは楽しそうに笑っただけだった。
今でもその思いは変わらない。凪はパパと同じ人間で、でもパパとは違うので、ママのことを食べようとは思わない。けれども、世界で凪だけが特別なのだと言ったそのママの言葉は何よりも強く輝く愛の言葉だと思ったので、凪はその言葉を心の中に大切にしまっていた。
アパートから海までは歩けば十分ほどで着く道のりだったが、ママの遺体を背負っているので二倍ほどの時間がかかってようやく堤防に到着した。太陽はちょうど水平線の向こう側に沈もうとしているところで、海面を光の道が照らす。風はなく、波は穏やかで、二人の頭上では海鳥がぐるぐると回って鳴いていた。空は夕焼けの茜色と夜の藍色がグラデーションになっていて、それがとても美しい。この二十分ですっかり汗をかいていた先生は、海の涼しさに大きく深呼吸をした。
先生は器用にママの遺体を自分の体の後ろから前へと移動させ、腕の中でそっと横たえた。いわゆるお姫様抱っこだ。
ここから先は凪の出番である。
凪は自分の肩ほどまでの高さがある堤防に両手をつき、よいしょ、と勢いをつけてその上に乗った。そうすると先生よりもずいぶんと目線が高くなる。しゃがめばちょうど目が合うくらい。なので、凪はしゃがむと、両手を広げて、先生からママの遺体を受け取った。先生がやっていたのと同じ、お姫様抱っこだ。魂の抜けたママの体はずっしりと重く、そのまま立ち上がろうとすると何度かバランスを崩しそうになる。その度に凪が堤防から落ちないかとハラハラ見守っていた先生が悲鳴をあげるが、意地でも手を離しはしなかった。
背筋をピンと伸ばして、水平線の向こう側を見つめる。太陽が作り出した真っ直ぐな光の道を通って、強い風が正面から背後へビュウンと吹いた。凪とママの髪が弄ばれ、バサバサと広がる。まるで海が凪を歓迎しているかのようだった。──いや、正確にはママをだろう。母なる海が、人魚を迎え入れているのだ。
いつもより高い位置から見る海は、果てしなく広かった。
ここは、パパとママの出会いの場所だ。そして、凪とママの別れの場所になる。
「ばいばい、ママ」
凪は、腕の中のその冷たく硬い皮膚に口付けを一つ落とした。
そして、まるで指揮者のように、愛する者を抱擁するように、バッと勢いよく両手を広げた。すると自由になったママの遺体は重力に従って海の中へと落ちる。どぼんという音と共に高く飛沫が上がった。ママの遺体がどんどんと海底へ沈み、凪から遠ざかっていくのが見える。揺らぐ水面によって、凪とママは遠く隔てられた。陸で生きる凪と、海に還るママ。
風が吹く。
波が立つ。
光が照らす。
空が、海が、太陽が、ママにおかえりなさいと言っている。
ママの遺体は浮かび上がっては来なかった。沈んだまま、やがてつま先からゆっくりと、泡になって消えていく。それはまるで魔法のようだった。泡はぽこぽこと海面に浮き上がり、打ち寄せた波に当たって弾け、海と混ざり合って消えていく。
凪は海に還っていくママをずうっと堤防の上から見つめていた。その光景を目に焼き付けようと、瞬き一つせず。それなのに溢れる涙のせいで視界が揺らぐので、必死に服の袖でごしごしと涙を拭う。
凪の背後に立つ先生もまた、堤防から身を乗り出すようにしてその現実離れした美しい葬式を見守っていた。
やがて最後の泡が波に飲まれて弾けて消えると、風はやみ、波も穏やかになって、海は元の静けさを取り戻す。それを待っていたかのように太陽は海の向こうへと沈み、空は夜の闇に包まれ、星が瞬く。月の光に照らされて、凪は大きく息を吐いた。そして背後の先生を振り返る。
先生は泣いていた。涙を拭うのに邪魔なのか眼鏡を取り、ハンカチで涙を拭っている。凪に遠慮しているのか、唇を噛んで嗚咽を必死で噛み殺していた。
ああ、良い人だなあと凪は思う。優しい人だ。
ママの葬式を一緒に見守ってくれる人が、この人でよかった。
凪の視線に気づいた先生が顔を上げる。目が合った。お互いに、目の下が真っ赤になっていた。
「先生、ここまで手伝ってくださってありがとうございました」
堤防の上でしゃがみ込んで、先生と目線の高さを合わせる。そして頭を下げた。こんな体勢、本当は失礼だろうけれど、もう少しここにいたかったので。
「もう帰ってくださって大丈夫です」
そんな凪の言葉に、先生は心配そうに眉を下げる。
「でも、海野さんは?」
「私はもう少しここにいます」
「じゃあ先生もここにいます」
「一人で大丈夫ですよ」
「いいえ、もうすっかり辺りは暗いのに、一人にするわけには」
「一人にしてくださいって言ってるんです!」
押し問答の末、叫ぶようにして凪はそう言った。その語気は思いの外強いものになってしまって、凪は自分で発したくせに慌てたように何度も瞬きをする。
「……そうですよね」
一方で、先生はすごすごと引き下がった。生徒のことは心配だが、こういうとき一人になりたい気持ちもわかる。他人の目から見ても、凪はママのことをとても愛していた。家族はどうやらママだけだったようだし、それを喪った痛みはいかほどばかりか。
「すみません、帰ります」
そんな先生に凪は無言で一つ頷いて、海へと向き直った。その背中に心配そうな視線を向けつつも、先生は凪の意見を尊重すると決めたので、堤防沿いに駅へと向かって歩き出す。遠ざかっていく足音に、凪はちらりと視線を向けた。
「先生!」
くるりと振り返った先生に、凪は手を振る。
「さようなら!」
「はい。さようなら」
先生も手を振り返すと、また凪に背中を向けて歩みを進めていく。
やがてその背中が見えなくなると、凪は──勢いよく地を蹴り、海に飛び込んだ。
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