へびがみさま
花村鈴葉
第1話
雪深い所に、ある信心深い村があった。
その村には『へびがみさま』という白蛇の神様が祀られており、日常の些細なことまで神様の御業だと信じられていた。
へびがみさまは青白い体に赤い目と鋭い牙をもち、長い舌をしているという。
村人たちはなにか良いことが起これば、へびがみさまのおかげだと感謝し手を合わせ、悪いことがあれば、へびがみさまが祟ったのだと恐怖した。
その村には掟があり、一つ目に、宮守と宮守に許可されたもの以外は社より向こう側の山の奥へと入っては行けないというもの。二つ目に、悪さをしたりその姿を見たものは、へびがみさまが巣に連れ帰り骨まで喰ってしまう、というものだ。
山では度々何かの影が目撃され、その度村人はへびがみさまに供物を捧げた。
村では色々なものを不吉だと言って退ける流れがあった。が、その中でも特に赤い色はへびがみさまの瞳と同じ色だとして、神聖なものであるが故に、身近に置くと災いが起こると言われていた。
村人たちは赤い花が咲くと、すぐに手折って燃やしてしまい、血が出るほどの怪我人が出ると、小屋に閉じ込めて治るまで外に出られないようにした。
「お雪ちゃーん」
呼ぶ声に振り返ったのは、お雪という名の少女。年の頃は十六で、たっぷりとした黒髪を後ろでひとつに束ねている。
「どうしたの、お花ちゃん」
「今からへびがみさまのお社へお参りに行くの。一緒に来ない?」
お花はお雪の幼なじみで、顎のところでぱつんと切った髪に、いつも小さな花の髪飾りを付けている。
「雪ねぇもくるよね?」
お花の横からひょっこりと、お花の弟の信が顔を出す。
「うん、行こうか」
お雪はにっこり笑うと、信の頭を撫でた。
「父ちゃんの病気が早く治りますように……」
お花が呟くと、三人は社の前で手を合わせ、頭を下げた。
お雪は暫く祈ったあと、目を開けて社を見た。
赤く塗られた社の中には左右に赤い蝋燭が一本ずつと、三つの赤い器に水と酒、赤米の供え物、そして中央には白蛇さまの像が置いてあり、その目の部分は赤く塗られている。
赤色が不吉とされるこの村で、その色が一面に使われた恐ろしく異質なこの社は、へびがみさまを象徴する神の色として畏怖の念を持って村人が気安く立ち入らぬよう、敢えて例外的に赤が一面に使われていた。そして、その色がない村との対比で、より一層それが際立って見えるのであった。
また、へびがみさまの本体は、この社の向こう側、山の奥に住んでいると信じられており、宮守が供物を捧げに社へ入る時、へびがみさまは下りてこられると言われていた。
「ねえねえ雪ねぇ」
信がお雪の着物をつんつんと引っ張って言った。
「どうしたの?」
「悪いことをしたら、へびがみさまに食べられちゃうんでしょ?」
「そうねぇ、皆はそう言うけれど」
お雪は亡くなった母親の言葉を思い出す。
『へびがみさまによくお参りなさい。きっとあなたをまもってくれるわ』
「私は、へびがみさまは優しい神様だと思っているわ」
「そっかぁ」
ふんふんと頷く弟の横でお花が、
「でも悪さしちゃだめよ」
窘めるように言った。
お雪はお花たちと別れると家路に着いた。
お雪は三年前に母親を亡くし、ほんの一年前に父親も亡くしていた。初めは一人で暮らすのが寂しいと泣いて過ごしていたが、ようやく一人の暮らしにも慣れてきた頃だった。
お雪が自分の家の近くまで戻ってくると、家の戸の前に小さな何かがもぞもぞと動いているのが見えた。近づいてみると、
「うさぎ?」
白いうさぎが雪の中に一羽、うずくまっている。その体には血が滲んでいた。
「酷い怪我……」
お雪はうさぎを抱き上げ、家の中へ入った。お雪が手当てをしてやると、うさぎはお雪が用意してやった寝床の上で眠り始めた。
お雪は村の信仰に反感を持っていた。怪我人の血を見れば、それを心配するより先に、祟りだなんだと騒ぎだす。お雪はそれが許せなかった。
お雪はそれから毎日うさぎの面倒をみてやった。その甲斐あって、うさぎは段々と元気を取り戻していった。
ぴょんぴょんと跳ねることができるようになったので、そろそろ山へ返してあげようと、お雪はうさぎを外へ連れ出した。社の所まで連れてくると、お雪はうさぎに、
「さあ、お行き」
と声をかけ、しゃがんで山の奥へ行くように促した。
うさぎはお雪の手からぴょんと飛び出て山の中へと駆けだす。その瞬間、うさぎを狙ってどこからともなく野犬が飛び出してきた。
「だめ!」
お雪は咄嗟に野犬に石を投げた。野犬は驚いてどこかに走っていったが、雪の上にはうさぎの血の跡が残っている。
お雪は怯えて逃げるうさぎを追って走り出した。
落ちている枝や、荒れた地面に何度も転びそうになりながら必死でうさぎを追う。
ザッ……!
「あ」
着物の裾が、飛び出た枝に引っかかって、お雪の体は引き倒された。
ガツン
「うっ」
足を滑らせたお雪は、そのまま頭を岩にぶつけ、気を失った。
社からずっと山奥の洞穴には、男がひっそりと隠れ住まっていた。そして、たまに特別な用事がある時以外は日々淡々と、静かな日々を送っていた。
男が山の中を歩いていると、岩の向こうに黒い何かが雪に埋もれて見えた。
近づいてみると、黒い何かは女の髪の毛で、それは若い娘だった。
女の傍らにはお守りが落ちている。この女のものなのだろう。男は自分の懐にそれをしまった。
女の頭からは血が流れ、雪の上に血溜まりが出来ている。
「死んでるのか」
耳を寄せると、まだ息をしているのがわかった。だが、このまま放置すれば、やがて死んでしまうだろう。
生まれて初めて、生きた女の頬に触れてみる。柔らかく、温かかった。男は、このまま自分の手で生かしてみたらどうなるだろう、と考えた。
「……連れて、帰ってみるか」
男は女を抱き上げ、住処に連れ帰ることにした。
ぱちぱちぱち……
薪が燃える音でお雪は目を覚ました。炎の灯りに照らされたごつごつとした岩肌の天井が目に入る。
「痛っ!」
起きあがろうと頭を上げると、ぶつけた所が激しく痛んだ。
ふと、視界が暗くなる。不思議に思ってお雪は視線を上にやった。
「ひっ」
そこには目も隠れるほど長く前髪を垂らし、蒼白い肌をした背の高い不気味な男が立っていた。
「……か」
男が掠れた声で言う。
「え?」
お雪が首を傾げると、
「痛いか」
男は先ほどより幾分はっきりとした声色で言った。
お雪は戸惑いながらもこくりと頷いて見せた。男はそれを見ても表情ひとつ変えず、ぴくりとも動かない。痺れを切らしてお雪が、
「あの」
言いかけると、今度は
「怖いか」
男は唇だけを動かして言った。
「!」
正直に怖いと言えばどうなるのだろうか。答えられないまま、お雪の視線は宙を彷徨った。そんなお雪の心を知ってか知らずか男はお雪から離れると、焚き火のそばへと腰を下ろした。
その様子を見ると、お雪はほっと息をついた。
(ここはどこなのかしら)
痛む頭に手をやると、丁寧に布が巻かれていた。男の方へ視線を向ける。
「貴方が手当、してくださったのですか?」
男はぴくりともせず、ただ黙って向こうを向いて座っている。その様子に困ってお雪は眉を下げた。
痛む所を庇いながら、そろそろと身を起こす。
そっと周りを見回すと、どうやらここは洞穴のようだ。お雪が寝かされていた場所には申し訳程度に敷物が敷いてある。
「あの、私、お雪と申します。お助けいただいたようで、ありがとうございます」
黙って焚き火に薪をくべる男に、先程よりも少し明るい声色で呼びかけてみる。
だが、相変わらず男はぴくりともせず、振り向きもしない。仕方がないので、お雪は頭を抱えながら立ち上がると、男の方へ近寄った。
焚き火を挟んで男の正面にしゃがみ込む。と、男がいきなり立ち上がったので、驚いたお雪も釣られて立ち上がった。男はそんなお雪には構わず、お雪が寝ていた場所から敷物を取ると、お雪の隣に立った。
見下ろされる形になったお雪が咄嗟に身をすくめる。が、男は黙ってお雪が座ろうとしていた場所に敷物を敷いた。そしてまた元の場所へ座り、
「着物が、汚れる」
と一言呟くとまた口を閉じた。
お雪は一瞬ぽかんとした顔をした後、にこりと笑った。
「お優しいのですね」
お雪は敷物の上に腰を下ろすと、洞穴の中を再びぐるりと見回した。作りかけの竹細工や、木で彫った置物、鉈や斧、着物のようなもの、椀や箸など人が生活しているとひと目でわかる物が沢山置いてある。
お雪は男の顔を見た。歳の頃は自分と変わらぬくらいだろうか。垂れた前髪で目元は隠れて見えないが、きゅっと一文字に結ばれた口元はなかなか凛々しい。ふと、お雪は疑問に思う。
(村にこんな人いたかしら·····?)
「あの、貴方のお名前も良かったら教えてくださいな」
男は隠れた目で少しだけお雪の方を見るような仕草をしたが、また焚き火の方へと視線を戻したようだった。
お雪は段々と不安になってきた。
ここは一体どこなのかしら·····。
この人は本当は助けたわけでなく、私が気を失っているところを都合よく黙って連れてきたんじゃないかしら·····。
なんのために……?
そう考えていると、この男に自ら近づいた先程の行いが酷く恐ろしく思えてきた。不用心が過ぎた。冷や汗が背中を伝い、どくんどくんと脈が速くなる。
「あの、私、帰ります。きっと家族が心配しているだろうから」
そう嘘をつくと、お雪はかけ出さんばかりの勢いで立ち上がった。それを阻むように男が立ち塞がる。
「通してください·····!」
お雪は男の体を両手で押した。
「外は、暗い」
男はお雪にぎゅうぎゅうと体を押されながらぼそりと言った。
「わかってます!」
「危ない」
「わかってます!」
「そんなに、帰りたいか」
「·····え?」
男の声に少し寂しそうな陰りがさしているのを感じたお雪は、男を押していた両手の力をゆるめその顔を見上げた。
お雪はその目に吸い込まれそうになって息を飲んだ。
(赤い、瞳)
下から覗き込む形になってようやく見えた男の瞳は、燃えるような赤だった。村では忌まれるその色に、お雪は心を奪われた。
「·····綺麗」
(母さんが持っていた、簪の飾りの色みたい)
「綺麗?」
男の言葉でお雪は我に返る。なんのことかと言いたげに、男は黙ってお雪を見た。
「いいえ、なんでもありません」
お雪は顔を伏せると、再び男の体を押した。
「帰るのか」
「帰ります!」
「また、滑る」
「大丈夫です!」
男はお雪の道を塞ぐのをやめ、
「本当に、一人で行くのか」
と言った。
「はい」
男の言葉を背にお雪がずんずんと歩き出そうとすると、ぐるりと視界が回った。頭を打ったせいだろう。よろよろとその場にへたり込む。が、その瞬間お雪の体は宙に浮いた。
気づけば、男の腕に抱かれている。その抱き方はぎこちなく、
「離してください……!」
お雪はじたばたと手足を動かしたが、
「暴れるな、落ちる」
と男に言われ、振り上げた腕を静かに下ろした。
「そんなに帰りたいなら、連れて行ってやる」
男はお雪を腕に抱いて、山を下り始めた。
「着いたぞ」
その声で自分がうとうととしていたことに気づく。見上げると、赤い目が二つお雪のことを見つめていた。
男はお雪を下ろすと、行く先に指を指し、
「ここから真っ直ぐ行くと村に下りられる」
と言った。
「ありがとうございました」
礼をし、お雪が歩き出そうとすると、
「雪」
男が呼び止めた。
「俺のことは、誰にも言うな」
男の赤い目がお雪の脳裏を過ぎった。
お雪は一瞬の間をおいて、
「……わかりました」
と答えた。
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