11話 皇帝は父です。会ったことありません。
リヴィアが口を開いたのは、少し間をおいてからだった。
相変わらずおだやかで、慎重な声音。
「ご安心を、殿下。陛下は一貫して理性的なお方です。無駄に怒鳴ったり、感情で命を左右したりはなさいません。……ただ、冷徹なまでに秩序を守られる方です。その基準に、情や絆は含まれません。あくまで“国家”という大義のために──」
その言葉が静かに空気に溶けた瞬間、まるでそれを“是正する”ように、エルディアが低く、はっきりと続けた。
「皇帝陛下は、“器”の有無で人を分類される方です。殿下も、やがて“選ばれる側”から、“選ぶ側”へと立場を移すのでしょう。……その覚悟だけは、失わないでください」
冷たいとも、やさしいともちがう。
ただそこに、確かに“正しさ”だけがある。
重苦しい空気を切るように、ふとシオンがオレの手をとり、こちらが握り返す間もなく、まっすぐに目を見つめきて、彼は静かに言う。
「ユーリ。そんなに不安にならないで。……そのために、ボクたち〈インフィニタス〉はいるんだから。あなたが、ちゃんと前を向けるように」
表情には、ふざけたところは一切なかった。
いつもの笑顔とは違う、真剣なまなざし。
あ──。
その言葉が、胸の奥にすとんとおちた気がした。
シオンは、にっこりとほほえんで、さらに両手でオレの手をつつみこむ。
……まるで、「大丈夫だよ」って、励ましてくれているようで。
思わずこぼれた。
「ありがとう」
オレがそう言うと、シオンは満面の笑みをうかべる。
一瞬、瞳の色がラベンダーピンクにゆれたのがわかった。
そしてぎゅっと手をにぎり、頬ずりしてくる。
「いや……それがよけいなんだよ」
やんわりと手を引こうとすると、シオンは小悪魔みたいにわらって言った。
「だって、好きなものにふれたくなるのは、当たり前の感覚じゃない? ね?」
好きなものに、ふれたい──…。
……そうかも。
オレも。
ソアラに、ふれたい。
そんなやりとりの最中、扉のノックがひびいた。
ゼノが無言で入室する。
……その直後、空気がピリリと凍る。
ソアラだ。
シオンが、ぱっとオレの手を離し、すぐさま両手を自分の膝にもどした。
目だけでちらりとソアラを伺うと、何ごともなかったような顔をして立ちあがる。
ふざけた空気は、一瞬で消えていた。
リヴィアも、エルディアも、すでに直立していた。
入ってきたゼノも、その場で姿勢を正して一礼する。
「え、え? なに……?」
空気の変化についていけないまま、気づけばオレも、反射のように立ちあがっていた。
食べていたシフォンケーキの欠片が口元からこぼれおちるが気にはしていられない。
背筋が伸びる。視線が前をむく。
まるで訓練でも受けたみたいに、自然と──直立不動。
その沈黙の中、ソアラは一歩、一歩室内に足を踏み入れる。
即座に、彼の視線が横に動いた。
シオンへ──。
一切の感情を読み取らせない、けれど確かに“冷たい”まなざし。
「……シオン。ありがとう。もういいよ。君は下がって」
やさしい声だった。
けれど、どこか凍るようなひびきが混じっていた。
命令とも、拒絶とも違う。けれど、逆らえないなにか。
「っ……はい」
シオンが、なにも言わずにうつむき、そっとその場をあとにする。
『え、なに? なんで? え、こわっ……』
思わず、心の中でうめいた。
なんか今日のソアラ、ピリついてる?え?
扉が閉まったあと、ソアラは一瞬だけその場を見渡すと、まるで何ごともなかったかのように、静かに口を開いた。
「……リヴィア。進捗は?」
「は……はい。帝王学の教導は予定通り進めています。ただ、理解度には……やや、ばらつきが……」
「そう」
ソアラの声は変わらない。淡々としていて、やさしくも、冷たくもない。
ただ、“確認しているだけ”の調子。
……やば。
オレ、今日、何一つまともに聞いてなかった。
顔には出さないようにしたつもりだったけど、内心思いっきりあせっていた。
バレた?いや、どうかな──
それにこの菓子の山。マズイだろ?絶対マズイだろ?
でも、ソアラはオレを見ようともしない。
「ありがとう。君たちも、もう下がっていいよ」
それだけ言って、視線は今度はゼノへ。
「ゼノ、明日は
「はい、予定通りです」
「……よい」
それきり、ソアラはもう、なにも言わなかった。
ゼノが一礼し、リヴィアとエルディアも無言で部屋をあとにする。
……気づけば、部屋にはオレとソアラのふたりだけ。
扉が閉まる音が、やけにひびいた。
ピリついた空気だけがつづき、さぼってたのバレたのかなとか、さっき手にぎられてたの見られてたかもしれないとか、胸がざわざわする。
「……あの、さっきの教導だけど……ちゃんと聞いてたよ? いや、聞こうとしてた。たぶん」
ソファに沈んだまま、言い訳の言葉が口をついてでる。
「……頁のとこ、ちょっと難しかったっていうか……ほら、リヴィアの言い方ってさ、やたら丁寧で、眠く……なるじゃん?」
視線のやり場に困って、膝のあたりをいじりながら、とにかく口を動かす。
「……昨日もちゃんと復習はしたんだよ。ちょっとだけだけど……」
返事はない。
視線をそっとソアラに向ける。
怒られる覚悟はしていた。
けれど──。
「……散らかってるね」
静かな声が、ひびいた。怒鳴り声でも、叱責でもない。
ただ、事実をつげるだけの、やわらかな声。
ソアラは何も言わずに床に膝をつき、脱ぎ捨てた衣服を手に取って整えはじめる。
詩集を拾いあげ、球体人形を抱き上げる。
その仕草が、いつも通り静かで丁寧で──だからこそ、なんだか胸がざわついた。
テーブルの上に目をやると、菓子の山。
ソアラは一瞬だけそれに視線を落とし、ため息もつかず、まっすぐオレの前に立つ。
「……っ」
その影がふいに近づいてきて、思わずびくっと肩をすくめた。
反射的に目をつむる。
「口……ついていますよ」
「え?」
「シフォンケーキ、ですね」
ゆっくりと目を開けると、ソアラが無表情のまま、
オレの口元についた欠片を指でぬぐっていた。
……あれ?
怒ってる気配、ない。
少し拍子抜けして、でもホッとして。
気づけば身体の力がぬけソファに身体ごとしずめていた。
──どうやら、“やさしいモード”にもどったらしい。
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