見捨てられた壁掃除の俺、最強の築城師として成り上がる

有賀冬馬

第1話

俺の名前はカイ。この街、ヴァルム城塞に仕える壁掃除だ。


「おい、カイ!いつまでグズグズしてる!隊長がいらっしゃってるんだぞ!」


背後から飛んできたのは、いつもの通り、先輩の兵士の怒声だ。

俺は手にしたボロ布でごしごしと城壁の苔をこすりながら、ちらりと肩越しに振り返る。


「すみません。もうすぐ終わるから……」


先輩は俺に対してだけ、いつもイライラしている。

今も、俺に向かって怒号を飛ばしたにも関わらず、先輩はすでに俺を見てもいなかった。

俺の言葉は、いつだって最後まで聞いてもらえない。いや、聞く気がないのだろう。


先輩の視線の先には、俺ではなく、俺の恋人であるミリアの姿がある。

彼はミリアに向かって、にっこりと笑いかけ、まるで俺の存在など最初からなかったかのように、手招きをして見せる。


ミリアは、俺を見てはっとした顔をしたけれど、すぐにいつもの冷たい表情に戻ってしまった。


「カイ、ごめんね。でも、衛兵隊長からお呼び出しなの。あなたじゃ、だめなのよ」


ミリアの声は、俺の心に刺さるトゲのように鋭かった。


俺は、もう何も言えなかった。ただ、うつむき、手にしたボロ布を強く握りしめた。


ミリアの白い肌と、衛兵隊長の豪奢な馬車が、俺の目の前を通り過ぎていく。その足音と蹄の音が、やけに大きく響いた。


「おい、まだ終わらないのか。お前、ほんとに能無しだな」


「そう言うなよ。あいつは壁掃除しか能がないんだから」


嘲笑う兵士たちの声が、俺の背中を叩く。俺は、ただ黙って、城壁のひび割れた部分を見つめていた。何年も、何年も、この城壁を掃除し、その石一つひとつの表情を見てきた。だから俺は知っている。このひび割れが、どれほど危険なものか。この城壁の弱点がどこにあるのか。


でも、そんなことを言ったところで、誰も信じない。俺はただの、下働きなのだから。


その夜、ミリアからの手紙が届いた。それは別れの手紙だった。


『カイ。ごめんなさい。私、あなたと一緒じゃ、いつまでたっても見窄らしいまま。衛兵隊長様が、私を大切にしてくれるって。もう、会わないで』


たったそれだけの、短い文面だった。俺は、その手紙を何度も読み返した。信じられなかった。


だって、俺たちは、幼い頃からずっと一緒だったじゃないか。


俺が、この城塞の壁掃除になった時も、ミリアは笑って「大丈夫だよ。きっと、いつか素敵なことが起きるから」って言ってくれたのに。


信じたくなくて、何度も手紙を読んだ。でも、文字は変わらない。俺は、その手紙を胸に、夜の街をさまよった。行き場がなかった。


そして、その翌日、俺は城塞を解雇された。


「衛兵隊長の命令だ。お前のような能無しの壁掃除に、この城塞の重要な仕事は任せられない」


そう告げたのは、衛兵隊長にへつらう、あの先輩兵士だった。俺は、何も言えなかった。理不尽だった。


だって、俺は、誰よりもこの城壁のことを知っている。苔やカビ、ひび割れ一つひとつを、まるで自分の体のように感じ取ることができる。それなのに、だ。


「さっさと出ていけ!」


乱暴に背中を押され、俺は城塞の門から放り出された。


ぼろぼろになった服に、わずかな銅貨。俺は、何もかもを失った。住んでいた部屋も、仕事も、そして、ミリアも。


城門をくぐり、街の外に出た。夕暮れの空が、俺の心を映すかのように、どんよりと曇っていた。


俺は、一体何だったんだろう。


壁掃除。ただそれだけの存在。誰にも認められず、誰にも必要とされない。


ミリアが言った「見窄らしい」という言葉が、頭の中で何度も反響する。


その通りだ。俺は、見窄らしい。才能もなく、力もなく、ただ、地べたを這いずり回るだけの男だ。


俺は、石畳に座り込み、膝を抱えた。涙が、頬を伝う。


「どうして……」


震える声でつぶやいた。でも、答えは返ってこない。


俺の人生は、ここで終わるのかもしれない。


そんなことを考えていると、遠くから何かの足音が聞こえてきた。俺は、顔を上げ、警戒する。盗賊か、野獣か。どちらにせよ、今の俺には、抗う力などない。


そこに現れたのは、一人の女性だった。

彼女は、ボロボロの鎧を身につけ、顔には傷跡があり、腰に長い剣を下げていた。


「おい、そこで何してるんだ。こんなところで寝ていると危ないだろうが」


彼女の声は、低く、少しハスキーだった。俺は、驚いて、何も言えなかった。


「……別に、いいんです」


か細い声で、そう答えるのが精いっぱいだった。彼女は、俺の言葉を聞いて、少し眉をひそめた。


「どうした。何かあったのか」


彼女の問いかけに、俺は、思わず、これまでのことをすべて話してしまった。ミリアのこと、解雇されたこと、そして、自分の無力さについて。


彼女は、黙って俺の話を聞いていた。


「ふん……そうか」


話し終えた俺に、彼女は、ただ一言、そう言った。


「あんた、壁掃除だったんだってな」


彼女の言葉に、俺はうなずいた。


「そうだよ。ただの壁掃除だ。誰にも認められない、なんでもない仕事」


「……ふーん」


彼女は、俺の言葉に興味を示したように、俺の顔をじっと見つめた。


「あんたは、この城塞の壁を、どれくらい知っている?」


「え……?」


意外な質問に、俺は戸惑った。


「ひび割れ一つ、石の欠け一つ、風化した場所一つ。全部わかるか?」


俺は、思わず、息をのんだ。


「……わかる。この城塞は、俺の体みたいなものだ。どこにひび割れがあって、どこが弱いのか。全部、わかる」


俺の言葉に、彼女は、にやりと笑った。


「ほう。それは、面白い」


彼女は、俺の前にしゃがみ込み、俺の顔をのぞき込むように言った。


「その力、あたしに貸してくれないか」


彼女の言葉に、俺は、ただただ、呆然としていた。

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