いつか泡になる日まで
祈
第1話
ピンポーン、と無機質な音が頭に響いて、凪は目を覚ました。
体が重い。冷たいフローリングの上に横たわったまま、手足はピクリとも動かさず、重い瞼だけを動かしてゆっくりと瞬きをする。部屋に電気はついていない。薄暗い部屋の天井を見つめながらぼんやりとしていると、もう一度ピンポーン、と音が鳴った。ゆっくりと覚醒していく頭が、それが家のインターフォンが鳴っている音だと告げる。誰かが訪ねてきたのだろう。
もう一度、ゆっくりと瞬きをして、しかし凪はそこを動こうとはしなかった。動けなかったともいう。そんな気力がなかった。凪は、もう一週間はこんな調子だった。
ピンポーン。三度目のインターフォンが鳴る。
しつこいな。頭は動かさず、のろのろと視線だけを玄関の方に向ける。
「海野さん、いらっしゃいますか?」
ドアの向こうから聞こえてきたのは、聞き覚えのある低く落ち着いた声。凪の担任教師である藤井先生だった。凪は予想外の来客に目を丸くする。
そういえば、今は一体いつなんだろう。
凪は十六歳の女子高校生であった。友人はそれほど多くはないがいたし、美術部に入っていて、毎日楽しく高校に通っていた。けれども、それはもう遥か昔のことのように思える。
先生はきっと、高校に来なくなった凪のことを心配して、訪ねてきてくれたのだろう。藤井先生はそういう先生だった。生徒想いで、一人一人にきちんと向き合ってくれる。彼に悩み相談をしている生徒だって多い。凪だって、藤井先生のことは好きだった。
「インターフォンを押しても反応がなくて……」「もしかしたら中で倒れてるのかも」「もう一週間は姿を見てない」
ドアの向こうで、藤井先生と誰かが会話をしているのが聞こえてきた。よくよく聞いてみれば大家さんの声だ。大家さんは今年で八十歳になるおばあさんで、凪が住む二〇三号室の下に住んでいる。どうやら藤井先生は高校に来ない凪のことを心配し、大家さんは最近見かけない住人のことを心配して、二人で話し合ってこの家の鍵を開けようと決めたようだった。
「海野さん、開けますよ? いいですか?」
ガチャリと、鍵が鍵穴に差し込まれる音がする。次いで鍵が開けられる音。薄暗い部屋の中、ドアノブがゆっくりと下に降りていくのを、凪はただ見つめていた。
ドアが開く。すると光が真っ直ぐに床の上に横たわる凪の元に降ってきて、凪はあまりの眩しさに目を細めた。開かれたドアの向こうに人が立っているが、逆光で影になっていて顔は見えない。けれどもドアの向こうから聞こえてきた声でその影の主が藤井先生と大家さんであるとわかっていたので、相変わらず凪はぴくりともしなかった。
そんな彼女の姿に驚いたのは藤井先生だ。眼鏡の奥の瞳を大きく見開き、靴を脱ぐのも忘れて彼女に駆け寄ると、「大丈夫ですか」と聞いた。凪は大丈夫だと答えようとしたが乾いた喉ではうまく話せず、言葉は音にならずただ空気となって吐き出された。そこで初めて、凪は自分の喉が渇いていることを自覚した。
「み、ず……」
掠れ、引き攣るように絞り出されたその声は、今度はきちんと音に乗って藤井先生の耳まで届いた。先生は慌ててカバンから水が入ったペットボトルを取り出す。それを凪に手渡すが、彼女はそれをうまく掴むことができずペットボトルは床に転がった。これではダメだと判断した先生はすぐにペットボトルを拾うと、キャップを外し、凪の口元に近づける。凪は口の中に流れこむ水をただ受け入れ、頑張って何度か飲み込んだ。すると喉はすっかり潤い、幾度か咳をしたあと、声が出るようになった。手足にも力が入ってきて、凪は先生に支えられながらのろのろと体を起こす。水は偉大だった。
「海野さん、大丈夫ですか」
「大丈夫です……ありがとうございます」
「どこか痛いところは」
「どこも。ずっと、ここで寝ていただけなので」
そんな凪の言葉に、先生はひとまず安心したように息を吐いた。その様子をずっと玄関で見守っていた大家さんも、大丈夫だと判断したのか去っていく。一階下の自室に帰るのだろう。
先生は立ち上がると、すぐ後ろにあった窓のカーテンを開いた。そちらに視線を向けると、窓の向こう、空が茜色に染まっている。凪は最後に空を見たのがいつだったかは忘れたが、記憶の中では、最後に見た空は大荒れの嵐だった。あれから何度空の色は変わったのだろう。凪がどれほど絶望していても、時間は変わらずに流れてゆくのだ。
凪がぼんやりと空を見つめていると、先生はその横にしゃがみ込んだ。
「先生、私に会いにきたんですか?」
「はい。もう二週間も無断欠席が続いていたので」
二週間。凪はぱちくりと目を瞬かせた。
「そんなに休んでましたか。すみません」
「二週間、どうしてたんですか?」
「どう……」
思い出そうとするが、うまく思考がまとまらない。
最近はいつもそうだ。起きている間はずっと頭にモヤがかかったようにぼうっとしていて、たまに突然瞳から涙が溢れたりして、そうしていたら気を失うように眠りについて、お腹が空いたら適当にご飯を食べて。心がどこか遠くにいってしまったようにふわふわしていて、いつだって夢の中みたいで、どこか現実味がなかった。
答えられない凪に、先生は質問を変える。
「何かあったんですか?」
藤井先生の中で、海野凪は優等生だった。無遅刻無欠席。間違っても二週間も無断欠席をするようなタイプではない。けれども優等生こそ心の中に何かを抱えているものだということも、先生は知っていた。だから、彼女に何か悩みがあるのなら相談に乗れないかと思い、勤めて優しい声で彼女に寄り添おうとする。そんな性格だから藤井先生は生徒にとても慕われていて、凪だってそのうちの一人だったから、少し迷った後に真実を告げることにした。
「ママが死にました」
「えっ」
眼鏡の奥、見開かれた瞳が戸惑いに揺れる。
「いつのことですか?」
「いつだっけ……。もう遥か遠い昔のことのような気がするし、つい昨日のことのような気もする。ママ、昔からずっと体調が悪くて寝込んでたんですけど、最近はとうとう返事もしてくれなくなって。そのままゆっくりと息を引き取りました。ごめんなさい、ずうっと学校休んじゃって。でもママのそばにいたかったんです」
凪の言葉を黙って聞いていた先生は、やがてゆっくりと「ご愁傷様です」と言った。その声は少し震えていて、本当にママの死を悼んでくれていることがわかったので、ああやっぱり優しい人だな、凪は改めて先生のことが好きになった。
「ママが死んでから、ずっと悲しくて、何もやる気が起きなくて……ずうっとここにいました。まるで私も死んだみたい」
そう言いながら、凪の瞳から涙がこぼれ落ちた。けれども凪はそれを当たり前のようにして拭おうともしない。あまりにも涙を流すということに慣れ切っているとそうなるのだ。その横顔があまりにも痛ましくて、先生はハンカチを取り出すと凪の代わりに彼女の頬を流れる涙を拭いた。何度も涙を流した頬はカピカピに乾いていて、ハンカチが引っかかった。
「辛かったでしょう。僕に何か手伝えることはありますか?」
「手伝えること……」
特にないです、と凪は断ろうとして、ふとママの遺言を思い出した。ずうっとモヤのかかっていた思考が先生との会話によって段々と晴れていったことで、大切なことを思い出したのだ。そうだ、凪にはこれから、大仕事が控えているんじゃないか。
「あります」
そう言った凪に、先生は身を乗り出した。この可哀想な生徒のためになんでもしてやりたかったのだ。
「なんですか?」
「先生、ママを海に還すのを手伝ってください」
先生は反射的に「もちろん」と頷いた後、「え?」と理解できないことを聞いたような驚いた顔をした。
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