なぜ人は他人をすぐに評価するのか…僕は評価という言葉が大嫌いだ。

欠陥品の磨き石 磨奇 未知

評価社会は間違っている。

 人間は産声を上げている赤子の頃から相対的に評価をされる。

 魂が燃え尽きるまでその評価からは逃れることはできない。

 何か悪いことをしたわけでもないし、ただ生きているだけなのに世間は許してくれない。

 まるで評価することが当たり前のように比較を続ける。

 僕には到底苦痛なことだ。


 その人が優れているか、劣っているかを周りの人間は

 客観的に見て評価する。

 所々に主観を滲ませながら、当たり前のように他人の価値を決めてしまう。

 劣っていると評価されることはあなたには価値がないと言っているのと同義である。

 少数派の人間や、尖っている人間などの社会の常識に適応できない人間は漏れなくほとんどの人間が劣っていると評価を受ける。

 僕はこれがとても不愉快に感じる。

 まるで社会の常識を押し付けているように感じるからだ。

 誰が決めたのかもわからない一般的な評価基準に基づいて、我が物顔で他人を評価する。

 ほとんどの人間は世間一般的に決められた評価基準に基づいて、努力をする。

 社会の常識に適応するために個性を押し殺して矯正を行う。

 自分の主観に基づく評価を剥ぎ取ってゴミ箱に放り込み、社会の評価というわかりやすい安心できるものに逃げ込む。

 僕はこの光景がとても異様に見えてしまう。

 それって本当に生きていると言えるのだろうか…っ

 と疑問に思っている。

 本来人間は生まれながらに自由な生き物のはずだ。

 だが実際は、社会の普遍的な評価に囚われて、社会の評価に身を預ける。

 自由とは名ばかりである。

 疎外感を感じないために自ら檻に入っていく姿は

 僕には到底理解できない。

 己を奴隷として社会の家畜として飼育をお願いしてるように見えるからだ。

 周りに合わせていればもちろん楽なのかもしれないが、

 目先の評価に囚われて、偽物の自分を演じるのは僕にはできない。


 僕達が子供の頃は

 周りの評価の影響をそこまで受けずに、ある程度自由に生きていた。

 だけど学校に通い始めると、

 ルールや常識という絶対的な評価に縛られて、

 周りに合わせることを強制され始める。

 テストや体育の実技などで、

 客観的な評価を下され優劣をつけられる。

 君は足が速いから優れている。

 君は計算が速いから優れている。

 君は漢字を覚えれないから劣っている。

 などを当たり前のように評価されて、自分の価値を勝手に決められる。

 コンビニに売られている商品のように僕達は値札を貼り付けられる。

 無理やり商品として並べられている気分だ。

 定められた評価基準を満たした物を才能として決められる。

 絵のセンス、独特な感性などの定められた基準に当てはまらない物は学校という場所ではなんの価値も持たない。

 自分の価値を決めるのは結局周りの人間なんだろうか…

 考えたくはないがやはり少し考えてしまう。

 多数派に合わせていかなければ劣っているとみなされる。

 やはり僕は社会が嫌いみたいだ。

 僕のような考え方を持つ人が増えれば、僕も多数派の人間になれるのにな…

 多数派と少数派が入れ替われば優劣も逆転する。

 なんとも都合のいいシステムなんだろうか…

 僕はこれからも違和感を抱えたまま、

 一人孤独に魂を燃やしていく。

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なぜ人は他人をすぐに評価するのか…僕は評価という言葉が大嫌いだ。 欠陥品の磨き石 磨奇 未知 @migakiisi

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