エキゾチシズムの海で
中村ともあき
エキゾチシズムの海で
彼は揺蕩っていた。
膝を丸め、胎児のように。
夢と現実との輪郭が曖昧な海の中で、彼は揺蕩っていた。
胎児よ
胎児よ
何故躍る
『ドグラ・マグラ』
少年が目を醒ますと、そこは森だった。
森?少年は首を傾げた。
森と言うべきか、ジャングルと言うべきか。南国風な植物に囲まれて、少年は眠っていたようだった。
なぜここに至ることになったのか、少年はわからなかった。少年は困り果てて、ぼんやりと上を仰いだ。
背の高い木の向こう側に空が見える。青くて、高くて、雲は一つもなかった。
どこかへ行かなければ、という焦燥感に従ってなんとなく歩いていると、木々の向こう側に何やら建物が見えてきた。慌てて駆け寄る。
少年を待ち受け、そこに鎮座していたのは、立派な木造建築の平屋のようだった。
変哲のない、昔ながらの、ただの家。
それなのに、少年は魅入られたように、つい立ち尽くしてしまった。
「おや。ここには誰もいないと思っていたのだけれど」
ふと気が付くと、車椅子に腰を掛けた青年が、その立派な屋敷の縁側からこちらを眺めていた。
少年より幾らか年上であろう青年は、見定めるような視線で少年を見つめている。数秒、お互いに見合って、その後、青年の表情は一瞬変わった、ように見えた。
青年は何かを言いかけて、飲み込むように口を閉じた。それから、もう一度口を開いた。
「…どうやって来たの」
少年は静かに首を振った。少年は、何も覚えていなかった。自分の名前さえ。
小首を傾げた青年が、わからないの、そう、と呟いた。
「今からお茶をしようと思ったのだけど。来るかい」
少年は知らぬ間に頷いていた。知らない人について行ってはいけないよと昔々に親に言い含められたはずなのに、そんな理性は少年の頭から消えて去っていた。
手招きされるままに縁側に上がろうとして、少し躊躇した。今の今まで気が付かなかったが、少年は裸足だった。
その戸惑いに気付いてか、青年がポケットから布を取り出した。
「足を貸して」
自分でやる、と言う暇は与えられなかった。一瞬躊躇って、促されて右足を上げると、車椅子から身を乗り出した青年の手が優しく少年の足を拭う。
足の裏から指の間まで丁寧に砂土を拭き取って、今度は左足。それから、青年は布をまた懐にしまい直した。
「さ、おいで」
初対面の謎の男に足を拭かれるなんて嫌なはずなのに、なぜか不快感はなかった。
ひんやりとした縁側に上がる。
青年が襖を開けると、そこはまるで世界が変わったような部屋だった。
英国趣味の家具。壁紙からテーブル、ソファはもちろん暖炉まである。
違う世界に来てしまった気がして、少年は思わず振り向いた。
やはりそこには縁側があって、日本家屋、木造建築などの言葉が頭に浮かぶ。
そしてその奥には鬱蒼と茂った緑。
おれは今どこにいるんだ?日本か?イギリスか?アマゾンのジャングルなのか?
少年の戸惑いなど気にしない様子で、青年はにこりと笑う。
「少し座っていて。準備してくるから」
少年を椅子に腰掛けさせ、青年は部屋を出て行ってしまった。
なんなんだ、この家は。少年は怯えすら感じていた。
南国風の庭に、和風な外観、英国風な内観…。
これからの「お茶会」では一体何が出てくるのだろう。
唯一ふつうなのは、青年だけだった。
猫っ毛を少し伸ばした青年の佇まいは、いたってふつうに見えた。ごく自然に街を歩いていそうな、…いや、服装も、言い回しも、気を付けてみればやや古風だろうか。
しかしそんなことは気にもならないくらい、この家は異質だった。
「ごめんね、お待たせ」
少し経って、再び現れた青年は手際よくテーブルの上の準備を始めた。
豪奢な装飾のコップを青年の前に置き、そこにこれまた煌びやかなティーポットでお茶を注いだ。
何のお茶だろう、紅茶かな、と少年の頭の片隅の、冷静な部分が呟いた。
「お腹空いたでしょ。お菓子、どれが食べたい?」
取り分けてあげるね、なんて、こちらを甘やかすような青年の声音と、英国にいるような食器や家具に囲まれていると、不思議な気分になってくる。こんな変な家、来たことはもちろん、見たことすらないのに、懐かしいような。
それでいて、少し恐ろしいような。
ノスタルジック、というのだろうか。
どこか心地良い違和感の中で、少年は夢を見ているようだった。
昔、テレビで流れていた、2000年代のロックンロールを聴いているような気分になってくる。
少年にとって、少年がまだ生まれていない頃の音楽を聴くことは、居心地の良い羊水の中に浸っていることとほとんど同じだった。
「そこの小瓶、取ってくれるかな」
思考の波に捕らわれていた少年はその声にはっとした。
青年が指差した、桃色の硝子の小瓶をその骨張った青白い手に渡す。
その小瓶は何かの調味料が入っていたのか、青年は甘ったるそうなお菓子の上で軽く小瓶を振った。
「ありがとう」
青年がにこりと口角を上げる。
先程は気が付かなかったが、青年の右目の下には泣きぼくろがあった。
きれいな人だな、と少年は思った。
恐る恐るお菓子を口に入れて、お茶を飲んで。そうして少年の口から食べ物が消えるのを見計らって、帰るところがないのならと青年は言った。
「帰るところがないのなら、ここに好きなだけいなさい。」
いつまででも、となんでもないように囁いた青年の横顔はなぜか少しだけ寂しそうだった。
はいともいいえとも言えなくて、少年は俯いて自分のジーンズの膝小僧を眺めた。
やがて自分のお茶を飲み切った青年はおいで、と少年に声を掛け、青年は車椅子の車輪を回した。
まるっきり英国風かと思われたリビングの奥には、襖が口を開けて二人を待ち構えていた。
「寝るときはここを使って。布団はそこに入っているからね」
こっちの部屋は和風なんだ、と少年は心の中でぼんやり呟いた。
青年が出ていって、手持ち無沙汰になり、ひとまず布団を敷いた。動作は体が覚えていたので、もしかしたら、元々布団で寝ていたのかもしれない。
布団を敷き終えると少年は、布団の上に仰向けに寝転がった。
それにしても変な造りの家だなあ。
少年は天井を仰ぎながら、そう声に出してみた。
初めは、和室を洋風に仕立てているのかと思った。しかし、よくよく壁や床、柱を見てみるとそういうわけではないらしい。
先程の部屋は、そもそもの建物の作りからヨーロッパ建築のようなイメージを受けた。こちらの部屋はもちろん柱や梁まで日本建築のものである。
こんな、家の中で建築様式を分けるなんて、可能なのだろうか。
少し頭を働かせてから、少年は考えることをやめた。少年は別に建築の専門家ではない。
わからないのだから、考えても仕方がない。
少年はこのような端的な考え方をする男であった。
そうして家のことを考えるのをやめると、今度は少年が元いた場所について気になってきた。
少年は男で、たぶん、日本人。それ以外は何も思い出せないけれど、何か大切なものを置いてきてしまった気がして、心が落ち着かない。
その大切なものが少年の記憶喪失の原因であるように思えて仕方なかった。あるいは、この状況を打破する手がかりなのか。
ぐるぐると考えを巡らせていると、少年は、いつの間にか眠りについていた。
夢を見た。
淡い光の中で、誰かが早くおいでよと少年の名前を呼んでいる。
ねえ、まって、おいていかないで。
少年は叫びながら走っている。
誰かを追いかけて、大丈夫だよ、行かないよって頭を撫でられて。
そこではっと目が覚めた。
先にはあの天井。ああ、夢じゃなかったんだ。
がっかりしたような、少しほっとしたような。
少年の目元は涙で濡れていた。
泣いてはいるけど、嫌な気分ではないなと少年は思った。
二日目の朝、少年は探検に出かけた。
出かけたとは言えど、庭をぐるっと見て回っただけだ。
青年に一声かけようとしたが、見つからなかったので、庭だけなら怒られることもあるまいと、縁側に下りた。
靴なんてないので、もちろん裸足だ。
土がひんやりとして心地よい。
来た時とは逆に、森の奥へ奥へ進む。
考えれば考えるほどここは不思議だった。生えているのはどう見ても熱帯風の植物なのに、熱帯特有の暑さと湿気はなかった。
むしろ、日本の秋のような肌寒さすら覚えた。
ここは地理的にはどこなのだろう。
頭の中の地理の教科書と照らし合わせながらああでもないこうでもないと考えながら歩いていて、突然少年は驚き、慌てて後退った。
少年のすぐ目の前には灰色の塀があった。高い塀だった。少年の身長の二倍ほどあるだろうか。滑らかな石でできており、足を引っ掛けて登ることは無理そうだ。つるりとした手触りとその形状はどう見ても人工のものである。
家の裏側にまで回って塀沿いを一周してみたが、入口らしきものは見つからなかった。
この家は何なのだろう。閉じ込められているのか?あの青年は外に出ないのか?それとも、別に出入り口があるのか?
ぞっと背筋が震えた。
違和感が、ようやく実体として、恐怖として少年の真後ろに立った。
少年は焦燥感に襲われて、突き動かされるように、足が棒になるまで森を歩いた。
結局のところ、出入り口はなかった。この高い囲いからは出る術がない。少なくとも、今の少年には。
そうして一つ、有意義ともいえる発見があった。
この森には、生き物がいない。
動物どころか、森であれば必ずいるはずの虫も、何もない。この森は生きている気配がしなかった。
疲れと恐怖とで、背中が汗で冷えている。
それでも闇雲に歩いて、あの木造建築が目に入ったとき、不覚にもほっとしてしまった。
よろよろと覚束ない足元で縁側に腰掛けると、後ろから声が降ってきた。
「おかえり。どこへ行っていたの?」
「あ…っと、ちょっと、散歩に…」
青年から逃げようとしているみたいで、少し後ろめたい気持ちになり、はぐらかしてしまった。
青年はふうん、と特段気にする様子もなく、少年の汚れた足を見て、またポケットから布を取り出した。
「拭いてあげる」
「…いいです。自分でできる」
青年が手に持っていた布切れを、半ば奪うように受け取って足を包んだ。
そう、と青年は少し悲しそうに言った。
この青年はなんでこんなに世話を焼きたがるんだろう。男の足だぞ。
少年が足を拭くのを見届けて、青年は襖を開いた。
「おいで。夕飯にしよう」
夢を見た。
昨日の夢より少し目線が高くなった少年が、背の高い誰かと手を繋いでいた。
白いLEDが眩しい。
ショッピングモールの一角だろうか、おもちゃ屋のようなところで、並んで地球儀を見ていて、その誰かが欲しいねって笑って。
少年は地球儀に興味はなかったのだけど、誰かが笑っているのが嬉しくて、うん、ほしいねって答えて。
そうして、その誰かを見上げようとしたら、目の前がぼんやりと歪んで。
青い地球儀が茶色い天井のしみへと変わった。ここに来てから、ずいぶん夢見が悪い。
この誰かの夢は、嫌な気分にもならないが、なんだか切なくて悲しくて、いい気分のする夢ではない。
一度起き上がった少年は、そのまま枕に突っ伏した。
三日目の朝、少年は家の中へ目を向けた。
青年は食事時にだけ、姿を現す。少年をやたらと甘やかして構う割に、少年から声を掛けようとすると見つからない。
普段はどこに引きこもっているのか。
青年と向かい合わせで、フォークの先で謎の食べ物を突っつく。
この日替わりの民族料理には、いつまで経っても慣れる気がしない。
「…あの」
「うん?」
少年が声をかけると、謎の草を咥えていた青年は少し嬉しそうに顔を上げた。
「家の中、見て回ってもいいですか」
「ああ、構わないよ。ずっとリビングにいるのは退屈だよね。…嬉しいね、きみから話しかけてくれたのは初めてだ」
心底嬉しそうに、青年は笑った。
朝食を食べ終えて、青年がどこかへ消えて、少年の探検は再び幕を開けた。
部屋数はたくさんあるものの、外から見た時と変わらず、建物は一階建てのようだった。これなら見て回るのに大した時間は要しないだろう。
まず、リビングから廊下に出て、一番近くにあった、暗い赤の扉を開けた。
ここは、中国の部屋、だろうか。
部屋の隅には紙が張られた玩具のようなものが置いてあった。あれはなんだろう。
他にも、福の字の赤い掛け軸や、椅子にはチャイナ服だろうか、これまた赤い民族衣装がかかっていた。
あの青年が着るのかな。着ているところを想像して、ふふっと吹き出してしまった。
赤を基調としたその部屋は、中華料理風の美味しそうな匂いで満たされていて、少年のお腹は小さく音を立てた。
あの青年は、いつかこの匂いの料理も出してくれるのかな。民族料理と言えど、この味なら、違和感なく食せそうなものだけれど。
次の白い扉を開ける。
こっちは…ロシアかな。
部屋の棚には緑色のマトリョーシカが飾ってあった。きちんと背の順に並べられている。
机の上の写真スタンドには、豪華絢爛な白と青の宮殿のポストカードが入っていた。
棚のマトリョーシカの、一番背の低いやつを指先で弄ぶ。これも青年の趣味なのだろうか。
その部屋は、何故かうっすらと肌寒くて、少年は思わず腕を摩った。
ここは…イタリア?
どこかで見たことのある、有名な絵画が壁に飾ってある。
机の上にはピサの斜塔のミニチュアがあって、その横には、…なんて言ったっけ、ベネチアの…ベネチアンマスク?よくテレビで見かける、紫色の仮面が置いてあった。
窓から柔らかな日差しが差し込んでいるせいか、先のロシアの部屋と打って変わって、ほんのりと暖かかった。
次の部屋は…アメリカだ。
アメリカと言ってもずいぶんウエスタンな雰囲気の部屋で、天井にはオレンジ色の照明が、壁には鹿の頭の剥製が飾られている。
部屋の隅には、やや小柄なバイクが置いてあった。その鉛の輝きは少年にはとても魅力的に見えた。
しかし、青年は乗れるのだろうか。車椅子に乗っているのだから、足が不自由なのかと思っていたのだが。コレクションだろうか。
その薄暗い部屋からは、どことなく煙草の匂いがした。
それからもう数個開けて、廊下の一番端の扉を開けようとして、手を止める。そのドアノブの形には、見覚えがあった。
以前もこうしてこの扉を開けたことがあるような気がする。
開けなければ、と思った。
そうして、開けたらそこには、きっと、
「待って」
息を飲む。
固まった首を無理やり横に向ける。
そこには青年がいた。
気が付かなかった
気配も、車椅子の音も、もちろん足音もしなかった。
「そこはだめ。言い忘れててごめんね」
にこりと笑みを浮かべ、
「開けないでね」
青年の有無を言わせぬ笑顔に気圧され、思わず頷く。
「いい子。…ねえ、色々見れた?おもしろかったでしょ。ぼくの宝物なんだ」
もう、青年のことが怖くて仕方なくて、少年は何も言わず、逃げるようにリビングへ戻った。
青年はついて来なかった。
リビングまで戻ってきてもまだ青年が横にいるような気がして、何も意味はなかったけれど、縁側から飛び降りた。
何故だか少し、自由になれた気がした。
少年は裸足のまま庭を一周歩いて、少し迷って、汚れた足のまま縁側へ上がった。
少年の、ちょっとした反抗だった。
夢を見た。
車内のようだ。後部座席に座った少年の視界は低い位置にあって、窓の外はほとんど見えない。
少年の右側には高校生くらいの男の子が座っていて、すやすやと寝ていた。
一昨日の夢で少年が追いかけていた、昨日の夢で一緒にショッピングモールにいた、あの誰かだ。
なんとなく、というか、勝手に、少年の手が男の子の頬に伸びた。
ふっくらした幼子の手だ。その手が、あどけなさを残す男の子の頬に触れた。
瞬間、
「こら、お兄ちゃん寝てるんだから、邪魔しないの」
あ、と思った。母だ。顔もよく覚えていないけど、不思議と、母だという直感があった。
では、この男の子は、あるいは夢の誰かは、兄なのか。
「はあい」
声変わり前の舌っ足らずなその声は、少年の意に反して口から溢れ出た。
覚醒を自覚した瞬間、少年はもう少し夢に浸っていたくなって、再び瞼を下ろした。
もう夢は見なかった。
四日目の朝、少年は諦めた。
英国風のリビングの床に行儀悪く寝転がり、天井の照明を見つめる。
少年は、元いた場所に帰ることを諦めていた。
突破口も見つからない現状で、これ以上何をしろと言うのか。
ならば、もう、諦めて怠惰に日々を過ごすほうが、楽なのではないか。
帰る気がないわけではないが、正直、そこまで情熱的で、積極的であったわけでもないのだ。
青年は、異常なほど少年に至れり尽くせりだし、居心地も悪くない。
色々な国風の部屋もあるし、しばらくは飽きそうにない。
食事は、まあ、いずれ慣れるだろう。
元の場所のことを覚えているわけでもないので、少年には未練なんか微塵もないのだ。
というより、面倒くさくなってきてしまった、というのが少年の本音だった。
歩き回っていると、いや、歩き回ってなくても、寝転がっているだけでも、生ぬるい倦怠感が身体中に纏わりついてくる。
どろどろとした沼に浸かっているようだった。
足が重いなあ。
少年の中で、昨日、いや、一昨日だったか、有意義と思えた発見は、もう価値を失ってしまっていた。
ここがおかしいことなんて初めからわかっていた。
虫どころか自然の音がないのだ。
森の中にいれば、何かしら音が聞こえてくるものだ、と思う。
木々の葉が擦れる音とか、かりかりとどこからか聞こえる謎の音とか。
それだけではない。風も吹かなければ、もちろん雨も降らない。
それでもなぜか太陽は昇って沈む。
森どころか、この世界は生きていないのかもしれない。
長考の末、少年はそう結論づけた。
それから気だるげにはあ、と大きなため息をついた。
考えることすら面倒くさい。
脳内に甘い靄がかかっているみたいだ。
ゆっくり目を閉じて、次に目を開けたとき、青年が真上から少年の顔を覗き込んでいた。
あの、人の良さそうな笑顔で。
「…ここは、どこなの」
「ぼくの家だよ」
「…そうじゃないよ…」
顔色一つ変えない青年の態度が悔しくて、目の奥がじんと熱くなって、目の前が歪んだ。
「ああ…泣かないで」
目が蕩けそうになって、喉が引き攣る。
苦しくて、うう、と喉の奥から必死に声を絞り出した。
青年がおろおろとハンカチを取り出し、少年の、熱を持った目元を拭う。
青年は少年の頭をゆっくり撫でて、それから腕の中にぎゅうと少年を抱き込んだ。少年は思わずその腕に縋ってしまった。
青年は、どこかで嗅いだことのある、懐かしい匂いがした。
少年はひとしきり泣いて、それから遅れて羞恥心が襲ってきた。
疲れていたのだろうか。
知らない大人の前で号泣してしまうとは思わなかった。
目が重い。きっと赤く腫れぼったくなっていることだろう。
はあ、と大きく息を吸って、呼吸を整える。
「…あの」
青年は泣き止んだ少年をほっとしたように見つめて、なあに、どうしたの、と小首を傾げた。
おれ、ここにいることにした。
そう、青年に告げようとした瞬間。いきなり、どおんと轟音が響いて。どこから来たのか、大量の水が流れ込んできた。
「えっ」
狼狽えている間にむき出しの足首があっという間に水に浸かった。
「に…逃げないと」
咄嗟に青年の車椅子の手押しハンドルを掴んだ。
既に半分近く水に浸かってしまった車椅子の車輪は、上手く滑らない。
仕方ない、おぶって、と、そこまで考えたところで、少年はある考えに至った。
おぶって、どこに。
逃げるって、どこに。
手に力が入らない。視界が揺れる。
動きを止めてしまった少年を見て、青年が苦笑を浮かべた。
「…もう、帰ったほうがいい。帰りなさい」
「いや…っ、だ、だって」
「ぼくは大丈夫だから、帰りなさい」
「か…帰る、って、どこ、に」
「落ち着いて」
青年は曖昧な笑みを浮かべ、少年を見上げて。
青年の泣きぼくろを見た少年の頭の中を、記憶の中の、夢の中の誰かが、ふっと過った。
喉の奥が張り付いて、出そうと思った声は掠れて。
「…にい、さん?」
青年の猫目がぱちぱちと瞬いた。
兄さん、だよね、と少年は繰り返す。
記憶の中の、幼い頃の少年と遊んでいる兄の目と、目の前の青年の目がぴったりと重なった。
記憶の中の青年が、目の前の兄が、その細い手のひらでゆっくりと少年の頭を撫でて、少年は記憶に溺れそうになる。
あまりにも淡くて、少し甘い、セピア色の記憶に。
どっと滝のように記憶が少年の視界に溢れ込んだ。
少年は混乱した。
車の後部座席で並んで座っていた兄、兄は、兄、青年、いつか少年を抱き上げてくれた、青年は。
年の離れた兄は、よく少年の遊びに付き合ってくれた。
兄は世界が好きだったのだろう、毎日毎日飽きもせず世界地図を広げていて、少年が一緒に遊ぼうと誘うと、人懐っこい笑顔を向けてくれて。
ある年の誕生日に地球儀を買ってもらったときの兄の笑顔は、言うまでもないだろう。
大人になったらいつか海外に行くんだ、とずっと、何回も、少年に語ってくれたのをよく覚えている。
少年からしたら既に大人だったけれど、確か、あの頃の兄はまだ学生だった。
兄の部屋はいつも買い集めてきた色んな国の雑貨でごちゃごちゃしていて、カラフルで、楽しかった。
扉を開けると、いつも、隅にある壊れそうな椅子に座っていて、いつかはどこか遠い国の楽器も弾いて見せてくれたね。
あれはなんて言う楽器だったっけ。
兄さん、確かにこの家は兄さんの部屋にそっくりだ。
異国趣味、と言うのだそうだ。
いつだったか母は兄をそう形容した。
その兄は飛行機事故で海に沈んだ。
初めての一人旅行で、海外へ行く、その飛行機での事故だった。
目の前が暗くなって、鮮やかな走馬灯のような記憶に溺れていた少年は、あっという間に現実に引き戻された。
「…もう、帰りなさい」
どうして忘れていたんだろう。こんなに大切な人を。
兄さん、と思わず腕を引こうとした、その手が押し留められる。
青年はそのまま、宥めるように少年の腕を摩った。
「言うことを聞いて。もう帰りなさい」
帰りなさい、と繰り返す青年の、いい子だから、と窘める兄の、細い指は微かに震えていた。
水はもう少年の太腿あたりまで上がってきていた。寂しそうに笑った青年の指が、少年の頬を撫でる。
その目は泣き出しそうに震えていて、少年は唇を噛んだ。
そうして俯いて初めて、水に浸かった青年の下半身が、見えなくなっていることに気がついた。
水の反射で歪んでいるのではない。溶けているのだ。
少年は思わず、青年の膝があるはずのところに手を突っ込んだ。
きらきらと青年を映し出している水面が崩れて揺れたのみで、手応えはない。
青年が嘆息した。
「ああ…ごめんね。ふつうに、ふつうの方法で帰したかったんだけれど」
諦めと慈しみの混ざった顔で、青年が手を伸ばして、少年の髪を撫でた。
その青年の腰が溶けて、肩が溶けて。
顔まで飲まれた時の兄は、どんな表情を浮かべていたのだろうか。
目の前はぼやけて、兄の表情ははっきりしなかった。
兄が水に飲み込まれていくのを眺めながら、少年も水の中へ倒れ込んだ。
身を預けた先にはもう、床も、家も、地面も、何もなくて。
全てを飲み込むような、涙すらも溶け込む深い海に沈んでいきながら、少年は独りごちた。
「…ここで」
ここで、過ごしていたんだね、と。
異国趣味の兄の、宝物みたいな家で。
ずっと夢を見ているようだった。
暗く濁った中で浮上と沈下を繰り返しながら
息苦しさと心地良さの狭間で
大切な弟と一緒に大切な家に住む
幸せな夢を見ていた。
エキゾチシズムの海で 中村ともあき @tomoaki010408
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