第11話 肥田 響呼 (ひだ キョウこ)①

 これは、202X年8月某日に行われた肝試きもだめしの記録である。

 記録者は、わたし、キョウです。


 できる限り正確に残そうと努めました。記憶が薄れていく前に、少しでも多くのことを言葉にしたかった。でも、いくつかの部分はどうしても曖昧あいまいで、確証かくしょうが持てない。頭の中でははっきりしているはずなのに、いざ書き出そうとすると、細部がぼやけてしまう。写真や日記を見返しても、そこにあるはずのものが見当たらず、記録されたはずの言葉が消えている。スマホのメモも、保存したはずの文章が空白になっていた。タイトルだけ残っていて、本文が抜け落ちている。まるで、何かが意図的いとてきに削除したみたいに。しかも、それが人の手によるものではなく、もっと根本的な、記憶そのものを改ざんするような力によって起きたような気がしてならない。


 それでも、わたしはこの記録を残す必要があると感じた。これは、わたし自身のための記録であり、同時に、誰かに向けた報告でもある。もしかしたら、これを読む「誰か」が、わたしの代わりに何かを見つけてくれるかもしれない。わたしが見落としたもの、あるいは、わたしには見えなかったものを、誰かが拾い上げてくれるかもしれない。そう思うことで、少しだけ救われる気がした。


 S村の入り口には、赤い手形があった。門の柱に、べったりと貼りつくように残されていた。乾いているようで、どこか湿っているようにも見えた。色は鮮やかで、まるでついさっき誰かが押しつけたかのようだった。誰かが「いたずらデショ」と軽く言い、誰かがスマホを取り出して写真を撮った。その場では笑い声もあったように思う。だが、その写真を後で確認したとき、背景に見知らぬ顔が写っていた。知らない顔だった。その顔は、笑っていたように見えた。口元が歪んでいて、目は笑っていなかった。少なくとも、わたしにはそう見えた。誰にも言えなかった。言ったところで、信じてもらえない気がした。


 山道を歩いているとき、風の音に混じって、女の人の笑い声が聞こえた。はっきりとした声だった。耳元で囁くような、でも確かに遠くから届いてくるような声。わたしは立ち止まり、耳を澄ませた。誰かが「気のせい気のせい」と言い、誰かがわたしの腕を握っていた。冷たい手だった。その冷たさが、妙に現実的で、夢ではないことを教えてくれた。前を歩いていた誰かの背中を見ながら、ふと手形の数が気になった。振り返ると、門の柱にあった手形が増えている気がした。最初は一つだったはずなのに、二つ、三つと、赤い跡が増えていた。数え間違えただけかもしれない。けれど、わたしは確かに、最初は一つだったと記憶している。その確信が、妙に強くて、逆に怖かった。


 誰かにそのことを伝えると、「わかんない」と言われた。その言葉が、妙に遠く感じられた。距離の問題ではなく、音の質が違っていた。まるで、水の中から聞こえてくるような、くぐもった声だった。


 村の奥にある大きな建物に到着したとき、誰かが古びた、気味の悪い人形に触れた。白い顔、黒目がちな大きな瞳の人形を、「かわいい」と言って頭を撫でた。その瞬間、人形の首がかすかに傾いたように見えた。ほんのわずか、ほんの一瞬。でも、わたしは確かに見た。その動きは、風でも重力でも説明できないような、意志を持った動きだった。しかし、他の誰かたちは気づいていないようだった。誰も何も言わず、ただ次の部屋へと進んでいった。

(続く)


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