2話 命令装置。
「……今日もお変わりなく、ユリウス王子は一つも予定を把握なさいませんね」
皮肉めいたゼノの声が、朝の空気より冷たい。
そんなゼノに背を向けるように、ソファの背もたれにぐったりと身を沈め、クッションを抱き、ふたたび大きなため息をついた。
ゼノはそんなオレの態度を完全に無視し、淡々と日程だけを伝える。
「それで、夕刻には──」
──本当、いやなやつ。
ほんの少しでも、オレのやる気が出るような洒落た言葉はないのか?
「はいはい、わかった、わかった」
朝の恒例の儀式に煮えを切らすように、周りの侍女を手で払い、いらだちまじりの声でかえす。
けれどその声とは裏腹にオレの心はあの人のことばかり。
昨夜の記憶が、じんわりと胸を熱くする。
あのくちびるのやわらかさも、触れた指先の温度も、まだ身体のどこかに残ってる。
ソアラ──。
抱きしめていた、クッションを顔に押しつけた。ほんと、最近のオレどうかしてる。
こんなふうに誰かに
そもそも、あの頃のオレには縋る相手なんていなかったけど。
毎日、かわるがわるこの離宮に現れる侍女や食事係たちが、ただ義務のように世話をしていくだけ。
名前すら知らない彼、彼女たちは、安否確認でもするみたいに決められた時間に淡々と、訪れてはすぐに去っていった。
笑いかけてくれる者もいなければ、会話を交わすこともなかった。
頬にかかった栗色の髪が、少しくすぐったい。
やわらかくて、やや癖のある髪──。
昔からまとまりが悪いと、侍女たちがため息をついていた。
この前、ソアラが
「ほら、こうすれば──王子らしく
そう言って、胸元に小さな飾りをつけてくれた。
借りてきたように似合わない、
胸元に差した
ソファの背にもたれに沈みこんだまま、金の宝飾の手鏡をとり、胸の上に掲げる。角度を少し傾けると、鏡の奥に自分の顔がゆらりと浮かびあがる。
光を受けた瞳が、淡い茶色に透けて見える。
「とても綺麗だ」──あの人が言った声が、鏡の奥から響いた気がした。
“綺麗”だなんて思ったことがなかった。
けれど、その言葉だけで世界の色が少し変わる。どちらかといえば、奇妙で不思議だとさえ思っていたから。
でも、あの人はそんなオレの目をいつだって真っすぐに見てくれる。
無機質な表情の奥にある、かすかな温度。
あの人がそばにいるだけで、どれだけ心がやわらぐか。
やさしさなんて、ずっと信じてなかった。
でも──ソアラに触れられるたびに、心がやわらかくなっていくんだ。
何者でもなかったオレに、意味を与えてくれた──その手は、ただあたたかいだけじゃない。
あの人のやさしさやぬくもりは、暗黒だったオレの心に**
ソアラがいるからこの場所に踏みとどまれる。
あのぬくもりに触れたい。
それだけで、息ができるのだから──。
……オレが暮らしているのは、皇帝がいる本城から少し離れた小高い丘の上、枯れ蔦に覆われた石壁の古城。
かつては王家の離宮だったらしいが、今じゃほとんど忘れられた場所だ。
いくつもの塔が空に突き出し、広すぎるだけで誰の声もしない。
見捨てられた王子には、ちょうどいい。
「……やっぱ、ソアラ、今すぐ来れない?」
甘えるような声をつい口にしてしまう。
その言葉に、ほんの一瞬だけ──あの無機質な瞳がわずかにストロベリーピンクにゆれた。
けれどすぐに、いつものグレイッシュブルーにもどる。もちろん表情は変わらない。
でもオレは知ってる。
あれは、「くそガキ」って馬鹿にしてるサインだということを。
インフィニタスの瞳は、内側の“何か”がゆれるとかすかに色をおびる。ほんのわずか。
苺の果実を、限界まで薄めたような色。
だけど、それも一瞬。
彼らには“
──人間とは、ちがう。
こっちは、感情に振りまわされて、からまわって。どうでもいいことで傷ついて、怒って、後悔して……。
だけど、あいつらはいつも、静かで、冷静で、凛として、何をしても、どんな場にいても、決して乱れない。
まるで“人の理想だけ”を集めて作られたような造形美。
……見てると余計に思い知らされる。
自分はただの“失敗作”なんじゃないかって。
ゼノは、多分、オレのことが嫌いなのだろう。
こんな、何にもできない“偽りの王子”
そんなやつの面倒を見なきゃいけないなんて、心底うんざりしているにちがいない。
もし、ゼノの《理性の塔》が解かれることがあれば── もっとあからさまに見下してくるのかもしれない。
そう思うと《理性の塔》があることに少し感謝する。
あいつの無機質な視線を見るたびに胸の奥で通い合えない気持ちのさざ波が波をうつ。
「ねぇソア……」
気づけばまた、名前を呼んでしまっていた。
ソアラの名前ばかり口にするのが、最近のオレの悪いクセ。
「…夕刻には、こちらへもどる予定です。」
ゼノの声が、やけに遠く感じた。
──待つ時間って、やたらと長く感じる。
あいかわらず冷静なゼノの声はただ”事実だけを述べる“
それ以外に関心などない”と言っているかのように、会話を切りすてる。
あ、また──。
感情のまま突っ走ってしまってる。
どうしてオレは、いつもこうなんだろう。
「……そっか」
それだけ言って、ソファに身体をあずけ薄く光が差し込む天窓をただぼんやりと見あげた。
***
「──帝王は、
リヴィアの声が静かに響く。
けれど、
……聞いてるフリは得意になった。
本当は、全然頭に入っていない。
永遠に終わらないんじゃないかと思える、この退屈な時間。
少しでも紛らわせたくて──
やわらかなニットが、肩までずり落ちてくるのをてきとうに引きあげて、膝の上のクッションを抱きしめどこまでも退屈な
「……ユリウス王子、聞いておられますか?」
「え、あ。うん、聞いてるよ……帝王は、威光だろ?」
“ユリウス王子”
──あいかわらず慣れないその呼び名に、一瞬ためらいながら、口から出まかせの返事をする。
そんなオレの態度を見透かすように、リヴィアはわずかに目を細めた。
羽ペンも、どこかに転がってしまっている。
退屈すぎる教導に嫌気がさしていたのは──まぁ、事実。
それでも、リヴィアは咎めることなく淡々と教導をつづける。
その誠実さに、ほんの少しだけ申し訳なくなってそっと耳をかたむけた。
彼の声はゆっくりで、統一されたリズム。
きっと子守歌なんか聞かせてくれたら、一発で寝てしまうだろう。
長い前髪の下からのぞく濃い睫毛と、一文字眉が特徴的な美青年。
彼もまた、インフィニタスの騎士の一人であり、ソアラやゼノとは違う理知的な雰囲気を漂わせていた。
おだやかだけど、やっぱり無機質。
こっちが聞いていようがいまいが、ゆるがぬ調子で読み進める姿は──まるで
帝王学だのなんだのと、延々と──止まらない。
ああいうのを、“
彼らにも──。
自由が欲しいなんて、思うことがあるのだろうか?
騎士として生まれたからには、ただその使命を全うすることだけを望んでいるんだろうか。
リヴィアはゼノのような瞳の圧はないけれど、淡々としすぎて、なんだか退屈だ。
もし友達にでもなったら、会話に困るかもしれない。
──そんなことをつい考えているとふと、リヴィアの腰に吊られている細身の
知性と規律の象徴のようなその剣は、彼の佇まいに不思議とよくにあっている。
けれど──それは、あくまで儀礼の証。
本気で誰かを守るための剣には見えない。
──でも、ソアラの剣はちがう。
あの人はいつだって“本物”の剣を身につけている。
装飾のない、研がれた刃。
使うための剣。守るための剣。
──それが、ソアラという存在だ。
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