第6話 茶色のタイルフィッシュ
美術室を立ち去ろうとした時、カタンという音に足を止めた。振り返ると壁に立てかけてあったA3サイズ程のキャンバスが倒れている。絵が描かれている方の面が床と接するように伏せられているせいで何が描かれているかは見て取れない。
美術室に入った時、気にならなかったのは布がかけて隠れていたからだろう。キャンバスの隣には白い布が落ちている。
何故だかはわからない。夏菜はそのキャンバスの中身が無性に気になった。
「どうしたの? 夏菜ちゃん、行こう?」
立ち止まる夏菜に天が退室を促す。
1、2秒の沈黙の後、夏菜はキャンバスまでやってきて、身を屈めた。
くるりと180度裏返すと、そこには1匹の魚が体で円を作るようにくるりと泳いでいる姿が中心に描かれていた。
細長い楕円形の身体を滑らかにしならせ、長い背鰭が揺れている。小さい顔に対してクリクリとした大きな目は特徴的でその表情は可愛らしい。
魚背景にはコバルトブルーとターコイズブルーのグラデーションを孕んだ海がキャンバス一面に広がっている。美しい海原だった。その海の蒼さが美しいからこそ、中央の魚に夏菜は違和感を感じた。
泳いでいる1匹の魚は茶色いのだ。
地味で、土のように濁った色を
「ねえ、これ天の作品だよね?」
キャンバスの側面に『Sola』のサインが入っていることに気が付いた夏菜は油絵に視線を固めたまま尋ねる。
「うん。そうだけど、どうして?」
「いやこの魚、なんでこんなに地味なのかなって思って」
その質問に天の瞳が揺れた。
ハッとするような顔とも違う。何か信じられないほどの衝撃を受けたような、動揺。夏菜は咄嗟に自分が聞いてはいけない質問をしたのだと悟った。
「いや、全然変な意味じゃないんだよ!? ただ海がすごく綺麗なのに魚は何でこの色なのかなって」
必死に言い訳しようとしている夏菜に天が歩み寄り、キャンバスを挟んで対峙する。俯き、表情の読めない天に気圧され、思わずキャンバスを差し出してしまう。
天はそれを無言で受け取ると、ゆっくりと視線を上げて夏菜を見つめた。
「もしさ、もしこの絵の魚が夏菜ちゃんの前を泳いでいて、私がこの魚を殺してって言ったら、どうする?」
「え?」
天の質問が夏菜には全く理解できない内容だった。
「殺すってこの魚を? なんでそんなこと天がお願いするのよ」
「私がこの魚のこと嫌いだからだよ」
間髪を入れずに、ぴしゃりと天が言葉を続けた。ピリついた雰囲気が美術室を包み、夏菜はゴクリと唾を飲む。
「自分で描いたこの魚のこと、天はそんなに嫌いなの?」
「うん、嫌い。見ていてイライラしてくる。夏菜ちゃんだってこの魚のこと地味って言ったじゃない? 私もそう思う。もっと綺麗な蒼で描けばよかった。私の目の色みたいに」
白く細い指先を自身の顔に向けて、蒼い瞳を指差す。
「そ、そうだよ。天が気に入らないならさ、天の綺麗な瞳と同じ蒼い色で描きなよ。絶対、海の色とよく合うよ」
天のただならぬ雰囲気に押され、夏菜は首を縦に振りながら肯定した。事実、夏菜も茶色い魚より蒼い魚の方が天の作品らしくて良いと思っていた。
「じゃあさ、夏菜ちゃん。……この絵、破いてよ」
そう言うと、天は美術室のテーブルに置いてあったデザインナイフを夏菜に差し出した。
「え?」
銀色の光沢が蛍光灯の光を反射させている。尖った刃先はキャンバスを引き裂くには充分過ぎる鋭利さがあった。
戸惑いを隠せず夏菜が動けずにいると、天はナイフを優しく握らせる。
「思いっきり引き裂いちゃってよ。夏菜ちゃんもこの魚、好きじゃないでしょ」
床を見つめていた夏菜の視線に、不意に天の蒼い瞳が飛び込んでくる。天が夏菜の顔をしゃがんで覗き込んでいた。
蒼の視線が夏菜を掴んで離さない。
ぞくりとした感情が背中を駆け上がり、心臓の鼓動がバクバクと強くなっているのを感じる。夏菜は天の願い通り目の前の魚を殺すほかない。
視線を魚の方に移すと目が合った気がした。黒い眼は刃を向けている夏菜に敵意を抱いているように思えてきて胸が痛む。
「いいんだね? じゃあいくよ」
作品を台無しにしてしまって本当にいいのかと夏菜が確認するが、天は目を伏せ頷いた。
その仕草に夏菜は意を決して、思い切り、茶色い身体にナイフを突き立てた。
ビリッという音共にキャンバスが大きく裂ける。
蒼い海で泳いでいた魚は無残にも腹を引き裂かれてしまっていた。
さっきまでは雄大な海を生き生きと泳いでいた魚の姿が、死骸となって浮かんでいるように見えた。
大きな瞳は殺した張本人でもある夏菜を恨んでいるように感じて、思わず目を逸らす。
「はい、夏菜ちゃんありがとう。これ、失敗作だったからさ元々破っちゃおうって思ってたんだよ。嫌な思いさせちゃってごめんね」
ぱん、と両手を合わせて天がごめんねと謝る。さっきまでの張り詰めた雰囲気はすっかりどこかに消えていた。
「なによもう。びっくりした。天の悪趣味に付き合わせないでよ」
ホッと大きく息を吐きながら、夏菜は胸に手を当てて安心した様子を示した。その姿に天は何度もごめん、ごめんと謝った。
「ふふ。でも夏菜ちゃん、いくらなんでも焦り過ぎだよ」
「いや、親友の絵を破れって言われたら誰だって焦るって」
からかわれたと悔しそうにする夏菜に天は笑いを堪えることもなく肩を震わせている。
ひとしきり笑ったあと天は夏菜に手を差し出し、美術室を今度こそ後にした。
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