クトゥルフ短編集01 残業終電で「それ」に出会った夜
NOFKI&NOFU
もう、もどれないのか……
深夜の最終列車。疲労と残業の臭いが染み付いた空気の中、俺は町田、同僚の山本と肩を並べて座っていた。
隣の山本はスマホをいじっている。俺は窓の外の暗闇を、何も考えずにぼんやり眺めていた。
「なぁ、お前もまだ残業続きか?」
「ああ、昨日も徹夜だ。お前は?」
「俺もだ……あーもう、部長の顔見たくねぇわ」
入社当初、毎晩終電まで残り、コピー機の前で愚痴を言い合った。あの頃の笑いがなかったら、俺はとっくに会社を辞めていただろう。
その時、座席の底から這い上がるような、不快な低振動が身体を突き上げた。
耳鳴りではない。地中深くの胎動。まるで巨大な何かが、地下で息をしているようだ。
山本が眉をひそめた。スマホを握る手が止まる。
「……変だな。なんだ、この音……」
「わからん……でも、気持ち悪い」
周囲の乗客も、一様に顔色を失い、視線を落としている。
蛍光灯がチカチカと点滅し、一瞬、車内が異様に明るくなった。 風もないのに、腐った土の匂いを含んだ冷たい空気が、肌を這い上がってくる。
「な……なんか、押される……」
山本の声が震える。俺も同じ感覚を覚えた。肺が潰され、全身を深い水圧に晒されているような、耐え難い重圧。
ポケットのスマホが震え、妻からのメール通知が届く。
『あなた、どこにいるの? 地下鉄が全部止まってるって……無事でいてね』
文字の温かさが、この列車がすでに「世界の現実」から隔絶されていることを突きつける。
蛍光灯が激しく瞬き、壁の広告パネルの顔が歪んだ。裂けた口が笑うように見え、影の奥から何かが覗き込んでいる。乗客の影が自律して揺れ、奇怪な形を残す。座席の金属が軋み、床板が波打ち、列車全体が生き物のように呼吸している。
「……くそ……息苦しい……」
山本が喘ぐ。胸に重い振動が響き、俺は視界が歪むのを感じた。
遠くで、車両全体がガタガタと震え、床の奥から微かな唸り声が響く。
窓の外。真っ黒な壁に、赤黒い光を放つ塊が蠢いていた。触手のように細長く、薄くうねり、獲物を品定めするようにこちらへ向かってきている。
ついに、触手が車内に侵入する。ゆっくりと、しかし確かな意志を持って蠢きながら、俺たちに迫る。
「ひぃッ! 来るな!」
山本が床に伏せる。触手が彼の足を巻き取り、宙に吊り上げた。
「やめろ……俺も、嫁に会いたいんだ……! 子供に『おかえり』って……!」
数か月前、俺の家で妻の手作りカレーを頬張った山本。ぎこちなく俺の息子を抱き上げ、寝息を立てる赤ん坊に目を輝かせた。休日、公園で息子が転ぶたびに、彼は全力で抱き止めた。
「ばーか、ガキは転んでもいいけど、大事な友達の子は泣かせたくねぇんだよ」
あの笑顔が、俺の脳裏を駆け巡る。
「まだ……大丈夫だ、俺は……俺は人間だ……っ!」
触手が山本の皮膚をなぞった瞬間、黒いしみがじわりと広がる。彼は一瞬、助かったように息をついた。だが次の瞬間、その皮膚が裂け、赤黒い血管が浮かび上がった。
「あ……あぁぁぁッ!」
骨が軋む音とともに体が不規則にねじれ、彼の瞳は黒く染まる。
そして、山本の喉の奥から軋むような、湿った音。二重に重なり、しかし明確に人間ではない異形の声が、俺の耳に直接響く。
『オレハ...ニンゲン...ダ......』
その声は悲鳴から絶叫に変わり、口から泡が溢れ、顔が異形に膨れ上がる。俺は手を伸ばしたが、腕ごと触手に絡め取られ、全身が痙攣する。
あの公園での約束は、もう二度と果たされない。
手紙を握りしめる。**『あなた、無事でいてね』**という文字の温かさが、現実の恐怖と対比して心臓を締め付ける。
家族の温もりと日常の思い出が、この狂気の中で心を揺さぶった。触手が俺に迫る。赤黒い光、蠢く触手、地底の胎動――全身が痙攣するほどの恐怖。山本の声が遠くでこだまし、体が闇に溶けていく。
すべてが闇に沈んでいく。意識が遠のき、感覚が薄れていく中で、俺の脳裏に妻と息子の顔が鮮烈に浮かんだ。
俺は、絶望の中で「未来」を強く想像した。玄関を開け、息子が駆け寄り、妻が微笑んで迎える姿を。
この恐怖は、俺の精神を蝕むかもしれない。だが、俺が家族を愛した記憶だけは、奴らには奪えない。
俺は、生きる。絶対に。
「山本……すまん……」
息子を抱き止め、笑ったあの公園の光景を、俺は決して忘れない。
恐怖は終わらない。だが、希望もまた消えはしない。
あの日常へ帰るために――俺は闇の中で、必ず生き延びる。
『残業終電で「それ」に出会った夜』 完
クトゥルフ短編集01 残業終電で「それ」に出会った夜 NOFKI&NOFU @NOFKI
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