夏の終わりに、君を好きと知った

舞夢宜人

花火の音にかき消された言葉が、私達の恋の始まり。

#### 第1話:『夏の予感』


 放課後の教室は、夏の終わりの気配を色濃く漂わせていた。窓から差し込む西日が床に長い影を作り、空気中を舞う細かな埃をきらきらと照らし出している。肌にまとわりつくような熱気と、遠くから聞こえてくる吹奏楽部の練習の音。そんなありふれた日常の中で、私の隣にはいつも、鷲森燈子(わしもり とうこ)ちゃんがいた。


 「咲良(さくら)、そっちのゴミ集めたから、あとはこっちの窓際だけだよ」


 ほうきを持つ私の背後から、太陽みたいに明るい声が飛んでくる。振り返ると、燈子ちゃんが大きな瞳を細めて、にこりと笑いかけてくれた。少し茶色がかったショートボブが、彼女の動きに合わせてさらりと揺れる。その快活な笑顔を見るたびに、私の胸にはふわりと温かいものが広がる。この感情が、ただの友情ではないのかもしれないと、心のどこかで気づき始めていた。


 「うん、ありがとう。すぐ終わらせるね」


 私は小さく頷き、再びほうきを動かし始めた。燈子ちゃんとのこの穏やかな時間。他愛ないおしゃべりをしながら、二人で掃除をするだけの、なんてことのない放課後。でも、そのすべてが満たされているようで、同時に、何か決定的に足りないような、そんな奇妙な寂しさが胸の奥に燻っていた。


 教室の後方で、残っていた男子たちがひそひそと話しているのが聞こえてきた。普段なら気にも留めない雑音。でも、その中に聞き慣れた名前が混じっていることに気づき、私の耳は無意識にそちらへと傾いてしまった。


 「なあ、鷲森って、やっぱ可愛いよな。いつも元気だし、誰にでも優しいし」

 「わかる。クラスの人気者って感じだよな。付き合いたいって思ってるやつ、結構いるんじゃない?」


 その言葉が鼓膜を揺らした瞬間、私の心臓がどくん、と大きく跳ねた。まるで冷たい手で鷲掴みにされたかのような、鋭い痛みが胸を貫く。ほうきを握る手に力が入り、指先が白くなる。


 ――可愛い? 優しい? そんなの、私が一番知ってる。


 心の中で叫ぶけれど、声にはならない。今まで感じていた、燈子ちゃんへの温かい気持ちの正体。それが、今、はっきりと形になった。これは、友情なんかじゃない。まぎれもない、恋心なのだと。


 自覚してしまった途端、男子たちの会話が、私の心をさらに深く抉っていく。


 「だよな。ああいう子は、誰かが告白したらすぐ彼氏できそうだもんな」

 「マジでそれ。彼女にするなら早い方がいいってやつだ」


 焦り。その一言が、私の全身を駆け巡った。もし、燈子ちゃんが他の誰かと付き合ってしまったら? 今みたいに、隣で笑いかけてくれることはなくなるのかもしれない。二人だけのこの穏やかな放課後も、もう二度と戻ってこないのかもしれない。そんな未来を想像しただけで、息が苦しくなる。


 友情を壊してしまうかもしれない。今の関係すら、失ってしまうかもしれない。そんな恐怖が頭をよぎる。でも、それ以上に、燈子ちゃんを誰にも渡したくないという強い想いが、私の心を支配していた。このまま黙って見ているだけなんて、絶対に嫌だ。


 私はぎゅっと唇を噛みしめ、心に誓った。リスクを冒してでも、この想いを伝えよう。


 窓の外に広がる空は、茜色に染まり始めている。夏休みが、もうすぐやってくる。その終わりの象徴である、夏祭り。提灯の明かりと花火の音に包まれた、あの非日常の空間でなら、きっと、この臆病な私でも勇気を出せるはずだ。


 決戦の舞台は、夏祭り。私は、燈子ちゃんを失うくらいなら、すべてを懸ける覚悟を決めた。夏の予感が、熱を帯びた風に乗って、私の頬をそっと撫でていった。


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#### 第2話:『燈子、動く』


 琴浦咲良(ことうら さくら)は、私の特別な友達。クラスの誰にでも平等に優しく接するのが私の信条だけど、咲良は、その中でもやっぱり特別だった。艶やかな黒い髪、感情の機微を映し出す切れ長の瞳、そして、時折見せるはにかんだような笑顔。そのすべてが、私の心を掴んで離さない。


 最近の咲良は、少しずつ綺麗になってきている気がする。ほんのりと色づいた唇はリップクリームを変えたからだろうか。以前よりも念入りに手入れされているように見える髪からは、ふわりと甘いシャンプーの香りがする。そんな小さな変化に気づくたび、なんだか妹の成長を見守る姉のような、微笑ましい気持ちになっていた。この、守ってあげたくなるような愛おしさが、友情の証なのだと、私は信じて疑わなかった。


 「燈子(とうこ)ちゃん、そのゴミ袋、重いでしょ。半分持つよ」

 「ううん、平気平気! 咲良はこっちの燃えるゴミをお願い」


 掃除が終わった教室で、私は軽口を叩きながらゴミ袋の口を縛る。心配そうにこちらを覗き込む咲良の優しさが、じわりと胸に沁みた。二人で廊下に出て、ゴミ捨て場へと向かう。夕暮れ時の廊下は、生徒たちの話し声や部活動の音で満ちていて、いつも通りの、平和な放課後が流れていく。


 ゴミ捨て場へと続く渡り廊下の手前で、数人の男子生徒が壁に寄りかかって駄弁っているのが見えた。別に気にも留めず、その横を通り過ぎようとした時だった。私の耳に、聞き逃せない名前が飛び込んできたのは。


 「なあ、琴浦さんって、静かだけど結構可愛いよな」

 「ああ、わかる。あの儚い感じがいいんだよ。守ってあげたくなるっていうか」


 足が、ぴたりと止まった。心臓のあたりが、急に冷たくなっていくのを感じる。男子たちの声は、まだ続いている。


 「わかる。あんま男慣れしてなさそうだし、俺が初めての彼氏になってやりたいわ」

 「お前、本気かよ。でも、ライバル多そうだよな」


 冗談めかした笑い声が、やけに大きく耳に響く。さっきまで当たり前だったはずの廊下の喧騒が、急に遠くに聞こえた。胸の奥で、黒くてどろりとした何かが渦を巻き始める。それは、今まで感じたことのない、焦りと不安が混じり合った、不快な感情だった。


 ――咲良が、誰かのものになる?


 その光景を想像した瞬間、頭に血が上るのがわかった。あの内気で、私がいないと少し心許なげな表情を見せる咲良が、他の男の隣で笑う姿。誰かが、私しか知らないはずの彼女の特別な笑顔を見る権利を得る。そんなこと、あっていいはずがない。


 友情? 違う。これは、そんな綺麗な言葉で片付けられるような感情じゃない。もっとずっと身勝手で、汚い、独占欲だ。咲良を、他の誰にも触れさせたくない。私のものにしてしまいたい。


 誰かに先を越されるくらいなら。咲良が、私の知らない誰かの彼女になってしまうくらいなら。


 「……っし!」


 私は小さく気合を入れると、ゴミ袋を力強く握りしめた。もう迷っている時間はない。男子たちの横を何でもないという顔で通り過ぎ、ゴミをネットの中に放り込む。そして、くるりと踵を返し、教室で私の帰りを待っているであろう咲良のもとへと、少しだけ早足で向かった。


 決めた。この夏、私は動く。


 夏祭り。あの特別な夜に、私の手で、咲良を手に入れる。誰にも渡さないために。もう、ただの友達ではいられないのだと、はっきりと分からせるために。私の胸の中では、夏の太陽よりも熱い決意の炎が、静かに燃え上がっていた。


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#### 第3話:『決戦の場、夏祭り』


 その夜、私は自室のベッドの上で、スマホの画面と睨み合っていた。部屋の電気は消して、窓から流れ込む生ぬるい夜風だけが、火照った頬を撫でていく。画面の明かりが、私の不安げな顔をぼんやりと照らし出していた。


 検索窓に打ち込んでは消し、また打ち込む。「告白」「成功する場所」「高校生」。指先でなぞる言葉は、どれも現実味のない、ドラマの中の台詞のようだった。それでも、私の決意は揺らいでいなかった。あの日、教室で燈子ちゃんへの恋心を自覚してから、私の頭の中は彼女のことでいっぱいだった。


 検索結果として表示されるのは、きらびやかな夜景が見える展望台や、雰囲気の良いお洒落なカフェばかり。でも、そんな場所に燈子ちゃんを誘うなんて、今の私にはハードルが高すぎる。もっと自然で、もっと私たちにふさわしい場所は……。そう考えた時、ふと、近所の神社で開かれる夏祭りのポスターを思い出した。


 ――夏祭り。


 その言葉が、心の中で確かな形を結んだ。賑やかな喧騒、提灯の柔らかな光、そして夜空を彩る大輪の花火。あの非日常的な空間なら、きっと、この秘めた想いを打ち明ける勇気が湧いてくるはずだ。私は夢中で「夏祭り 告白 シチュエーション」と検索を続けた。最高の思い出にするために、できる限りの準備はしておきたかった。



 同じ頃、燈子もまた、自分の部屋でスマホを片手に頭を悩ませていた。明るい彼女らしく、ベッドに寝転がりながら、軽快な指つきで画面をスワイプしている。


 (どうやって誘おうかな、咲良のこと……)


 告白の決意を固めたはいいものの、どうやって咲良を誘い出すかが問題だった。普段通りに「夏祭り、行こうよ!」と声をかけるのは簡単だ。でも、今回はただのお祭りじゃない。私にとって、そして咲良にとっても、特別な一日にしたい。ロマンチックな演出をして、彼女を驚かせたいし、何よりも喜んでほしい。


 (咲良、怖いの苦手だけど、お化け屋敷とかどうかな? 吊り橋効果ってやつ? いや、でも泣かせちゃったら元も子もないし……。やっぱり、綺麗な花火が見える場所を確保するのが一番かな)


 咲良の喜ぶ顔を思い浮かべながら、一人で作戦を練る時間は、不安でありながらも、甘い期待感で満たされていた。するとその時、不意にスマホがぶるりと震え、画面に一件のメッセージ通知が表示された。


 差出人は、『琴浦 咲良』。



 スマホの画面には、燈子ちゃんとのトーク画面が開かれている。私の指は、メッセージ入力欄の上で止まったまま、微かに震えていた。たった一言、「夏祭り、一緒に行こう」と打ち込むだけなのに、その一文が送信できない。もし断られたら? もし、迷惑だと思われたら? ネガティブな想像が、頭の中をぐるぐると駆け巡る。


 でも、ここでためらっていたら、何も始まらない。誰かに取られてしまう前に、自分の手で未来を掴まなければ。私は深呼吸を一つすると、意を決して、画面の右端にある送信ボタンに、そっと指を乗せた。


 ぽん、と軽い音がして、私のメッセージが燈子ちゃんへと送られる。心臓が、今にも張り裂けそうなくらい、大きく、速く脈打っていた。


 既読の文字が付くまでの数秒間が、永遠のように長く感じられた。


 すると、すぐに画面の下に「入力中…」の文字が浮かび、間髪入れずに新しいメッセージが届いた。


 『もちろん! 絶対行こうね! 私も誘おうと思ってたんだ!』


 文末には、満面の笑みを浮かべたスタンプが添えられている。そのメッセージを読んだ瞬間、全身から力が抜け、安堵のため息が漏れた。よかった。断られなかった。それどころか、燈子ちゃんも誘おうとしてくれていたなんて。


 『やった! 楽しみにしてるね!』


 私も、喜びを隠せないスタンプを付けて返信する。画面の向こう側にいる燈子ちゃんの笑顔が、目に浮かぶようだった。


 二人とも、まだ言葉には出していない。けれど、スマホを握りしめるその手には、同じ熱が宿っていた。この夏祭りが、ただの夏の思い出では終わらない、特別な「運命の夜」になることを、私たちは確信していた。


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#### 第4話:『浴衣の魔法』


 夏祭りの当日。私の部屋は、甘いおしろいの香りと、言いようのない緊張感に満ちていた。鏡の前には、母が若い頃に着ていたという、白地に淡い桜色の柄が描かれた浴衣を纏った私がいる。


 「はい、できたわよ。帯、きつくない?」

 「うん、大丈夫。ありがとう、お母さん」


 背後から、少しきつそうに結ばれた帯を、母がきゅっと締め直してくれる。糊のきいた浴衣の生地は少し硬く、普段の制服とはまったく違う感触が肌に伝わってくる。鏡に映る自分は、まるで知らない誰かのようだった。いつもは下ろしているだけの黒髪は、母の手によって綺麗に結い上げられ、白い首筋が露わになっている。ほんの少しだけ差した紅が、やけに大人びて見えて、なんだか落ち着かない。でも、この慣れない姿が、今日の私に少しだけ勇気をくれるような気もしていた。まるで、臆病な心を隠してくれる、魔法の鎧みたいに。


 からん、ころん。慣れない下駄の音を響かせながら、待ち合わせ場所の駅前に向かう。心臓が、一歩進むごとに大きく音を立てていた。約束の時間の五分前。すでに駅前の広場には、色とりどりの浴衣を着た人たちが行き交っている。その人混みの中に、ひときわ目を引く姿を見つけた時、私は息を呑んだ。


 「咲良! こっち!」


 手を振って私を呼ぶのは、紛れもなく燈子ちゃんだった。紺地に鮮やかな向日葵が描かれた浴衣は、太陽みたいな彼女に驚くほどよく似合っている。いつもは快活な印象のショートボブも、今日は少しだけアレンジされていて、普段よりずっと大人びて見えた。その姿を目にした瞬間、私の心臓は、期待と喜びで大きく跳ね上がった。


 「ごめん、待った?」

 「ううん、私も今来たとこ。……わ、咲良、すごい……綺麗」


 燈子ちゃんが、少しだけ頬を赤らめて、感嘆の息を漏らす。その素直な言葉に、私の顔にも熱が集まっていくのがわかった。


 「と、燈子ちゃんこそ……すごく、似合ってる。向日葵、燈子ちゃんみたい」

 「えへへ、ありがと。なんか、照れるね」


 二人して、ぎこちなく笑い合う。普段とのあまりの違いに、どう接すればいいのか、お互いに少しだけ戸惑っているようだった。


 駅から神社へと続く参道は、すでに多くの人でごった返していた。道の両脇にはずらりと屋台が立ち並び、提灯の赤い光が私たちの顔を幻想的に照らし出す。香ばしいソースが焼ける匂い、甘い綿あめの香り、そして人々の賑やかな声や遠くから聞こえてくるお囃子の音が混じり合い、非日常的な空間を作り上げていた。


 「うわー、すごい人! はぐれないようにしないとね」

 「うん……」


 燈子ちゃんの言葉に頷きながら、私は祭りの喧騒に心を奪われていた。五感を刺激する全てのものが、これから始まる夜が特別なものであると告げているようだった。隣を歩く燈子ちゃんの横顔が、提灯の光に照らされて、いつもよりずっと美しく見える。緊張と高揚感が胸の中で渦を巻き、期待で胸が張り裂けそうだった。


 私たちの、たった一度きりの特別な夜が、今、始まろうとしていた。


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#### 第5話:『繋がれた手と、高まる鼓動』


 参道を進むにつれて、人の波はさらに密度を増していく。右からも左からも人の肩がぶつかり、前に進むのも一苦労だった。色とりどりの浴衣、楽しげな笑い声、様々な屋台から立ち上る美味しそうな匂い。そのすべてが渾然一体となって、祭りの熱気を作り出している。


 「すごい人だね……」


 私の呟きは、周囲の喧騒にかき消されそうなくらい小さかった。燈子ちゃんとの距離が離れないように、必死で彼女の少し前を歩く背中を見つめる。時折、人波に押されて、彼女の浴衣の袖が私の腕にふわりと触れた。そのたびに、心臓が小さく跳ねる。もっと近くにいたい。でも、これ以上どうすればいいのか分からない。そんな臆病な考えが、頭の中を巡っていた。


 その時だった。前方から来た家族連れを避けようとした瞬間、人の流れにぐっと押され、燈子ちゃんとの間に数人の人だかりが割り込んでしまった。


 「あ……っ」


 咄嗟に手を伸ばそうとしたけれど、その手は虚しく空を切る。紺地の向日葵柄が、あっという間に人混みの中に見えなくなりそうになった。心臓が、ひゅっと冷たくなる。どうしよう、はぐれちゃう。不安が胸をよぎった、その刹那。


 「――咲良、危ない!」


 人混みをかき分けるようにして、燈子ちゃんが私の前に戻ってきてくれた。そして、少しだけ真剣な顔で私を見ると、「はぐれないようにしないとね」と言って、私の右手を、彼女の左手でぐっと掴んだ。


 「え……」


 触れた手のひらは、祭りの熱気のせいか、少しだけ汗ばんでいた。でも、それ以上に、確かな温かさと、私の手を包み込む力強さが、そこにはあった。驚きと、戸惑いと、そしてそれを遥かに上回る嬉しさが、一気に胸の中に溢れ出す。燈子ちゃんの指が、私の指の間にそっと入り込み、優しく、それでいて決して離さないというように、きゅっと絡められた。


 繋がれた手から伝わってくる熱が、まるで全身の血液を沸騰させていくようだ。顔が熱い。心臓が、耳元で鳴り響いているかのようにうるさい。燈子ちゃんの方を見たいのに、恥ずかしくて顔を上げることができなかった。


 (……あったかい)


 咲良の思ったよりもずっと華奢で、繊細な手の感触に、燈子の胸は高鳴っていた。この手は、私が守る。誰にも渡さない。そんな強い独占欲が、彼女の心を奮い立たせる。口実を見つけて強引に掴んだ手だったけれど、その温もりは、燈子の決意をさらに固くさせた。彼女は、咲良の不安げな表情に気づかれないように、少しだけ握る力を強めた。


 「さ、行こっか」


 私をリードするように、燈子ちゃんが再び歩き始める。繋がれた手を引かれるままに、私も一歩を踏み出した。もう、はぐれる心配はない。言葉を交わさなくても、この手の温もりだけで、心が繋がっているような気がした。


 このまま、この特別な時間が終わらなければいいのに。


 賑やかな祭りの喧騒の中、私たちは二人、同じことを願っていた。友情と恋の境界線を越える、確かな一歩。繋がれた手と手の間で、二つの鼓動が、同じリズムを刻み始めていた。


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#### 第6話:『お化け屋敷の誤算』


 繋がれた手から伝わる燈子ちゃんの体温に、私の心はすっかり舞い上がっていた。人混みを抜け、少しだけ開けた場所に出ると、古びた大きな看板が目に飛び込んできた。けばけばしい赤文字で『戦慄!肝試し屋敷』と書かれている。その禍々しい雰囲気とは裏腹に、中からは時折、気の抜けたような悲鳴が聞こえてきた。


 これだ、と私は心の中でガッツポーズをした。スマホで調べた「デートで距離を縮める方法」に、必ずと言っていいほど載っていた定番のシチュエーション。暗闇と恐怖が、二人の心を急接近させる「吊り橋効果」。私の計画では、怖がった燈子ちゃんが私にぎゅっとしがみついてくるはずだった。


 「ねえ、燈子ちゃん。あれ、入ってみない?」


 私は、できるだけ平静を装って、お化け屋敷の入り口を指差した。燈子ちゃんは一瞬きょとんとした顔をしたが、すぐに悪戯っぽく笑って「いいね、面白そう!」と頷いてくれた。作戦成功だ。私は逸る気持ちを抑えながら、燈子ちゃんの手を引いて入り口へと向かった。


 一歩足を踏み入れると、ひんやりと湿った空気が肌を撫でた。外の喧騒が嘘のように遠ざかり、薄暗い通路の奥から、うめき声のような効果音が聞こえてくる。よし、いい雰囲気だ。期待に胸を膨らませて、私たちは暗闇の中へと進んでいった。


 しかし、その期待はすぐに裏切られることになる。最初の角を曲がった瞬間、目の前にぼろ布を纏った骸骨の人形が飛び出してきた。けれど、その動きはあまりにもぎこちなく、関節からはギシギシという機械音がはっきりと聞こえている。


 「……え?」


 思わず、間抜けな声が漏れた。隣の燈子ちゃんも、驚くというよりは呆気に取られた様子で、その骸骨をじっと見つめている。さらに進むと、今度は天井から白い布を被った何かが、目に見えるくらい太い糸でゆっくりと降りてきた。


 「……ぷっ」


 静寂を破ったのは、燈子ちゃんが吹き出す小さな笑い声だった。


 「ふ、ふふっ……ごめん、咲良。あれ、どう見てもシーツじゃない?」


 その一言がきっかけだった。一度ツボに入ってしまうと、もう駄目だった。次に現れた、明らかにウィッグがずれている落ち武者の人形を見た瞬間、私たちは堪えきれずに笑い出してしまった。


 「あはははっ! 待って、あの人、カツラが!」

 「こっちのゾンビ、腕が逆についてるよ!」


 恐怖の館は、いつの間にかツッコミどころを探し合うゲーム会場へと変わっていた。私たちの甲高い笑い声が、薄暗い通路に響き渡る。怖がるどころか、お腹が痛くなるくらい笑い合って、私たちは固く手を握りしめ合っていた。それは恐怖からではなく、こみ上げてくる笑いを共有するための、温かい繋がりだった。


 あっという間に出口の光が見えてきた。外に出ると、祭りの賑やかな音が再び私たちを包み込む。二人して、笑いすぎて滲んだ涙を指で拭った。


 「あー、面白かった! 今までで一番笑えるお化け屋敷だったね!」

 「うん、本当に……」


 私の計画は、見事に失敗に終わった。燈子ちゃんが私に抱きついてくる、なんてロマンチックな展開にはならなかった。でも、心から笑い合えたこの時間は、どんな計画よりもずっと、私たちの心を近づけてくれた気がした。隣でまだ笑っている燈子ちゃんの顔を見て、私の胸は温かい安堵感と、どうしようもないほどの愛しさで満たされていた。この誤算は、きっと最高の誤算だった。


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#### 第7話:『予期せぬ恐怖と吊り橋効果』


 すっかり油断しきっていた。あれだけ笑い転げた後では、もうどんな仕掛けが出てきても怖さを感じることはないだろう。私たちは、繋いだ手に心地よい温もりを感じながら、和やかな気持ちで出口へと続く最後の通路を歩いていた。


 「もうすぐ出口だね」

 「うん。結局、全然怖くなかったね」


 そんな会話を交わしながら、前方に外の明かりが見えてきたことに安堵する。祭りの喧騒が、再び少しずつ耳に届き始める。暗闇から解放されることへの安心感で、私たちの心は完全に緩みきっていた。


 その、瞬間だった。


 「うわああああああっ!」


 出口のすぐ手前の物陰から、ぬっと巨大な影が飛び出してきた。それは、今までのチープな作り物とは比べ物にならないほどリアルな、血塗れのゾンビだった。腐り落ちたような皮膚、虚ろでありながら爛々と光る眼、そして、私たちの耳元で響き渡る、地の底から湧き上がってくるような唸り声。


 「「きゃああああああああっ!」」


 予期せぬ恐怖に、私たちの悲鳴が綺麗に重なった。思考よりも先に、身体が動く。私は反射的に燈子ちゃんの身体にしがみつき、彼女もまた、私を庇うように強く抱きしめていた。


 ごくん、ごくん、と、自分の心臓が喉から飛び出してきそうなほど激しく脈打っている。耳元で聞こえる燈子ちゃんの悲鳴と、彼女の心臓の音も、同じくらい速く、そして力強かった。腕の中で震える私の身体を、燈子ちゃんが力強く抱きしめてくれる。その温もりと、頼りがいのある腕の力に、恐怖は少しずつ薄れていった。


 「……はぁ、びっくりした……お疲れ様でしたー」


 ゾンビは、急に素に戻ったような気の抜けた声でそう言うと、ぺこりとお辞儀をして暗闇の向こうへと消えていった。どうやら、出口での不意打ちを担当する、とびきりリアルな役者さんだったらしい。


 私たちは、ゾンビが去った後も、しばらくの間、固く抱き合ったまま動けなかった。静まり返った通路に響くのは、お互いの荒い息遣いと、早鐘を打つ心臓の音だけ。恐怖は去ったはずなのに、胸のドキドキは一向に収まる気配がない。


 私は、燈子ちゃんの胸に顔を埋めたまま、この高鳴りの正体を考えていた。確かに、さっきのは怖かった。でも、それだけじゃない。燈子ちゃんに抱きしめられた瞬間の、あのどうしようもない安心感。彼女の腕の中にいる、今のこの状況。このドキドキは、恐怖からくるものなんかじゃない。燈子ちゃんが、こんなにも近くにいるからだ。


 失敗だと思っていたお化け屋敷。でも、最後の最後で、私の計画は、思いがけない形で成功してしまったのかもしれない。この激しい鼓動が、何よりの証拠だった。


 ゆっくりと身体を離し、お互いの顔を見合わせる。二人とも、少し潤んだ瞳で、顔は真っ赤だった。そして、どちらからともなく、ふふっと照れくさそうな笑いが漏れた。


 このドキドキは、恋だ。


 言葉にはしなくても、その確信が、私たちの間に確かに生まれていた。告白への決意は、もう、誰にも止められない強い想いへと変わっていた。


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#### 第8話:『小さな英雄』


 お化け屋敷での一件で、私たちの心はすっかり解きほぐされていた。先ほどの気まずさはどこへやら、今はただ、互いの体温が伝わる繋がれた手が心地よい。花火が始まるまで、まだ少し時間がある。燈子ちゃんが「花火がよく見える穴場を知ってるんだ」と言って、私を賑やかな参道から少し外れた、静かな小道へと導いてくれた。


 その道を歩いている時だった。どこからか、子供のしゃくり上げるような泣き声が聞こえてきたのは。声のする方へ目を向けると、提灯の明かりが届かない、少し薄暗くなった木の根元に、小さな男の子が一人でうずくまっていた。


 「どうしよう……」


 私は、どう声をかければいいか分からず、立ち尽くしてしまった。可哀想だとは思うけれど、人見知りの性格が災いして、最初の一歩が踏み出せない。そんな私を尻目に、燈子ちゃんは迷うことなく行動した。


 彼女は、繋いでいた私の手をそっと離すと、男の子のそばまで歩み寄り、ゆっくりとしゃがみ込んだ。その背中は、私なんかが到底敵わないくらい、頼もしくて、優しさに満ちていた。


 「どうしたの? 迷子になっちゃったのかな」


 燈子ちゃんの声は、驚くほど柔らかく、そして穏やかだった。その声に安心したのか、男の子は顔を上げ、しゃくりあげながら「……おかあさん、いないの」と途切れ途切れに訴える。


 「そっか。大丈夫だよ。お姉さんが一緒に探してあげるからね」


 そう言って、男の子の頭を優しく撫でる燈子ちゃんの姿に、私は完全に心を奪われていた。いつもクラスの中心で、太陽みたいに笑う快活な彼女とは違う、聖母のような慈愛に満ちた一面。私の知らない燈子ちゃんの姿を見るたびに、どうしようもなく、彼女を好きだという気持ちが深くなっていく。


 「咲良、ごめんね。本部に連絡して迷子のアナウンスをお願いしてくるから、少しだけこの子のそばにいてあげてくれる?」


 燈子ちゃんは、私にそう言うと、すぐに近くにいた警備員のもとへ駆け寄っていった。残された私は、おずおずと男の子の隣にしゃがみ込む。何を話せばいいか分からず、とりあえず自分のハンカチを差し出すと、男の子は素直にそれを受け取ってくれた。


 「……あ、見て。金魚、きれいだね」


 近くの屋台の金魚すくいを指差すと、男の子はこくりと頷く。言葉にはならないけれど、二人で一緒に提灯の明かりを眺めていると、少しだけ男の子の表情が和らいだ気がした。


 ほどなくして、燈子ちゃんが戻ってきた。そして、それから数分も経たないうちに、「たけしくーん!」と叫びながら、血相を変えたご両親がこちらへ走ってくるのが見えた。


 「本当に、ありがとうございました……! なんとお礼を言ったら……!」


 何度も頭を下げるご両親に、私たちは「見つかってよかったです」と笑顔で返す。男の子が、最後に私たちに向かって小さな手でバイバイと手を振ってくれた。


 家族の背中を見送った後、燈子ちゃんは「よかったね」と言って、再び私の手をぎゅっと握ってくれた。


 「ありがとう、咲良。咲良がいてくれて、心強かったよ」

 「ううん、私は何も……。燈子ちゃんが、すごかったんだよ」


 すごい、なんて言葉では足りないくらい、今日の燈子ちゃんは輝いて見えた。彼女は、私の小さな英雄だ。この出来事は、私たちの間にあった友情という言葉を、より確かな絆へと変えてくれた。もうすぐ、この想いを伝える時が来る。その予感が、私の胸を熱くしていた。


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#### 第9話:『かき消された言葉』


 迷子の男の子を無事に家族の元へ送り届けた後、私たちは燈子ちゃんが言っていた「穴場」へと急いでいた。そこは、屋台が並ぶ賑やかなエリアから少し離れた、神社の裏手にある小さな丘の上だった。眼下には祭りの灯りが広がり、空を遮るものは何もない、絶好の観覧席だ。


 腰を下ろして息を整えていると、ヒュルルル、という軽やかな音と共に、夜空に一本の光の筋が伸びていった。次の瞬間、パンッ、と小気味よい破裂音を響かせ、夜空に真っ赤な大輪の花が咲く。それを合図に、次々と色とりどりの花火が打ち上がり始めた。


 最高のムード。心臓が、打ち上がる花火の音に合わせて、どくん、どくんと大きく脈打っている。今しかない。私たちは、まるで示し合わせたかのように、同時に互いの顔を見つめた。


 「あの、燈子ちゃん……私、話が」

 「ねえ、咲良……私、話したいことが」


 言葉が、綺麗に重なった。思わず二人して顔を見合わせ、はにかむ。「ごめん、どうぞ」と譲り合うけれど、どちらも次の一言がなかなか出てこない。


 「……じゃあ、一緒に言おっか」


 燈子ちゃんが、悪戯っぽく笑いながら提案する。私は、こくりと小さく頷いた。もう、後には引けない。私は震える唇をきゅっと引き締め、覚悟を決めて燈子ちゃんの瞳をまっすぐに見つめ返した。


 ひときわ大きな花火が、高く、高く、空へと昇っていく。あの花火が開く瞬間に、伝えよう。


 光の筋が頂点に達し、一瞬の静寂が訪れる。私たちは、同時に息を吸い込んだ。


 「「好き!」」


 想いを乗せた声が、唇から放たれる。


 ――ドオオオオオオオオンッ!


 けれど、その言葉は、今までで一番大きな花火の轟音に、跡形もなくかき消されてしまった。空いっぱいに広がった黄金色の光が、私たちの驚いた顔を、一瞬だけ、鮮やかに照らし出す。


 ああ、失敗した。


 せっかく勇気を振り絞ったのに、一番肝心な言葉が届かなかった。黄金色の光が夜空に散り、再び静寂が戻ってきた時、私たちはただ、呆然と見つめ合うことしかできなかった。


 気まずい沈黙が流れる。でも、その時だった。互いの真剣な眼差しと、花火の光に照らされた唇の動きが、脳裏に焼き付いて離れないことに気づいたのは。


 (……今、燈子ちゃんも、同じことを言ったんじゃ……?)

 (……今の、咲良の口の動き、もしかして……)


 声は聞こえなかった。でも、確かに見えた。互いの表情に浮かんでいた、同じ熱量。同じ覚悟。言葉はなくとも、心と心は、確かに繋がったような気がした。失敗に終わったはずの告白は、私たちの胸に、言葉以上の確かな手応えを残していた。


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#### 第10話:『言葉のパズル』


 花火の轟音の余韻が、耳の奥でまだ微かに響いている。私たちは、あの衝撃的な瞬間から時が止まってしまったかのように、ただ黙って互いの顔を見つめていた。頬が熱い。それはきっと、次々と夜空に咲く花火の光に照らされているせいだけではない。


 (聞こえなかった、よね……)

 (でも、咲良も、何か言ってくれた……)


 気まずさと、期待と、ほんの少しの絶望が入り混じった、奇妙な沈黙。もう一度言うべきなのだろうか。でも、もし勘違いだったら? そんな勇気は、今の私にはなかった。空気が張り詰めて、息苦しい。その沈黙を破ったのは、意外にも、私の、か細い声だった。


 「……あの、さっきの……二文字の言葉だった?」


 直接「なんて言ったの?」と聞くのが怖くて、回りくどい質問になってしまった。でも、私にはこれが精一杯だった。燈子ちゃんは、私のその問いに一瞬だけ目を丸くしたが、すぐにその意図を察してくれたらしい。彼女の唇に、ふわりと優しい笑みが浮かんだ。


 「うん。そうだよ」


 燈子ちゃんはこくりと頷くと、少しだけ身を乗り出して、私の顔を覗き込むようにして続けた。


 「……『す』から始まってる言葉」


 その一言が、私の心臓をわしづかみにした。『す』。間違いない。私の言った言葉と、同じ始まりの音。胸の奥から、堰を切ったように喜びと希望が湧き上がってくる。もう怖くなかった。私は、燈子ちゃんの言葉に答えるように、震える声で、でもはっきりと告げた。


 「……私は、『き』で終わってる」


 私たちの間で、最後のピースがカチリと嵌った。『す』から始まって、『き』で終わる、二文字の言葉。答えは、たった一つしかない。


 答えが分かった瞬間、どちらからともなく、くすりと笑いがこぼれた。それはすぐに、抑えきれない、心の底からの笑い声へと変わっていく。


 「あははっ……!」

 「ふふふ……!」


 なんだ、やっぱり。私たちの想いは、同じだったんだ。張り詰めていた空気が一気に和らぎ、照れくささと嬉しさが混じった、温かい空気が私たちを包み込む。花火の音さえも、まるで私たちの気持ちを祝福してくれているかのように、華やかに夜空を彩っていた。


 一頻り笑い合った後、燈子ちゃんは、潤んだ瞳で私をまっすぐに見つめた。そして、悪戯っぽく笑いながら、私の手を、もう一度、今度はさっきよりもずっと強く、握りしめてきた。


 「じゃあ、二文字続けて言ってみよう」


 その言葉は、次のステップへの、甘い合図だった。私は、胸いっぱいの幸福感と共に、力強く、頷き返した。


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#### 第11話:『耳元での再告白』


 燈子ちゃんの「続けて言ってみよう」という言葉に、私は力強く頷いた。でも、ここはまだ、丘の上で、他の誰かがいつやって来てもおかしくない場所だった。私たちの気持ちを確かめ合うのに、この場所は少しだけ、開けっ広げすぎている。


 そう思ったのは、どうやら燈子ちゃんも同じだったらしい。彼女は、私の手を引くと、「こっち来て」と小さな声で囁き、私を丘の裏手へと導いた。祭りの喧騒と花火の音が、だんだんと遠ざかっていく。私たちが足を止めたのは、神社の本殿の裏手にある、大きな木の影だった。提灯の明かりもほとんど届かない、二人だけの、静かで暗い空間。


 ここなら、もう誰にも邪魔されない。


 燈子ちゃんは、私の手をおもむろに離すと、今度は私の両肩にそっと手を置いた。ぐっと、二人の間の距離が縮まる。心臓の音が、静寂の中でいやに大きく響いていた。


 燈子ちゃんが、ゆっくりと顔を近づけてくる。その顔が、私の耳元で止まった。すぐそばで、燈子ちゃんの少しだけ弾んだ、甘い呼吸の音が聞こえる。髪が、肌が、吐息が触れそうなほどの至近距離に、全身が粟立つのを感じた。


 そして、くすぐったいほどの温かい息と共に、彼女の声が私の耳に直接流れ込んできた。


 「せーの」


 その合図を待っていたかのように、私も、震える唇を燈子ちゃんの耳へと寄せた。彼女の柔らかな髪が、私の頬をくすぐる。同じように、燈子ちゃんも私の耳へと唇を寄せているのが、すぐそばの気配で分かった。


 私たちは、同時に、想いを囁いた。


 「好き」


 燈子ちゃんの声が、音としてではなく、温かい振動として、私の鼓膜を、そして心を、直接震わせた。花火の音にかき消された不確かな言葉じゃない。今、確かに届いた、紛れもない彼女の想い。その言葉の重みに、胸が締め付けられるように熱くなる。


 私の囁いた「好き」という言葉も、同じように、燈子ちゃんの心に届いただろうか。そう願わずにはいられなかった。


 ゆっくりと、互いの顔を離す。暗闇の中、目の前にある燈子ちゃんの瞳が、潤んで、きらりと光ったのが見えた。もう、言葉はいらなかった。


 この瞬間、私たちの関係は、確かに変わった。ただの友達でも、親友でもない。夏の夜の暗がりで、ひっそりと、でも、どうしようもなく確かに、私たちは恋人になったのだ。

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#### 第12話:『帰り道の最初のキス』


 祭りの喧騒を背に、私たちは静かな夜道を並んで歩いていた。再び固く繋がれた手と手の間には、さっきまでのぎこちなさはもうない。代わりに、じんわりと広がる幸福感と、少しだけ照れくさいような、甘い空気が流れている。


 言葉数は少なかったけれど、沈黙は少しも苦ではなかった。むしろ、心地よいくらいだった。時折、ちらりと隣を歩く燈子ちゃんの横顔を盗み見る。街灯の柔らかな光に照らされたその表情は、いつもよりずっと穏やかで、優しく見えた。そのたびに、私の胸の奥がきゅうっと愛おしさで満たされていく。この道が、永遠に続けばいいのに。そんな、叶うはずもないことを願っていた。


 けれど、無情にも、見慣れた我が家の門が、道の先に見えてきてしまった。魔法のような夜が、もうすぐ終わってしまう。


 家の前で、私たちは足を止めた。名残惜しくて、どちらからも「じゃあね」の一言が切り出せない。繋いでいた手をそっと離すと、夏の夜の生ぬるい空気が、急に心細く感じられた。


 「……楽しかったね、今日」

 「うん、すごく……」


 ありきたりな言葉を交わしながら、別れのタイミングをはかりかねて、ただ黙って見つめ合う。胸いっぱいの想いを、どう言葉にすればいいか分からない。溢れ出しそうな感情のままに、私はぽつりと、心の底からの言葉を呟いた。


 「……今日は、一生忘れない」


 私のその言葉に、燈子ちゃんは優しく微笑んでくれた。そして、一歩、私の方へと歩み寄る。


 「私もだよ、咲良。絶対に忘れない」


 静寂が、私たちの間に落ちる。遠くで鳴く虫の声と、お互いの心臓の音だけが、やけに大きく聞こえていた。


 次の瞬間、燈子ちゃんが、ふわりと私の身体を抱きしめた。驚いて身を固くする私を、彼女は壊れ物を扱うかのように、優しく、でも力強く、腕の中に閉じ込める。燈子ちゃんの浴衣から香る、甘くて清潔な匂い。私のものよりも少しだけ高い体温。その全てが、私の心を蕩かしていく。


 燈子ちゃんが、そっと私の顎に手を添え、顔を上向かせる。街灯の光を浴びてきらきらと輝く、真剣な瞳。その瞳に吸い込まれるように、私は、ゆっくりと目を閉じた。


 唇に、柔らかくて、温かい感触。それが、私たちの初めてのキスだった。


 それは、祭りで食べた綿あめみたいに甘くて、でも、頬を伝った嬉し涙のせいか、ほんの少しだけ塩辛い、特別な味がした。この味を、この温もりを、私はきっと、一生忘れない。私たちの新しい関係の始まりを告げる、長くて、短い、初めてのキスだった。


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#### 第13話:『秘密の公園』


 唇が離れた後も、私たちはしばらくの間、互いを抱きしめ合ったまま動けなかった。初めてのキスの甘い余韻が、全身を蕩かすように巡っていく。このまま燈子ちゃんと別れて、一人で部屋のベッドに戻るなんて、到底できそうになかった。この魔法のような夜を、まだ終わらせたくない。


 その想いは、燈子ちゃんも同じだったらしい。彼女は、私の手を引くと、言葉もなく歩き出した。導かれるままについていくと、そこは私の家のすぐ近くにある、夜は誰も訪れない小さな公園だった。入り口にある古びた街灯の光が、かろうじて公園の入り口を照らしているだけで、その奥は深い闇に包まれている。そこは、世界から切り離された、私たち二人だけの秘密の空間だった。


 私たちは、ブランコの前に並んで腰掛ける。ぎ、と錆びた音が、静寂の中でやけに大きく響いた。言葉はなかった。ただ、互いの熱っぽい視線だけが、暗闇の中で交差する。先に動いたのは、燈子ちゃんだった。彼女は、おもむろに立ち上がると、私の前に膝立ちになり、私の浴衣の帯に、そっと指をかけた。それは、求めるような、それでいて、私の答えを待っているような、優しい手つきだった。


 私は、こくりと、唾を飲み込んだ。答えの代わりに、震える手で、燈子ちゃんの帯へと手を伸ばす。それが、私の同意の証だった。


 互いの帯がはらりと解かれ、袷(あわせ)が緩む。その隙間から、燈子ちゃんがためらうように、彼女の少し汗ばんだ手を差し入れてきた。滑らかな指先が、素肌の上を走り、下着の薄い布地を越えて、私の熱く湿った場所へと辿り着く。


 「……ぁ……っ」


 吐息が、漏れた。初めて触れられる、体の奥。柔らかな肌の感触、すぐ側で聞こえる燈子ちゃんの熱い吐息、そして、私の最も柔らかな部分を優しく探る彼女の指。言葉にならない情熱が、私たちの間を行き交う。私もまた、燈子ちゃんの浴衣の隙間から手を差し入れ、彼女の熱の源へと指を伸ばした。触れた場所は、私と同じように、愛しい人の訪れを待っていたかのように、熱く濡れていた。


 暗闇の中、私たちは互いの身体を確かめ合う。恥ずかしさよりも、愛おしさが勝っていた。触れるたびに、触れられるたびに、甘い痺れが背筋を駆け上り、快感が全身を支配していく。それは、友情とはまったく違う、もっと深く、もっと濃密な繋がりだった。


 やがて、同時に訪れた小さな昂ぶりの後、私たちは乱れた呼吸を整えながら、ぐったりと互いの身体を寄せ合った。言葉はなくとも、心と身体が、決して解けることのない強い絆で結ばれたことを、私たちは確かに感じ取っていた。この夏の夜の、誰にも言えない秘密。それが、私たちの関係を、もう引き返せないほどに、確固たるものにしていた。


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#### 第14話:『日常の秘密』


 公園の暗がりで燈子ちゃんと別れた後、私はまるで夢見心地のまま、自分の家の玄関のドアをそっと開けた。唇にはまだ彼女の感触が、身体の奥には甘い疼きが、確かに残っている。今日一日で起きた出来事のすべてが、現実とは思えないくらいに濃密で、幸福だった。


 心は、今世紀最大の幸福感で満ち足りている。ふわふわとした足取りで下駄を脱ぎ、静かに廊下を歩いて自室へ向かおうとした。リビングのドアが少しだけ開いていて、中からテレビの音が漏れ聞こえてくる。


 「ただいま……」


 起こさないように、小さな声で呟く。すると、ソファでくつろいでいた母が、ひょっこりと顔を出した。


 「おかえりなさい、咲良。楽しかった?」

 「う、うん……」


 平静を装って頷くけれど、きっと私の顔は、自分でも分かるくらいに緩みきっていることだろう。早くこの場を通り過ぎて、一人で今日の出来事を反芻したい。そう思って、足早にリビングの前を通り過ぎようとした、その時だった。


 「あら、咲良」


 母の、何の変哲もない、普段通りの声。


 「口に紅生姜がついているわよ」


 その一言が、私の頭の中で、雷鳴のように響き渡った。


 ――べに、しょうが……?


 一瞬、言葉の意味が理解できなかった。思考が、完全に停止する。紅生姜? なに、それ。隠語? キスの跡のことを、そんな風に言うの? ど、どうしよう。お母さんに、全部バレてる……!?


 さああああ、と音を立てて、全身の血液が顔に集中していくのが分かった。心臓は、警鐘のように激しく脈打ち、立っているのがやっとだった。確かに、祭りの序盤で燈子ちゃんと焼きそばを食べた。でも、そんなのは何時間も前の話だ。今、母が指摘しているのは、絶対に、さっきの、燈子ちゃんとの……。


 「えっ、あ、う、うん! そ、そう! 焼きそば! 食べたから!」


 自分でも何を言っているのか分からないくらい、しどろもどろになって答える。声は情けないくらいに裏返っていた。両手で口元を隠しながら、私は母から視線を逸らす。


 しかし、そんな私のパニックをよそに、母は「あらそう。早く顔を洗ってきなさいな」とあっさり言うと、すぐにテレビへと視線を戻してしまった。


 私は、逃げるようにその場を後にして、自分の部屋へと駆け込んだ。バタン、とドアを閉め、その場にへたり込む。そして、恐る恐る、姿見の前へと歩み寄った。


 鏡に映る自分の顔を、食い入るように見つめる。すると、確かに、唇の端に、米粒よりも小さな、鮮やかな紅い欠片が付着していた。


 ――……本当に、紅生姜だった。


 どっと、安堵の息が漏れる。と同時に、自分の勘違いが恥ずかしすぎて、顔から火が出そうだった。私は、鏡の前で真っ赤になったまま、しばらく動けなかった。


 非日常的で、特別な一夜。その思い出が、こんなにも滑稽な形で、私の日常に溶け込んでいく。この小さな秘密を抱えて生きていくのだと思うと、恥ずかしいけれど、なんだか少しだけ、胸が温かくなった。


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#### 第15話:『未来の約束』


 翌朝、私は夏の高い日差しが部屋に差し込む、ずいぶん遅い時間に目を覚ました。身体は昨日の疲れで少し重かったけれど、心は羽が生えたように軽やかだった。ベッドの上で身体を起こし、ぼんやりと窓の外を眺める。昨夜の出来事が、夢ではなかったという確かな実感。唇に、肌に、まだ燈子ちゃんの温もりが残っているような気がして、無意識に指先でそっと触れた。


 これから、どうなるんだろう。燈子ちゃんとは、どんな顔をして会えばいいんだろう。期待と、同じくらいの不安が胸の中で渦巻いていた、その時だった。


 枕元に置いていたスマートフォンが、ぶるぶると震えながら軽快な着信音を鳴らし始めた。画面に表示された『鷲森 燈子』という名前に、私の心臓が、どくんと大きく跳ねる。ど、どうしよう。心の準備が。私は慌てて数回深呼吸をすると、震える指で通話ボタンをスライドさせた。


 「……もしもし」


 自分でも驚くほど、声が上ずってしまった。受話器の向こうから、一瞬の沈黙の後、燈子ちゃんの、少しだけ眠そうな、優しい声が聞こえてきた。


 「あ、咲良……おはよう」

 「お、おはよう……」


 ぎこちない挨拶を交わした後、また、甘くて気まずい沈黙が流れる。その沈黙を破ったのは、燈子ちゃんの方だった。


 「あのさ……昨日のこと、なんだけど……その……夢じゃ、ないよね?」


 少しだけ不安そうな、確認するようなその声に、私の胸がきゅっと締め付けられる。燈子ちゃんも、同じ気持ちでいてくれたんだ。


 「うん……夢じゃ、ないよ。私も……すごく、嬉しかった」


 そう答えるのが精一杯だった。受話器の向こうで、燈子ちゃんがほっと息を吐く気配が伝わってくる。「そっか、よかった」と呟くその声は、心からの喜びに満ちていた。昨日までの私たちとは違う、恋人同士の、初々しい会話。その一つ一つが、恥ずかしくて、でも、どうしようもなく幸せだった。


 「じゃあさ、夏休み、まだ一週間くらいあるし、どっか行かない? その……恋人として、の、デート」


 燈子ちゃんのその提案に、私の心は一気に舞い上がった。


 「い、行きたい! プールとか、どうかな?」

 「いいね、プール! 映画も観たいな。咲良と観たい映画、いっぱいあるんだ」

 「私も……! あと、いつか……二人だけで、ちょっと遠くまで旅行とか……してみたいな」


 口に出してから、少し大胆すぎたかと恥ずかしくなる。けれど、燈子ちゃんは「それ、最高じゃん!」と満面の笑みが目に浮かぶような声で言ってくれた。これから二人で経験するであろう、たくさんの「初めて」。その可能性を想像するだけで、胸が期待で張り裂けそうだった。


 電話を切る間際、燈子ちゃんの声が、ふと、優しく、真剣なトーンに変わった。


 「咲良、本当にありがとう。……これから、よろしくね」


 その真っ直ぐな言葉に、目頭が熱くなる。私も、胸いっぱいの感謝と愛情を込めて、答えた。


 「ううん、私の方こそ。燈子ちゃん、ありがとう。……これから、よろしくね」


 通話を終えた後、私はスマートフォンを胸に抱きしめたまま、ベッドに倒れ込んだ。天井の木目が、なぜだかきらきらと輝いて見える。


 私たちの、新しい未来が、今、始まったのだ。


---


#### 第16話:『新しい日常』


 あれから、夢のような夏休みはあっという間に過ぎ去っていった。私たちは、約束通りにプールへ行き、映画を観て、他愛ない話で笑い合った。そのすべてが、恋人として過ごす初めての経験で、毎日が宝物のようにきらきらと輝いていた。


 そして、夏が終わりを告げ、新学期が始まった。


 久しぶりに袖を通す制服。見慣れた教室。友達との、いつも通りの朝の挨拶。何もかもが夏休み前と同じはずなのに、私の目には、世界のすべてがまったく違う色に見えていた。


 授業中、ふと視線を感じて顔を上げると、少し離れた席の燈子ちゃんと目が合った。彼女は、誰にも気づかれないように、私だけに分かる、ほんの小さな笑みをくれる。それだけで、私の心は温かい幸福感で満たされて、頬が緩むのを必死で堪えなければならなかった。


 放課後のチャイムが鳴り響く。クラスメイトたちが部活や寄り道の話で盛り上がる中、燈子ちゃんが当たり前のように私の机までやって来た。


 「咲良、帰ろっか」


 「うん」


 その短いやり取りが、私たちの新しい日常だった。校門を出て、人目が少なくなった道で、燈子ちゃんが、ごく自然に私の手を握る。指を絡め合う、この温もりが、今ではすっかり当たり前になっていた。友達として隣を歩いていた、見慣れたはずの帰り道。それが今は、恋人として手を繋いで歩く、特別な道に変わっていた。


 その日、私たちはすぐには帰らず、誰もいなくなった教室へと足を向けた。窓から差し込む夕日が、教室全体を茜色に染め上げている。私たちは、窓際に並んで、その美しい光景をただ黙って眺めていた。


 「……夏休み、終わっちゃったね」

 「うん。でも、秋も、冬も、これからずっと一緒だね」


 燈子ちゃんが、窓ガラスに映る私の顔を見て、優しく微笑む。私も、彼女の隣で、同じように笑い返した。これから始まる未来。文化祭、体育祭、受験勉強。楽しいことも、大変なことも、きっとたくさんあるだろう。でも、この人が隣にいてくれるなら、何も怖くない。


 私たちは、どちらからともなく、もう一度、強く手を握り合った。


 「さ、行こう」


 燈子ちゃんの声に促され、私たちは夕焼けに照らされた教室を後にする。廊下に伸びる二つの影は、ぴったりと寄り添い、一つになっていた。


 夏の終わりに始まった私たちの恋は、今、かけがえのない、新しい日常へと続いていく。


 【完】


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夏の終わりに、君を好きと知った 舞夢宜人 @MyTime1969

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