灯の断章 〜ココと記録の塔〜
ショパン
第1話 プロローグ ウィズの夜
ある小さな村。家々の軒先にはランタンが吊るされ、白く暖かな灯が夜をやわらかく染めている。
道端には屋台が並び、羊肉を焼く匂いと麦酒の泡立つ音が漂っていた。
笛や太鼓が鳴り響き、人々は歌い、踊り、笑い合う。
今夜はこのウィズ村の、年に一度の豊穣祭。
村人たちはそれぞれの願いをランタンの灯に託し、実りと安寧を祈る。
子どもたちは駆け回り、ランタンの下で影を揺らしながら歓声をあげていた。
出店の椅子に腰を掛け、背の高い長髪の黒髪の男が祭の光景を眺める。
「長旅だったが、ようやく一息つけた。祭りに参加できて良かった」
その隣に、大人しそうな黒髪の少年が座っていた。
古びた書物を胸に抱きしめ、目を細めている。
「この書がなければ、今年の灯は間に合わなかったでしょうね……」
男は微笑み、少年の肩に軽く手を置いた。
「お前の努力があってこそだ。灯はただ明かりを与えるだけじゃない。人々の命であり、希望そのものなのだ」
そう言って、男は麦酒の入った木杯を差し出した。
少年はそれを受け取ると、しばし杯をじっと見つめ、ためらうように息を呑んだ。
次の瞬間、一気に口へと運ぶ。
途端に顔をしかめ、ぶふっと吹き出し、咳き込んだ。
男はその姿を見て肩を揺らし笑い、
「すまんすまん。お前にはまだ早かったようだ。酒は毒にも薬にもなるが、誤った飲み方をすれば、身を滅ぼすぞ」
「そ、そうですね……。それはそうと師匠、奥さんと娘さんは?」
少年は木杯を机に置き、怪訝そうに眉をひそめながら問いかけた。
「ああ、アリアは友達と一緒に花火の打ち上げを観に行くそうだ。マリアンはそのお守りだな。半年ぶりに帰ってきたというのに、父親よりも花火だと」
二人は顔を見合わせ、声を立てて笑った。
祭囃子に混じって響くその笑い声は、ランタンの灯に照らされ、ひときわ温かく揺れていた。
「いくぞー!」
村の男たちが声を張り上げ、大筒に火を灯す。
轟音と共に火花が暗闇を裂き、天を駆け上がった。
黄金色の光が夜を満たし、雲の下で瞬きながら散る。
火花は空に咲く花のように、ひととき煌めき、地上の人々の顔を柔らかく照らす。
「わぁぁ……!」
子どもたちは歓声をあげ、目を輝かせて見上げる。
その光は温かく、しかしどこか儚く、祭りの夜を黄金色に染め上げた。
――その輝きが消えた時だった。
……キィィィィィィィィィ――
耳をつんざくような甲高い唸りが夜空に残り、子どもたちが反射的に耳を押さえた。
「な、なに……これ……!」
「きゃぁぁ……耳が……!」
花火の余韻が強すぎたのかと思うほど、不快な響きが頭蓋の奥まで突き抜けてくる。
「お母さん……!! お母さん……!!」
少女は泣き叫ぶ。
「大丈夫よ。ただの耳鳴り……花火の音が残ってるだけだから……!」
母親は少女を強く抱きしめる。
誰もが花火のせいだと思った。だが、その音は次第に強まり、ただの残響とは明らかに違う震えを帯びていく。
――ィィィィィィィィィン……!
その瞬間、村のランタンが一斉に脈打った。
白々しいほどの光を放ち、灯火は膨張するように明滅する。
「灯が……変だ……!」
「なんでこんなに眩しく……!」
柔らかなはずの光は狂気めいて震え、村を白々しい光で塗りつぶす。
――そして。
その異常な脈動は唐突に止み、灯は何事もなかったかのように静かに揺らめいた。
白い残光が消え、再び柔らかい光に戻る。
「……おさまった……?」
安堵にも似たざわめきが広がる。
だが、あまりに静かすぎた。
村を包んでいた残響も異常な光も掻き消えた。
笛も太鼓も止み、笑い声も途絶える。
虫の羽音すら消え、世界が一瞬で静寂に沈んだ。
次の瞬間――冷たい風が草むらを撫でた。
「ひっ……!」
誰かが叫ぶ。
「灯が……消えた!」
振り返れば、軒先のランタンのひとつが闇に沈んでいた。
まるで何者かに喰い尽くされたかのように。
草むらがざわめき、最初は獣が通っただけのように見えた。
だが、その闇は次第に膨らみ、揺らめき、輪郭を得ていく。
子どもが母親にしがみつき、誰かが後ずさる。
音もなく、ただ黒い影だけがそこに立っていた。
次の瞬間、村は悲鳴に塗り替えられる。
影は人々に飛びかかり、その爪は肉を引き裂き、その牙は肩や腕を噛み砕く。
「いやだぁぁッ!」
「助けてくれッ!」
「ママ――!」
引き摺られる者、悲鳴と共に地に倒れる者。血を吐きながら崩れ落ちる者。
呻き声はすぐ絶叫へと変わり、やがて喉を裂かれ途切れていった。
「やめろッ、離せッ、うわああああッ!」
地面に叩きつけられた男の腕が影に食いちぎられ、骨ごと鈍い音を立てて飛び散る。
幼子を抱いた女が泣き叫ぶも、背後から覆いかぶさった影に押し倒され、次の瞬間、赤い飛沫が暗闇に弧を描いた。
人々が逃げ惑う中、誰かが取り落とした松明が地面に転がり、乾いた藁に燃え移る。
炎は瞬く間に火種から広がり、屋根や壁を舐めながら家々を呑み込んでいった。
「火だ! 火が回ってるぞッ!」
「逃げろ、逃げろォ――!」
つい先ほどまでの笑い声は、どす黒い咆哮にかき消された。
少年は必死に剣を振るい、迫る影に立ち向かう。
背の高い男は、ただ一心に村の奥へ駆け抜けていった。
そして――たどり着いた村はずれの小高い丘。花火を打ち上げていた広場。
そこに燃え盛る炎。
黒焦げになった大人と子供たちの無惨な骸。
小さな指が母の裾を掴んだまま焼け落ち、骨と灰とが一塊になって転がっている。
焦げた肉の臭いが鼻を突き、甘ったるく、吐き気を誘う。
男はその場に膝をつき、震える手を炎の向こうへ伸ばす。
「マリアン……、アリア……」
声はかすれ、嗚咽に呑まれた。
だが炎の奥には、もはや彼の呼びかけに応じる者などいない。
遅れて少年が駆けつけ、息を呑む。
その手から古びた書物が滑り落ち、土に沈む音だけが夜を支配してした。
――
夜明け前の群青の空。
草原が風に吹かれ、かすかに揺れていた。
やがて光は射し込み、星々は消え、空は橙から金へと移ろい、花咲く草原は鮮やかに輝きを取り戻す。
世界の中心には塔が立ち、昼の青空には白い雲が流れ、鳥の声が響き渡る。
時が経ち、塔を中心に、空には黒い雲がじわりと広がり始める。
やがて空は呑まれ、草花はしおれ、草原は荒野へと姿を変えた。
雲間から差し込む最後の光が絶えたとき、
ただ塔だけが浮かび上がり、世界は闇に包まれた。
青白い光を、不気味に脈立たせながら――
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