臭う女【前編】

 においが昔の記憶と繋がることがある。

 これは、嗅覚による刺激が感情や本能を司る大脳辺縁系に伝達されるからだ。

 ある匂いを嗅いで思い出が甦る。

 俺の場合は住宅地にある家などから、調理中のカレーの匂いがした時に小学生の頃を思い出すのだ。

 あれは俺が小学校の三年生くらいの頃だ。

 日の暮れ始めた公園で友達と別れて帰宅の道すがら、どこかの家から漂うカレーの匂いが鼻孔を掠めた。

 それに反応するように俺の腹が鳴り、自然と足早に自宅へと向かう……そんな場面がありありと脳裏に甦るのだ。

 これをプルースト効果と言うそうだ。

 この現象の名前の由来は、フランスの作家、マルセル・プルーストの著書『失われた時を求めて』からきている。

 マドレーヌを紅茶に浸した際の匂いから幼少の記憶を思い出す一節があり、そこから名づけられたらしい。

 カレーもマドレーヌも郷愁的な気持ちになる良い匂いが記憶を呼び覚ますというパターンだ。

 反対に嫌な臭いが忘れていた記憶を呼び覚ますこともある。



 あれは大学を卒業し、教師として中学校に赴任したばかりのことだ。

 俺が担当する教科は国語で、二年生のクラスの副担任も任されていた。

 教師になりたてで教壇に立つ前はいつも緊張していたし、新調したスーツもまだ馴染まずに、スーツに着られているような感じがあった。

 覚えることも多く、気が抜けない日々だった。

 そんなある日のこと。放課後の職員室で書類作業をしていた時に電話が鳴った。

 電話の応対は新人の仕事でもあったので、俺はすぐさま受話器を取った。

南雲なぐも先生はいらっしゃいますか?』

 こちらが名乗る前に言われ、俺は少しぎょっとした。

 相手はか細い声の女性で、保護者からだろうか? と思った。

 南雲先生は二年生の学年主任をしており、今日は午後から校外研修があって学校にはいなかった。

 そのことを伝えると、相手の女性は深く溜息をついた。

 もしやクレームの類いだろうか? そんな考えが過って、ボールペンを握る手に力が入った。

「どういったご用件ですか。わたしでよろしければお伺いしますが……」

 受話器越しにあちらの空気が緩んだのが分かった。

『いいんですかあ!? あなた、お名前は?』

 彼女の声が甲高く弾み、俺はその勢いに少し気圧されつつ返す。

見神みかみと申します。南雲先生には私からお伝えします」

『ああ、良かった! うちの……君のことなんですけどね――』

 彼女は息子が部屋からあまり出てこないこと、今日はきちんと昼食を食べたことなどを捲し立てるように話し始めた。

 こちらが発言する隙も与えずに一方的に言葉を継ぐ様子に、なにやら妙だと違和感をおぼえつつも「はい」「はい」と相槌を打った。

 どうやら不登校になっている生徒のようで、次第に話題が母親である彼女自身のことになりはじめ、いよいよおかしさを感じはじめる。

「じつは、いつも行くスーパーの店長が、わたしに色目を使うから困っているのよー、それでね……」

 彼女が一方的に話し続け、ゆうに三十分が経とうとしていた。

 困惑する俺の様子に、体育担当で指導教員でもある茂木もぎ先生が隣にきて「大丈夫?」と小さく声を掛けてくれる。

 彼女の話に生返事をしながら俺はメモ帳に『南雲先生あての電話で、不登校の生徒の保護者です』と走り書きして彼に見せる。

 すると彼は「ああ」と口の中で呟き、電話を変わってとジェスチャーで伝えてきた。

 地獄で仏とはまさにこのことで、俺は切れ間のない彼女の話を遮った。

「も、申し訳ありません。他の者に変わります」

 受話器を手にした茂木先生は間髪いれずに「南雲は外出してまして、電話があったことは伝えておきますから!」と少し強い口調で言う。

 電話越しに、彼女が何やら言っているのが分かったが、茂木先生は「ああ、はい。分かりました。それでは」と電話を切ってしまった。

「あ、あの……ありがとうございました」

 恐縮して頭を下げる。すると、茂木先生は軽く俺の肩に手を置いた。

「気にしないで。大変だったね、見神先生」

「その……話を打ち切ってしまって、クレームになりませんか?」

 茂木先生は日に焼けた顔に人懐こい笑みを浮かべて肩を竦めた。

「あの人はちょっと職員の間でも有名だからさ、平気平気。また電話が来たら、俺や他の先生に回しちゃっていいから」

 彼の言葉から察するに、どうも職員の間で周知されている保護者ようだ。

 いわゆるモンスターペアレントというやつかもしれない。

 生徒より保護者との関係が時に厄介である……そんな話を聞いていた。このことかと一気に疲労が全身を駆け巡った。

 思わず深い溜息をつきながら、俺は椅子の背もたれに体重を掛けた。



 数日後。

 テストの採点のため残業をして学校を出るのが遅くなった俺は、重い体を引きずるようい自宅近くのコンビニに立ち寄った。

 明日は祝日で学校が休みのため、疲労感はあるが気持ちは幾分か軽かった。

 買い物かごに弁当やビールの缶を放り込み、陳列棚にならぶつまみを選んでいた時だった。

「見神先生!」

 背後から「先生」と声を掛けられて、俺はぎくりとした。振り向くと、そこには中年の女性がいた。

 中肉中背で、どこにでもいそうな顔だち。伸ばしっぱなしという感じの少しパサついた黒髪は背中に届きそうなくらい長い。

 皺のよったブラウスに小紋のような花柄のロングスカートという恰好で、化粧っ気のない顔は少し血色が悪く、不健康な印象を与えた。

 担任している学年の保護者ではないはずだが……誰だろう。

「先日はどうもぉ!」

 彼女がにこにこして言い、その甲高い声に「あっ」と思った。

 数日前にとった長電話の保護者であった。

「あ、どうも。こんばんは」

 軽く会釈すると、彼女は嬉しそうに「こんなところで会えるなんて」と笑った。

 このコンビニは学区からかなり離れたところにある。確かに彼女の言うとおりこんなところで保護者と鉢合わせるとは思わなかった。

 少し気まずさを噛みしめるも、それをごまかして笑みを浮かべる。

「見神先生、もしかしてこの近くに住んでいるの?」

 一人暮らしをしているアパートの近所だったが、それを知られるのは避けたかった。

「いえ……」

 曖昧に返すと、彼女は気にした様子もなく俺が持っていた買い物かごを覗きこむようにする。

 彼女が擦り寄るように近づいたのと同時に、妙な匂いが鼻孔を掠めた。

 饐えたような……それでいて人工的な香料も感じさせる奇妙な匂いだった。

 反射的に後退りしそうになったが、なんとかそれを堪える。

 彼女は「くひゅー」と咽喉の奥から空気の抜けるような妙な笑い声を漏らして、上目遣いに俺を見た。

「駄目じゃない、コンビニ弁当なんて栄養が偏っちゃうわよ」

 ――俺の母親じゃあるまいし、余計なお世話だ。

 思わず出かかった言葉を飲み込む。

 ぼってりとした奥二重の目を三日月の形に細める彼女の様子に悪寒が走った。

 ふわりとまた腐ったような匂いがして、俺は「すみません。急いでいるので、失礼します」と足早にレジへと向かった。

 手早く会計を済ませ、彼女とまた顔を合わせるのは嫌だったので、そのまま逃げるように店の外へと出た。

 半ば駆け足でコンビニから少し離れ、後ろを振り返る。

 街灯が寂しく照らす夜道には誰もおらず、俺は安堵の溜息をついてアパートへと向かった。

 スーツを脱いでシングルベッドに身を投げるように寝転がった俺は、さきほどのことを考えていた。

 一息つくと、次第に彼女に悪いことをしたな……と思いはじめた。

 さきほどの匂いだって、ああいう体臭なのかもしれない。

 彼女の体質かもしれないし、ストレスや病気が原因で匂いがすることもあるらしい。

 妙な馴れ馴れしさも、保護者として教員に愛想よく話しかけただけだとしたら……さきほどの俺のふるまいはかなり無礼だったのではないか?

 ふと、ローテーブルに置いたままのコンビニの袋が目に入った。

 ――駄目じゃない、コンビニ弁当なんて栄養が偏っちゃうわよ。

 あの言葉だって、深い意味はなかったはず……

 考えれば考えるほど、彼女に対して申し訳なく思えてくる。

 学校にクレームの電話が来るかもしれないな……

 その前に学年主任に報告したほうがいいかもしれない。

 虚脱感を覚えながら、俺はのろのろと体を起こして弁当などが入った袋に手を伸ばし、缶ビールを取り出す。

 少しぬるくなってしまったビールを流し込むように飲み、体のなかに溜まった疲労を吐き出すように大きく溜息をついた。


〔つづく〕

 

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