夢の中で

 私は小さなボクシングジムを営んでいる。

 現役時代も大した成績は残せず、開業したばかりということもあり、会員はまだ少ない。だから駅前でチラシを配ったり、営業をかけたりと日々奮闘している。


 そんなある日、一人の男性が訪れた。


「すみません、ボクシングを習いたいのですが……」


 メガネをかけた小柄な男。おそらく未経験者だろう。最近はダイエットや運動不足解消など様々な理由で始める人も多い。初心者も歓迎だ。


 会員登録の手続きと簡単なアンケートを済ませてもらう。その回答に、私は眉をひそめた。


「この『ボクシングを始める理由』の欄ですが……『人を殴るため』と書いていますね。申し訳ありませんが、その理由では入会を認められません」


 男は驚いたような顔をした。


「ああ! しまった、違うんです! 現実の話じゃないんですよ」


 詳しく聞くと、こうだった。


 彼は最近、悪夢に悩まされているという。夢の中で暴漢に襲われるのだが、必死に反撃しようとしてもパンチが出ない。


「殴ったことがないから、夢の中でも殴れないんだと思うんです。だから実際に体験すれば、夢の中でもパンチが打てるようになるはずなんです」


 奇妙な理由だが、物騒な意図はなさそうだ。私は入会を認めることにした。もちろん、アンケートの回答は書き直してもらったが。


 次回から本格的に初歩から始める予定だったが、その日は軽い雑談と基礎知識の座学で終えた。


 ──だが、初回のレッスンの日。ジムに来た男は、申し訳なさそうな顔をしていた。


「すみません、入会をキャンセルしたいんですが……」


「そうですか、残念です。でも大丈夫なんですか? 悪夢の方は……」


 尋ねると、男の顔は少し明るくなった。


「ああ、それなら解決しました。前回の夢にちょうどナイフが出てきましてね。そいつで暴漢を刺すことができたんです」

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