第6話 和敬清寂
そして666人目の稽古を終えた時、オリジナルである元の茶室に吹雪が座して待っていた。
「さて、あなたが最後の吹雪ですかね。いや、最初の吹雪と言った方がいいでしょうか?」
伏せていた長いまつ毛をゆっくりと持ち上げる。
分裂していた吹雪たちと情報が統合された、いわば666人分の幻庵の稽古を受けた吹雪がそこにいた。半透明と化していた身体もしっかりと輪郭を保っている。
周りを見渡すと分裂していた吹雪も幻庵もおらず何もかも元通りに戻っていた。
「吹雪、私はあなたに、私が教えられることをほぼ全て教え切りました。――あなたの点前を私にみせてくれませんか」
「はい。幻庵先生」
吹雪は指先を揃えて、姿勢正しく流麗にお辞儀する。洗練された『真』の礼だった。
幻庵は床の間に近い正客の座に、吹雪は釜の前に座り戸惑うことなく、無駄のない所作で点前を進めていく。
指がつりそうになっていた切り柄杓も危なげなくこなし、茶碗に湯が流し込まれた。
カシャカシャカシャ――吹雪の面持ちは穏やかで、最初に点前をしたような思い詰めた表情はもうない。
茶筅で最後にのの字を描くき、点てた抹茶を幻庵に差し出す。
「幻庵先生、どうぞお召し上がり下さい」
一礼して吹雪は釜の前に戻る。
幻庵に差し出された茶碗は白地に椿の絵があしらわれた椿絵茶碗だった。吹雪が幻庵のために用意したものだ。
よっぽど椿が気に入ったのだろう。幻庵はその茶碗を楽しみながら吹雪の点てた抹茶に口をつける。
きめ細やかな泡と共に心地よい温度で調整された抹茶が口の中で混ざり合う。茶の持つ芳醇な香りが鼻を抜けていき、甘い第一印象のあと、わずかな苦味が広がる。
幻庵の教えを忠実に反映した、素晴らしい点前だった。吹雪の習熟の早さには感心せずにはいられない。
飲み終えた後、もう一度、椿絵茶碗を眺める。茶碗の底面を眺め、銘を確認して面を上げると不思議なことが起きた。
吹雪が一面の椿に囲まれている幻覚が見えた。
「こ、これは……」
幻庵が思わず声を漏らす。目を擦ってみると元の茶室に戻った。だが吹雪から感じる椿のエネルギーに満ちた印象は変わらない。自分は一体、何を体験したというのか。
「吹雪、これは一体?」
吹雪は戸惑う幻庵の様子を見て満足気な顔を向ける。
「あ! 先生、気が付きましたか?」
「ええ。あなたが椿畑に囲まれているイメージをはっきりと感じました。実に不思議な体験です」
「では大成功ですね!」
吹雪は仕舞いの点前を続けながら嬉しそうに声を弾まさせた。
「種明かしをお願いしてもよろしいでしょうか」
「実は……茶碗の底に椿の香、つまり油を塗りました。茶人の幻庵先生は必ず最後に茶碗の銘を確認すると思っていたので」
幻庵は驚いた様子で目を見開く。
「茶碗に香を仕込んだのですか。どうりで飲んだ後、吹雪に強烈な椿のイメージを感じたわけです」
幻庵には予想もつかなかった吹雪の奇策に笑顔が溢れる。
「幻庵先生に稽古をつけて頂くなかで、自分とは何か、他人とは何かを見つめ続けました。今では
右手を胸に添えて吹雪は自分の存在を確かめるように拳を形作る。
「お点前をする時、幻庵先生に喜んで貰うにはどうしたらいいだろうって考えました。正面からぶつかっても茶聖と呼ばれている先生の予測を上回ることなんてできません」
幻庵は吹雪の声に静かに耳を傾けている。
「先生が教えてくれた『椿』。あの花の力強さ、香りが私にとって忘れられないものでした。たった一輪の椿が一面に咲き誇る椿を連想させるほどです。その椿の力強さを借りたら、きっと先生に楽しんでもらえると思い、椿絵茶碗の底に椿の香を忍ばせたのです」
種明かしに納得し、幻庵はなるほどと頷く。
「吹雪、よく考えましたね。あなたの他人に喜んで貰いたいという思い、礼を尽くすというのはまさしく千利休が残した『和敬清寂』に通ずる精神です。それが1人で考えられるようになったなら、吹雪はもう立派な茶人です」
「ありがとうございます!」
幻庵の言葉に吹雪は溢れんばかりの笑顔で応える。純粋で真っ直ぐな吹雪こそがまるで一輪の椿のようだと幻庵は思った。
こうして666人の一番弟子への稽古は幕を閉じた。
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